青蓮院門跡 その3
天台宗 青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき) その3 2008年11月22日訪問
青蓮院門跡で既に触れたように、天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡(青蓮院、三千院、妙法院)の一つとして古くより知られている。そして現在も天台宗の京都五箇室門跡(青蓮院門跡、三千院門跡、妙法院門跡、曼殊院門跡、毘沙門堂門跡)の一つに数えられている。 青蓮院の起源は、比叡山延暦寺に作られた僧侶の住坊の一つである青蓮坊と考えられている。青蓮坊は日本天台宗の祖最澄から円仁、安恵、相応等、延暦寺の法燈を継いだ著名な僧侶の住居であり、比叡山東塔の主流をなす坊であった。また、上記の京都五箇室門跡である三千院、妙法院も比叡山山頂にあった坊が起源とされている。
平安時代末期、鳥羽法皇が青蓮坊の第十二代 行玄大僧正(藤原師実の子)に御帰依になり、上皇の第七皇子・覚快法親王をその弟子とされた。院の御所に準じて京都に殿舎を造営し、青蓮院と改称させ、行玄を第一世の門主とした。これが現在の青蓮院の始まりである。当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、鎌倉時代に河川の氾濫を避けるため高台の現在地へ移っている。ここには十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある花園天皇陵も十楽院上陵と称されている。
青蓮院門跡の歴史を語る上で触れねばならない人物が、青蓮院門跡 その2の中川宮朝彦親王以外にも2人いる。 まず1人目は第三代門主となる慈圓である。
青蓮院の公式HPでは、この時期が青蓮院の最も隆盛を極めた頃としている。慈圓は摂政・関白・太政大臣 藤原忠通の子として生まれ、後に九条家の祖となる藤原兼実の弟にあたる。幼くして青蓮院に入寺し建久2年(1192)38歳の若さで天台座主になっている。そして生涯四度も天台座主を務め、後鳥羽上皇の承久の乱の挙兵に反対し、歴史書「愚管抄」を書いたとされる。愚管抄は神武以来、順徳天皇までの天皇年代記、道理の推移を中心とした歴史述叙、そして道理についての総括によって構成されている。慈圓は単に天台座主の立場から愚管抄を記したのではなく、権力の中枢である藤原家出身者として歴史を政治から読み解いたとも思える。
また慈圓はこの承久の乱の戦後処理として藤原兼実の曾孫である仲恭天皇が廃位されたことに対し、鎌倉幕府を非難した上で復位を願う願文も納めている。慈圓は当時異端視されていた法然の専修念仏を批判はしているが、その弾圧には否定的で法然や弟子の親鸞の庇護も行っている。親鸞は治承5年(1181)9歳の時に慈円について得度を受けており、剃髪した髪の毛を祀る植髪堂が、長屋門の前の駐車場の北側に現存している。
そして今一人は、後に室町幕府第六代将軍足利義教となる義円である。義円は応永元年(1394)足利義満の三男として生まれる。第4代将軍足利義持の同母弟であるにもかかわらず、足利幕府将軍の家督相続者以外の子であるため応永10年(1403)慣例により青蓮院門跡となる。天台開闢以来の逸材と呼ばれ、同26年(1419)153代天台座主となり、将来を嘱望されていた。しかし同32年(1425)兄の第四代将軍足利義持の子である第五代将軍足利義量が急逝し、義持も正長元年(1428)に重病に陥る。
病床の義持が後継者の指名を拒否したため、梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中から将軍を決めるために石清水八幡宮でくじ引きを行うこととなった。義持の没後に開封され、義円が後継者に決まる。正長元年(1428)足利義教が第6代将軍となり、籤引き将軍と呼ばれるようになった。
将軍に就任した義教は、父である足利義満の治世を手本とし、失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活に着手した。かつて天台座主であった義教は、自らの弟である義承を天台座主に任じ、天台勢力の取り込みも図った。しかし山徒による園城寺焼討ち事件に対して、自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲するなど、必ずしも良好な関係を築くことが出来なかった。むしろ永享5年(1433)には、比叡山一帯を包囲して物資の流入を妨げた上で、門前町の坂本の民家に火をかけている。そして京に出頭した4名の山門使節を斬首に処したため、延暦寺の山徒は激昂し抗議のため根本中堂を自らの手で炎上させている。
