東山の町並み
東山の町並み(ひがしやまのまちなみ) 2008年11月22日訪問
青蓮院門跡(その2 その3 その4)の御幸門を後にして、神宮道を南に下ると十樂院上陵への参道が左手に見える。さらに先に進むと華頂道が西から入ってくる.。このあたりから、知恩院の寺域が始まる。程なくするとライトアップされた知恩院の山門が現れる。さらに南に進むと、いつの間にか円山公園の中に入り込んでいる。長楽館本館の前を過ぎると、高台寺は目の前である。祇園閣のある大雲院を左に折れると一念坂、二寧坂そして産寧坂から清水寺へとつながって行くねねの道が始まる。
最初に目を引くのが、ねねの道から左に入っていく高台寺塔頭の岡林院であろう。分かり難い場所ではあるが正面の築地塀に開けられた丸い開口がライトアップされていることにより、その場所を覚えることが出来る。先に進むと右手に圓徳院、左手に月真院が並ぶ。 月真院は岡林院とともに非公開の寺院である。この日も山門の中に入ることが出来なかったが、山門正面の築地塀がライトアップされている。
慶応3年(1867)3月10日に伊東甲子太郎ら十数名は、孝明天皇の御陵衛士を拝命している。3月13日夜、新選組局長近藤勇らと分離策について話合いを行い、了承を得ている。同20日に新選組屯所を出ているが、月真院を屯所としたのは慶応3年(1867)6月のことだったようだ。そして11月15日、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客に襲撃される。この暗殺の前に伊東は坂本と中岡に危険を伝えていたようだ。そしてその3日後の11月18日、近藤の招きに応じた伊東は近藤勇の妾宅で議論した帰り道、木津屋橋近くで新選組の待ち伏せに遭い殺害される。そして翌日未明の油小路の闘いへとつながっていく。だから伊東達が月真院を屯所としていた時期は半年に満たなかった。
台所坂の前に来ると高台寺の夜間拝観を待つ人々の数が、大きいことが分かる。これから列に加わることが難しいようなので、拝観は次回にすることとし、西に曲がり石塀小路へ入って行く。やはり高台寺の夜間拝観のためか、石塀小路を行き交う人々の数はいつもより多いような気がする。圓徳院の西側のレンガ塀を見ながら、石塀小路の3つの出入口のひとつの西北口から、下河原通に出る。この道は東大路通の東側に並行して走る道で、八坂神社の南楼門から南方向へ延びる。
この道を南に下ると八坂の塔の少し西側で八坂通に突き当たる。坂の下から仰ぎ見る八坂の塔は、建物の隅々まで光が当てられており、ディーテールまで良く分かる。高密度な住宅街にある狭い敷地で、照明機器の配置が難しかったのではないだろうか。庭園の夜間拝観とは違い、石塀小路や八坂の塔は誰でも何時でも見ることのできる点で、最も京都の夜を感じられる風景となっている。
八坂通をそのまま西に向かうと、東大路通に突き当たる。そのまま東大路通を横断して、進むと建仁寺の南に建つ勅使門の前を通る。五条大橋の一本北側の橋で鴨川を渡ると、すぐに河原町通に出る。今朝、東福寺に向かう前にコインロッカーに預けた荷物を引き取るため、ここから市バスに乗車し京都駅に向かう。
「東山の町並み」 の地図
東山の町並み のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
石塀小路01 | 35.0009 | 135.7787 | |
石塀小路02 | 35.0009 | 135.779 | |
石塀小路03 | 35.0006 | 135.7792 | |
石塀小路10 | 35.0003 | 135.779 | |
石塀小路11 | 35.0002 | 135.7793 | |
石塀小路12 | 35.0001 | 135.7794 | |
石塀小路13 | 35 | 135.7794 | |
石塀小路14 | 35 | 135.7795 | |
石塀小路15 | 34.9999 | 135.7796 | |
01 | ▼ 青蓮院 御幸門 | 35.0073 | 135.7828 |
02 | ▼ 知恩院 三門 | 35.0047 | 135.7818 |
03 | ▼ 円山公園 | 35.0035 | 135.7807 |
04 | ▼ 長楽館 | 35.0029 | 135.7804 |
05 | ▼ 祇園閣 | 35.0021 | 135.7797 |
06 | ▼ 高台寺 岡林院 | 35.0015 | 135.7803 |
07 | ▼ 高台寺 月真院 | 35.0009 | 135.7802 |
08 | ▼ 八坂の塔 法観寺 | 34.9986 | 135.78 |
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