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近江屋跡 その2



近江屋跡(おうみやあと) その2 2008年05月18日訪問

画像
近江屋跡 坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑

 船中八策の全てが龍馬のアイデアではない。文久2年(1863)幕府総裁職に就任した松平春嶽のために、横井小楠が幕政改革の方針を国是七条により定めている。船中八策はこの国是七条に強い影響を受けている。そして龍馬も推奨した公議会論は慶応4年(1868)越前藩士由利公生による五箇条の御誓文の草案へとつながっていく。現在、船中八策の作者が坂本龍馬であること事自体にも疑いが持たれている。確かに龍馬の手による船中八策が発見されていないため証明することはできない。そういう意味でも、この時代のある範囲の人々、例えば松平春嶽、横井小楠そして赤松小三郎などが共有していた徳川幕府から移行すべき理想的な新政府像のひとつであったかもしれない。

 坂野潤治氏による「未完の明治維新」(ちくま新書 2007年)では、公議会論で語られてこなかった政権の存在を明らかにしている。徳川慶喜にとっての公議会論は、あくまでも中央政府としての幕府を前提としたものである。行政府の存在しない議会制度は成立しないからである。朝廷や討幕勢力が日本国の統治を行えないことを知っていたから、慶喜は政権をそのまま維持したまま、将軍職という名義のみを大政奉還で返上している。
 この公議会論は、武力討幕路線へ変更した薩摩藩と岩倉にとって、政権を保持したままの徳川慶喜に付け入る隙を与えることとなる。だから決して認めることの出来ないものであり、この大政奉還が行われた慶応3年10月14日から王政復古の12月9日まで間、徳川慶喜の握る政権を如何にして無力化するかの綱引きが行われる。そして王政復古によって江戸幕府と摂政・関白の廃止、その上で辞官納地を要求している。少なくとも慶応3年(1867)の年末までは、未だ朝廷を中心とする新政府に、徳川幕府に代わる政権執行能力は無かった。そして慶応4年(1868)1月3日鳥羽伏見で旧幕府軍と新政府軍の衝突が生じる。

 近江屋事件が起きた慶応3年(1867)11月15日は、大政奉還が成立した10月14日から王政復古が発せられた12月9日までの丁度、中間にあることが分かる。龍馬は越前藩から帰京した11月5日以降に新政府綱領八策画像)を記している。
     1 天下有名の人材を招致し顧問に供ふ
     2 有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ現今有名無実の官を除く
     3 外国の交際を議定す
     4 律令を撰し新に無窮の大典を定む、律令既に定れは諸侯伯皆此を奉して部下を率す
     5 上下義政所
     6 海陸軍局
     7 親兵
     8 皇国今日の金銀物価を外国と平均す

 ここには既に大政奉還はない。5は立法府であることは明らかであり、4は司法府のように見える。T.S.さんのHP 幕末備忘録(http://www2.odn.ne.jp/kasumi-so/bakumatu/jiken/hassaku.htm : リンク先が無くなりました )では1は行政府としているが、現在の感覚からすると官僚を伴わない内閣に近い存在のようにも思える。また「諸侯伯皆此を奉して部下を率す」とは、廃藩置県を想定した中央集権までは想定していなかったのかもしれない。ここで一番気になる表現は以下の一文である。
     「強抗非礼公議に違ふ者は断然征討す、権門貴族も賃借する事なし」

 新政府に対抗勢力に対しては如何なる者にも征討を辞さないことを表明している。ここで創立した新政権が唯一無二のものであり、政変や武力闘争が再び行われることが無いように抑止力を持った新政府を想定している。これは佐幕派に対する強い意思表示ではあるが、その後の西南戦争を含む士族の反乱をも見据えているようにも考えられる。
 また、この文書には、

     「〇〇〇自ら盟主と為り此を以て 朝廷に奉り始て天下万民に公布云々」

とある。この〇〇〇に何が入るかが論議され、それが暗殺の原因になったとするテレビ番組(http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2010/100423-73.html : リンク先が無くなりました )もあったが、それほどのことであろうか?この新政府綱領八策に先立って海援隊士長岡健吉と三条実美の家人戸田雅楽と相談して、新政府の人事案とも言える新官制擬定書を作り上げたとされている。
     関 白:三条実美(公卿)

     内大臣:徳川慶喜(徳川)

     議 奏:有栖川宮熾仁親王(宮家)、仁和寺宮嘉彰親王(宮家)、山階宮晃親王(宮家)、
     島津忠義(薩摩)、毛利広封(長州)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)、
     鍋島閑叟(肥前)、徳川慶勝(尾張)、伊達宗城(宇和島)、正親町三条実愛(公卿)、
     中山忠能(公卿)、中御門経之(公卿)

     参 議:岩倉具視(公卿)、東久世通禧(公卿)、大原重徳(公卿)、長岡良之助(肥後)、
     西郷吉之助(薩摩)、小松帯刀(薩摩)、大久保一蔵(薩摩)、木戸孝允(長州)、
     広沢平助(長州)、横井小楠(肥後)、三岡八郎(越前)、後藤象二郎(土佐)、
     福岡藤次(土佐)、坂本龍馬(土佐)

 この人事案を龍馬が主体的に作成したものならば、上記の〇〇〇は内大臣に挙げられた徳川慶喜であってもおかしくないだろうし、それを隠していることに大きな問題はなかったように思われる。議奏に選ばれた藩主達には、それぞれ同じ藩の参議が付けられているが、内大臣の徳川慶喜以外に誰も徳川幕府から選ばれていないということは、最初から棚上げ状態であったということだろう。

「近江屋跡 その2」 の地図


大きな地図



近江屋跡 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 近江屋跡 35.0055 135.7691
 鳥新 35.0036 135.7706
  土佐藩邸01 35.0058 135.7693
  土佐藩邸02 35.0055 135.7698
  土佐藩邸03 35.0058 135.7704
  土佐藩邸04 35.0061 135.7698
01   大和屋(福岡孝弟寓居跡) 35.0053 135.769
02  菊屋 35.0045 135.7694
03  谷干城寓居跡 35.0042 135.7698
04  酢屋 35.0084 135.7699
06  土佐藩邸 35.0058 135.7699

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