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島原の町並み



島原の町並み(しまばらのまちなみ)その1 2008年05月18日訪問

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島原  大門

 角屋もてなしの文化美術館から町に出る。現在の島原は、東の大門から西は千本通までの東西約200メートル、北は中央市場青果棟の南側道路から南は正面通南一筋目の道路までの南北約250メートルの範囲となる。島原の中には中之町、上之町、中堂寺町、太夫町、下之町そして揚屋町の6つの町が存在している。

 日本の公娼地の始まりは、第3代将軍・足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町とされている。それからかなりの時が経ち、角屋の項で触れたように、天正17年(1589)原三郎左衛門らが豊臣秀吉の許可を得て、柳馬場二条に島原の元となる柳町を開いている。この時、角屋の初代徳右衛門も営業を始めている。柳町は慶長7年(1602)六条付近に移され、六条三筋町と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出している。更に寛永18年(1641)朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後島原と呼ばれるようになる。 新しい土地の周りには、壁や堀を巡らせ東の大門が作られる。島原は元禄年間(1688~1703)に最盛期を迎えるが、立地が悪かったこと、そして格式の高さが原因となり、祇園町、祇園新地、上七軒、二条などの遊里に人が流れていき、盛衰を繰り返したものの次第に衰退していく。

 島原の入口は上記のように東大門のみであったが、その後に西門が作られ劇場も開設されるようになる。これに伴い一般女性もこの地域内に入るようになり、開放的な町となっていった。廓の女性達も手形が必要ではあるものの自由に廓の外へ出ることができたようだ。そして天保13年(1842)以降は土塀や堀も無くなり、老若男女の誰でも出入りができたとされている。そのため清河八郎や頼山陽のように実母を親孝行として揚屋で遊ばせた話しも残されている。

 島原が吉原と異なる点は、街としての開放性であろう。吉原は周囲に10メートル幅の堀を設け、入口を一つに限り厳しい管理を行い、遊女を閉じ込めている。その結果、逃げ出すための放火が頻繁に起こり、新吉原時代の190年間に21回、明治期には7回もの大火が発生している。これに対して島原は360年間に放火による火事はなく、嘉永7年(1854)に失火によって島原の東半分が焼失したのみである。吉原が廓となったのは、単に地勢状の問題や都市構造からのものでなく、島原にはない業務上の要請によっていることは明らかである。

 吉原が花魁であるのに対して、島原では太夫を最高位としている。官許により遊宴の席で接待する女性を傾城と呼んでいるが、元は「漢書」外戚伝の

     一顧すれば人の城を傾け、再顧すれば人の国を傾く

から来ていることは明らかである。太夫とは、もともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であった。最初は京の女歌舞伎で活躍した女性が舞太夫や能太夫などと呼ばれてきたが、寛永6年(1629)女歌舞伎が禁止されて以降、優れた技能、教養を持つ最高位の遊女の名として定着する。角屋の公式HPでは、六条三筋町時代に四条河原で能や舞に明け暮れ、その中から優れた傾城を能太夫、舞太夫と呼んだことを太夫の始まりとしている。太夫は通称「こったい」とも呼ばれ、置屋に所属し、揚屋に派遣される。舞や音曲の他に、茶、花、和歌、俳諧などの教養を身に付けていたのには、御所の公家が島原の客となっていたことが影響していたのであろう。例えば後水尾帝には、禁中法度を無視し宮中に遊女を招きいれたり、遊郭にまでおしのびで出かけたという逸話が残されている。
 江戸中期には炭太祇が主宰となり、親交のあった与謝蕪村らとともに俳諧活動を行う一方、嶋原の太夫や文人らによる和歌などの文芸活動も盛んに行われてきた。しかし明治時代に入ると公家や武家の常連客が去って行ったため、島原の衰退はさらに進行する。太夫道中などの行事によって支えてきたが、昭和後期にお茶屋、太夫、芸妓の人数も減り、お茶屋組合が解散して普通の住宅地となった。残存していた多くの建物や門も取り壊しなどで姿を消し、現在は大門、輪違屋、角屋がその面影をとどめるに至った。

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島原  輪違屋

「島原の町並み」 の地図





島原の町並み のMarker List

No.名称緯度経度
 角屋 34.9922135.7433
 輪違屋 34.9928135.7445
03  島原大門 34.9925135.745

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コメント

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