このような義教の苛烈とも思われる政治手法は、彼の性格によっていたのかもしれない。些細なことで激怒し厳しい処断を行った逸話が多く残り、万人恐怖と形容された世でもあった。そして自らの最期にも大きな影響を与えている。永享9年(1437)頃より、赤松満祐は将軍に討たれるという噂が流れていた。そのような状況で嘉吉元年(1441)赤松氏は義教の御成を招請している。御成は、将軍が家臣の館に出向き祝宴を行う重要な政治的な儀式であったため、義教は少数の側近を伴って赤松邸に出かけた。そして祝宴の最中に赤松氏によって暗殺される。将軍を失った幕府は混乱し、討手を差し向けることができず、赤松満祐、教康の父子は無事に播磨に帰国してしまう事態に陥る。この将軍暗殺から、細川持常や山名持豊らの追討によって赤松氏が滅亡するまでを嘉吉の乱という。
義教が目指した幕府権威の復興は、勘合貿易の再開による財政改革、そして上記のような社寺勢力への積極的な介入、将軍直轄の奉公衆の整備による軍制改革、そして関東平定などによってある程度の成果をあげたと考えられている。しかし強引とも思える政治手法が祟り、将軍就任後13年で暗殺され、幕府権力を強固なものとするまでにまでには至らなかった。
足利義教の死後、青蓮院もまた応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱で殿舎はことごとく焼失する。
このように青蓮院の歴史を眺めると、鎌倉時代の慈圓、室町時代の足利義教、そして江戸時代末期の中川宮朝彦親王と、門跡寺院とは結び付きづらい政治に関与する門主を輩出して来たことが分かる。もともと能力の高い人材であったが、単に生まれた順番が遅かったというような理由によって宗教の世界に押し込められてきたことを考えれば、このような政治的活動は当然の帰結かもしれない。
応仁の乱の後、ながらく荒廃していた寺域は豊臣秀吉や徳川家康らによって復興されている。
そして江戸時代中期の天明8年(1788)旧暦1月30日の未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子(現在の京都市東山区宮川筋付近)の空家から出火し、折からの強風に乗って南は五条通にまで、更に火の粉が鴨川対岸の寺町通に燃え移って洛中に飛び火した。この天明の大火は、出火場所より団栗焼けとも呼ばれる近世の京都で発生した最大規模の火災である。御所も炎上し後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難してくる。明和年間(1764~72)に建てられた好文亭は、御学問所として使用された。そのため青蓮院は粟田御所と呼ばれ、青蓮院旧仮御所として国の史跡にも指定されている。現在も長屋門の右手に青蓮院旧仮御所の碑が建つ。
青蓮院は明治26年(1893)の火災で建物の大部分を焼失している。好文亭と御幸門、長屋門は残ったが、その好文亭も平成5年(1993)4月25日、沖縄植樹祭に反対する中核派によって放火、焼失してしまう。この時、三千院や仁和寺など皇室関連施設6箇所が放火、爆破されている。現在の建物は平成7年(1995)に再建されたもので、茶室として使われている。
「青蓮院門跡 その3」 の地図
青蓮院門跡 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 青蓮院 長屋門 | 35.0075 | 135.7829 |
02 | ▼ 青蓮院 宸殿 | 35.0072 | 135.7831 |
03 | 青蓮院 小御所 | 35.0071 | 135.7834 |
04 | ▼ 青蓮院 華頂殿 | 35.0074 | 135.7836 |
05 | 青蓮院 本殿 | 35.007 | 135.7835 |
06 | ▼ 青蓮院 好文亭 | 35.0074 | 135.7839 |
07 | ▼ 青蓮院 相阿弥の庭 | 35.0072 | 135.7836 |
08 | 青蓮院 霧島の庭 | 35.0076 | 135.7838 |
09 | ▼ 青蓮院 植髪堂 | 35.0079 | 135.7833 |
10 | ▼ 青蓮院 御幸門 | 35.0073 | 135.7828 |
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