泉涌寺 雲龍院
泉涌寺 雲龍院(うんりゅういん) 2008年12月22日訪問
泉涌寺の大門を出る前に、参道の南側の分かれ道を入って行く。泉涌寺 その3で記したように経蔵や解脱金剛宝塔など見ながら東に進むと、雲龍院の2つの門が現れる。
真言宗泉涌寺派は古義真言宗に属し、総本山は泉涌寺である。泉涌寺は密(天台・真言)・禅・律・浄の四宗兼学の道場として、俊芿が開創したことにより始まる。このような独自の宗風を保ち、さらに皇室の香華寺として護られてきたが、明治時代に入ると皇室による保護も無くなり財政的にも逼迫する状態となり衰微している。また追い打ちをかけるように、新政府の宗教政策により、明治5年(1872)には四宗兼学が廃され、真言宗に属する。東寺の管下に入った時期もあったが、明治40年(1907)真言宗古義八派聯合に際して、泉涌寺派として独立している。
太平洋戦争に伴う政府の宗教政策により、昭和16年(1941)古義・新義両派の真言宗各宗派が合同し、大真言宗に統合されている。戦後、大真言宗から独立し昭和27年(1952)真言宗泉涌寺派としている。
総本山・泉涌寺の下に尾道の浄土寺と大阪の法楽寺が本山となり、雲龍院は泉涌寺の別院であり別格本山も兼ねている。さらに塔頭の戒光寺と即成院そして北野の東向観音寺が準別格本山とされている。ヒロさんのHP 誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士 で戒光寺の住職から伺ったお話しということで、戒光寺の長老職は泉涌寺の長老が引退した後に務めていたこと、明治初年に末寺としての扱いになったことが、記されている。真相はよく分からないが、雲龍院を含めた3寺が現在のような形となったのはそれ程古い話しではなさそうだ。
雲龍院は応安5年(1372年)北朝第4代後光厳天皇の勅願により、竹巌聖皐を開山として創建されている。竹巌聖皐は正中元年(1324)京都に生まれている。泉涌寺の第20代長老・拙叟全珍に師事して真言と律を学び、後に第21代長老となる。上記のように後光厳上皇、後円融天皇そして後小松天皇と北朝3代の天皇の帰依を受け、泉涌寺に龍華院、雲龍院を開く。応永9年(1402)79歳で死去。
室町幕府の開闢から雲龍院の創建にかけて、政治情勢は南北朝と幕府の関係が主軸となり推移する。さらに情勢を複雑にしているのは、幕府内における権力抗争が内訌という形なって表われたところにある。そして敵方を駆逐するためには手段を選ばず、その中には南朝とも組むという禁じ手も使用されている。建武の新政という天皇による親政から、建武5年(1338)の室町幕府開闢によって実質的な権力が移行したわけでなく、明徳3年(1392)南北朝間の和平成立によるまでの50年間において徐々に幕府の基盤が堅固なものになって行ったと考えるのが妥当であろう。
建武3年(1336年)足利勢が九州より軍勢を整えて再び京都へ迫る。湊川の戦いで足利直義の軍に敗れた楠木正成は弟の楠木正季と共に自害。また建武5年(1338)、建武新政を支えた新田義貞は越前国で北畠顕家も和泉国の石津の戦いで討死している。そして同年に足利尊氏は、光明天皇から征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いている。翌暦応2年(1339)京を出て比叡山で抵抗していた後醍醐天皇は吉野に移り、後村上天皇に譲位した直後に崩御している。
畿内の安定が保たれるようになると、尊氏の弟で政務を担当する足利直義が勢力を得、軍事指揮権を持つ将軍足利尊氏を補佐する執事高師直の勢力は一時的に後退する。しかし貞和3年(1347)楠木正行が京都奪還を目指して蜂起すると情勢に変化が現れる。直義派の細川顕氏や畠山国清が討伐のために派遣されるも、正行に敗北を喫する。さらに山名時氏が増援されるが、これも京都に敗走している。そのため高師直・師泰兄弟が再び起用される。貞和4年(1348)河内国・四條畷の戦いにおいて高師直・師泰の軍勢が楠木正行に勝利し、正行は弟の楠木正時と刺し違えて自害する。この勝利に勢いを得た幕府軍は、同年中に吉野を攻め落として全山を焼き払うなどの戦果をあげている。今度は幕府内での直義の発言力は低下し、師直の勢力が増大する。これにより両派の対立が改めて表面化することとなる。
