禁裏御陵衛士墓所
禁裏御陵衛士墓所(きんりごりょうえじぼしょ) 2008年12月22日訪問
泉涌寺総門の手前には、鳳凰を屋根の上に載せた即成院の山門がある。改めて即成院の項で書くこととするが、この地に移転してきたのは明治35年(1902)のことである。それ以前、この場所は南東に隣接する戒光寺の境内であった。今も即成院山門の西側にある墓地は戒光寺が管理している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の新熊野社の図会には、泉涌寺の総門とともに泉涌寺道に向かって北側から登ってくる坂が描かれている。この坂は現在も階段として存在している。そして、この坂から総門の間は塀が巡らされているので、戒光寺以外の塔頭が建てられてはいなかった。 前回訪問した際も即成院の山門の左手にある戒光寺の墓地には気付かなかった。今回も注意深く探したから分かった位、目立たない存在である。この墓地の中に、油小路事件で殺害された伊東甲子太郎をはじめとする禁裏御陵衛士の墓所がある。
後に新選組を離脱し禁裏御陵衛士を結成する伊東甲子太郎は、天保6年(1835)常陸志筑の鈴木専右衛門忠明の長男として生まれている。父忠明の隠居を受けて家督を相続するも、父の借財が明らかになったことから志筑を追放されている。その後、水戸へ遊学し金子健四郎より神道無念流の剣術を学ぶ。この時期、水戸藩士でない伊東も水戸学に触れることで勤王思想に深く傾倒している。遊学の後、父の開いた村塾の教授を経て江戸に出る。深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門している。時期不明であるものの文久2年(1862)頃には、師匠の伊東精一に力量を認められ婿養子となっている。後に同志となる加納鷲尾、内海次郎、中西登そして藤堂平助らが伊東道場に出入りしていたのもこの頃である。元治元年(1864)天狗党筑波挙兵の報せを聞き助勢に傾くも、挙兵自体が藩内の内部抗争であり真の攘夷でないことに気付いたのか断念している。伊東の考えの根底には水戸学があるが、天狗党のような激派とは異なっていたようだ。このあたりの志向が直線的な尊王倒幕ではなく御陵衛士へとつながっていったのではないか?
この元治元年(1864)6月5日に池田屋事件、そして7月19日に禁門の変が起きている。新選組も新規隊士の募集を行い、組織の拡大を図っている。同年9月頃、近藤勇と出会い新選組へ合流し、10月27日上洛している。この10月には第一次長州征討が行われるが、国司信濃・益田右衛門介・福原越後三家老の切腹と三条実美ら五卿の他藩への移転により12月には終結している。
新選組合流後の伊東は長州訊問使・大目付永井尚志に随行として、近藤と共に慶応元年(1865)11月京都を出立し、広島に向かった。さらに岩国において長州入りを交渉するが拒絶され、同年末に京都に戻っている。翌慶応2年(1866)1月、再び近藤と共に長州処分通達のため広島に派遣される。近藤は土方に新選組を任せ、2度に渡り伊東と共に長州との交渉に臨んでいる。伊東の見識の広さと弁舌に期待したのであろう。既に新選組を運営していく上で政治的な行動も要求されるようになり、武闘一辺倒では立ち行かなくなっている。
この時も前回同様、不調に終わり3月末には伊東は京に戻っている。実際に長州戦争が始まるのは、さらに先の6月7日である。そして7月20日には第14代将軍徳川家茂が亡くなっている。代わって徳川慶喜が全軍の指揮を執るも挽回を果たせず、9月2日に幕府と長州藩の間に停戦が合意される。
既に徳川宗家の相続をした徳川慶喜は、将軍職の就任は拒んできた。そして将軍宣下を受けて就任したのは慶応2年(1867)12月5日である。松平春嶽が慶喜を「ねじあげの酒呑み」と評したとされているが、正に本領発揮である。自分以外に将軍足り得ないことを周囲に理解させた上で、推挙されての将軍就任を見事に演出した。しかしその数日後に予想もしない展開となる。慶応2年(1867)12月25日、慶喜にとって最大の支援者であるはずの孝明天皇が突然崩御する。時期が時期であったため死因については毒殺説等も出るが、現在のところ平成元年(1989)から同2年(1990)にかけて原口清氏によって発表された「孝明天皇の死因について」「孝明天皇は暗殺されたのか」の論文において示された紫斑性痘瘡説が有力視されている。
慶応3年(1868)正月27日に孝明天皇の大葬が執り行われる。山陵奉行・戸田忠至の建言を受け、従来の仏式葬の石塔から古式に改め、後水尾天皇から仁孝天皇まで続いた月輪陵、後月輪陵への埋葬ではなく、その東側に新たに後月輪東山陵の築陵がなされた。
