泉涌寺 戒光寺
泉涌寺 戒光寺(かいこうじ) 2008年12月22日訪問
法音寺の小さな山門を出る。柵の外側からであるが戒光寺の墓地の一部分にある禁裏御陵衛士墓所を先に参拝している。順番が逆になってしまったが、目の前の石段を上り戒光寺の山門を潜る。
鎌倉時代の安貞2年(1228)宋から帰朝した曇照忍律によって八条大宮の東、堀川の西に後堀川天皇の勅願所として創建されたのが起源とされている。
曇照は浄業とも呼ばれる鎌倉時代の律宗の僧で、文治3年(1187)に生まれている。近江の園城寺や奈良の諸寺で顕密二教を学ぶ。建保2年(1214)宋に渡り、鉄翁守一より具足戒を受ける。帰国後、上記のように戒光寺を創建する。天福元年(1233)頃再び宋に渡り、帰国後太宰府に西林寺、京都に東林寺を開く。正嘉3年(1259)73歳で死去。字は法忍、号は曇照。
曇照の京都に建立した東林寺は既に現存していないが、泉涌寺の塔頭・法音院の西側に泉涌寺東林町という地名が残る。戒光寺の公式HP(http://www.kaikouji.com/temple.html : リンク先が無くなりました )にはこの辺りに東林寺(あるいは東林院)があったとしている。
巨大な伽藍を持つ戒律復興の道場として建立されたため戒光律寺と呼ばれており、皇室から庶民の尊崇を集めるが、応仁の乱により堂舎を焼失し、本尊釈迦如来は兵火を逃れ仮に一条戻橋付近に移る。そして三条河東に移築された後、正保2年(1645)後水尾天皇の発願により泉涌寺の塔頭とされ、現在に至る。尚、最初に創建された猪熊八条(現在の京都駅の西側の東海道本線と新幹線の間)と応仁の乱の後に移った堀川一条(実際には少し離れた元誓願寺通から小川通を下った辺り)の地には、現在も戒光寺町の名が残っている。このあたりの経緯は天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の戒光寺にも以下のように記されている。
当寺初めは猪隈八条にあり、今戒光寺町といふ。其後上京所々にうつり、正保年中今の地に移して泉涌寺に属す
ところで、後水尾天皇によって行われた戒光寺の泉涌寺への移転については、以下のような話が残されている。
後水尾天皇が東宮の時、即位争いが起き、東宮は常に暗殺の影に脅かされていた。ある夜、刺客に襲われるが、東宮の代わりに血を流していたのは、戒光寺の本尊・丈六釈迦如来像であった。東宮はその後無事に即位され、以後も事ある毎にお身代わりに立たれた。そのため後水尾天皇は歴代天皇の中でも極めて長命な85歳の天寿を全うされた。このような理由で皇室とかかわりの深い泉涌寺に移転し、萬歳の后迄崇め奉らんと思し召されたそうだ。
後水尾天皇の父である後陽成天皇は、豊臣秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を皇位継承者としていた。しかし慶長3年(1598)秀吉が死去すると、天皇は良仁親王を皇位継承者から外すことを考え始める。この時は朝廷内や豊臣政権から強い反対が生じ一旦は中止する。
しかし慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は豊臣政権色の強い良仁親王を廃する天皇の意向を受け入れる。これによって、慶長6年(1601)良仁親王は仁和寺真光院に入室し落飾する。同時に天皇は弟宮である八条宮智仁親王への譲位を望むが、これは叶えられなかった。智仁親王もまた秀吉の猶子であったからとされている。そして嫡出男子であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。
結局、幕府の意向通りに皇位は慶長16年(1611)政仁親王が継ぎ後水尾天皇となる。ここに至るまで、実に関ヶ原の戦いから11年間もかかっている。上記の後水尾天皇が身の危険を感じたのはこの時期のことだったのではないだろうか?
戒光寺の本尊・釈迦如来像は鎌倉時代の仏師・運慶と湛慶親子の合作。身の丈は約5.4メートル、台座から後背部を入れると約10メートルに及ぶ大きな仏像である。丈六とは、釈迦の身長が1丈6尺(約4.85メートル)あったとされていることから、その高さの仏像を呼ぶようになった。
寄木造に木像に宋風をおびた極彩色が施され、光背・台座も同時代のもので蒔絵彩色も良く残り、
重要文化財に指定されている。後陽成天皇皇后中和門院の信仰、後水尾天皇の守護仏となった。首の辺りから何か流れている様に見えるのが血の跡だといわれ、先の後水尾天皇の身代わりとなったといわれている。
この事から身代わりのお釈迦様となり、「悪しき事のお身代わりになって下さる」又、「首から上の病気、のどの病気を治してくださる」と崇められ、丈六さんと呼ばれ親しまれている。
山門を潜り境内に入ると右手に本尊・釈迦如来像を祀る本堂とその手前に庫裏を兼ねた拝殿的な役割を持つ建物が見える。本堂は丈六仏を納めるだけに規模の大きな建築になっている。
左手には鳥居があり、その奥に弁財天堂がある。泉山七福神の第二番・泉山融通弁財天を祀る。金銭の融通をして下さる弁天様は、学芸・商売はもとより、あらゆる願いを聞いて下さると信仰が厚い。尊像は伝教大師作と伝えられており、1月の成人の日に行われる七福神巡りと11月3日の弁財天大祭の年2回開帳される。この弁財天堂の右手を下ると即成院の那須与一の墓を納める堂宇の外側が見え、そのまま即成院の境内につながるようだ。
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