伊東は以前より懇意にしていた戒光寺の長老・堪然に仲介を頼み、慶応3年(1867)3月10日に孝明天皇の御陵守護の任を拝命し、山陵奉行・戸田忠至の配下となっている。山陵奉行とは、山陵の管理と修補を行う江戸幕府の職であったが、任命権は朝廷にある。その上で慶応3年(1867)3月13日、伊東甲子太郎等は思想の違いから新選組を離脱し、同士10数名と禁裏御陵衛士を結成している。朝廷でもなく幕府でもない山陵奉行という位置取りが妙手となっている。この肩書で薩摩や長州の動向を探るという説明を行えば、新選組離脱も可能だと考えたのであろう。
ヒロさんのHP 誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士 には 既に慶応2年(1865)末より新選組隊士の幕臣取立てが決まっていた としている。幕勢拡張主義である新選組の中にあって、本来目指していた勤王を実行することに限界を感じていただろう伊東にとって、幕臣となることは全く考えてもいなかったであろう。もし伊東が幕臣への取立てを知っていたならば、離脱の方策をその時期から考えていたのは間違いないことである。そして孝明天皇の崩御は正に絶好の機会となった。このようにして伊東甲子太郎を始めとして、実弟の鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助、富山弥兵衛、阿部十郎、内海次郎、加納鷲雄、中西昇、橋本皆助、清原清、新井忠雄、そして斎藤一が離脱して御陵衛士を結成する。
新選組離脱後の御陵衛士は、三条城安寺、五条善立寺(あるいは長円寺)に屯所を設けている。そして有名な高台寺月真院に移ったのは慶応3年(1867)6月のこととされている。つまり離脱以前に活動の拠点となる場所を定めていなかったのであろう。同6月10日には新選組総員を幕臣に取立てることが決まる。御陵衛士に合流できなかった10名の隊士は異を唱え、会津藩に建白書を提出する。この嘆願が受け入れられなかったため、佐野七五三之助、茨木司、富川十郎、中村五郎の4名が会津藩邸で切腹、あるいは新選組によって斬殺される事件が6月14日に起こる。恐らく新選組と御陵衛士間の離脱と加入を禁じる約定が交わされていたのであろう。佐野達4名以外の6名は、新選組から放逐されている。 この事件は新選組と御陵衛士との間の緊張感を高めたことは間違いない。そして互いに襲撃に備えたと思われる。また幕府及び会津藩と薩摩藩との関係も悪化し、御陵衛士と薩摩藩との関係を新選組が疑心暗鬼したことも十分に想像できる。そのような状況の中で11月10日に斎藤一が御陵衛士を脱走し新選組に復帰する。11月15日、近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺され、市中には新選組犯行説が流れる。暗殺から3日後の11月18日、近藤は七条の妾宅に国事の談合と称して伊東を呼び出し、その帰路油小路本光寺で伊東を暗殺する。さらに遺骸を油小路七条に放置、御陵衛士を誘き出し藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名を斬殺する。その他の衛士は死線を切り抜け薩摩藩に保護される。これが大まかな油小路事件のあらましだが、いずれ別の機会にもう少し書いてみたいと思う。この油小路事件の後、伊東ら4名の遺体は壬生の光縁寺に仮葬される。
鳥羽伏見の戦いが終わった慶応4年(1968)2月13日、御陵衛士の同士の手によって光縁寺に仮葬された4名は戒光寺に改葬されている。前述のヒロさんのHPによると、翌明治2年(1869)戊辰戦争で戦死した富山弥兵衛と清原清、同年9月に京都で殺害された佐原太郎、そして慶応3年(1867)6月に会津藩邸で横死した佐野七五三之助、茨木司、富川十郎、中村五郎の合計7名の合祀墓及び新井忠雄の戊辰戦争時の従者高村久蔵の墓が旧衛士によって建立されている。また毛利の出身藩である弘前藩からは香炉と手水鉢が奉納された。三周忌に間に合わせる予定だったが、墓石の仕上げが遅れ明治2年(1869)11月25日に招魂祭が執り行われている。
禁裏御陵衛士墓所は今まで11月18日の法要以外は非公開であったように記憶する。この訪問した日も柵の外側からの参拝であったが、戒光寺の公式HPによると、2010年4月より事前申し込み制で墓参を再開したようだ。ヒロさんのHPには公開される前の状況が掲載されているが、どうも止むに止まれず非公開になったことが想像される。それだけに、写真撮影禁止、新撰組のコスプレ姿での参拝禁止、飲食禁止、聖霊や遺族を侮辱するような言動禁止の上に、参拝料500円は異なった興味での墓参を排除するためと考えたい。 新しいHPの写真を見ると墓所の整備も行われ、周囲を細い金属製の背の高い柵で巡らしている。かなり明るい写真となっているように見えるが、周囲の樹木に手を入れたのだろうか?いづれにしても、この項に掲載した写真はもう撮影できないようだ。
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