貞和5年(1349)足利直義は、上杉重能や畠山直宗の進言に従い、高師直の執事罷免を将軍である尊氏に受け入れさせる。これに対して師直は、河内から軍勢を率いて上洛した師泰とともに直義を討とうとする。危険を察した直義は尊氏の邸に逃げ込むが、師直の軍勢は尊氏邸を包囲し、上杉重能・畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。重能・直宗は配流、直義も出家し幕政から退くことを条件に、師直は包囲を解く。直義に代わり政務を担当するため、尊氏の嫡子義詮が上洛し、直義は出家して恵源と号する。さらに上杉重能や畠山直宗が、師直の配下によって配流先で暗殺されたことから、両者の緊張は再び高まり、これが観応の擾乱の発端となる。
長門探題に任命されて備後国に滞在していた直義の養子・直冬は、直義に味方するために上洛を試みる。しかし幕府討伐軍に敗北し九州に敗走する。直冬は九州や中国地方で勢力を拡大していく。翌観応元年(1350)西国情勢を深刻に捉えた足利尊氏は自ら追討のために出陣する。この将軍出陣より前に京都を出奔した直義は、高兄弟の追討のために諸国に兵を募る。そして光厳上皇による直義追討令が出されると、同年12月に直義は南朝と手を結ぶ。そして観応2年(1351)1月、直義軍は京都に進撃し、留守を預かる足利義詮は備前の尊氏の下に落ち延びる。直義軍は京を目指す尊氏軍を播磨光明寺合戦や摂津打出浜の戦いで破る。
この敗戦をうけて尊氏は師直・師泰兄弟の出家を条件に直義と和睦する。摂津から京都への護送中に直義派の上杉能憲の軍勢により、摂津国武庫川で高兄弟が一族とともに謀殺されるという事件が発生する。能憲は高師直によっては慰留先で暗殺された上杉重能の養子であり、養父の仇を同じ形で果たす。そして直義は義詮の補佐として政務に復帰する。反直義派の旗頭であった高兄弟が殺害され、一旦は平穏が戻ったかのように見えた。しかし直義への対立構造は未だ残され、尊氏と直義の直接対決に変化していく。
近江の佐々木道誉や播磨の赤松則祐らが南朝と通じて幕府に反したとの報を受け、尊氏は近江へ義詮は播磨へそれぞれ出兵する。これは尊氏と道誉、則祐との間に密約が結ばれており、直義への陽動作戦でもあった。しかし直義もこの尊氏軍の動きを察知し、挟撃を避けるように北陸から信濃を経て鎌倉へ至る。これにより、依然として西国に勢力を保つ直冬の他に、新たに関東・北陸・山陰を拠点とする直義派が発生したことになる。
直義派掃討のために、二方面に対して派兵することが必要となった。その足固めとして、尊氏は南朝と交渉し和議の提案と直義・直冬追討の綸旨を要請している。南朝も北朝が保持していた三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件に和睦に応じ、観応2年(1351)10月には尊氏は南朝に降伏して綸旨を得ている。
この尊氏の南朝への降伏により、北朝の崇光天皇や皇太子直仁親王は廃され、関白二条良基らも更迭されている。年号も北朝の観応2年(1351)が廃され、南朝の正平6年(1351)に統一される。いわゆる正平一統が成立する。この南朝との和睦により尊氏は、翌正平7年(1352)に直義を駿河国薩埵山、相模国早川尻などの戦いで破り、降伏させている。そして鎌倉に幽閉された直義は同年(1352)2月に急死している。
「泉涌寺 雲龍院」 の地図
泉涌寺 雲龍院 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 表門 | 34.9772 | 135.7798 |
02 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 龍華殿 | 34.9771 | 135.7801 |
03 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 霊明殿 | 34.9769 | 135.7802 |
04 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 山門 | 34.9773 | 135.7799 |
05 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 庫裏 | 34.9772 | 135.7803 |
06 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 書院 | 34.9771 | 135.7804 |
07 | ▼ 泉涌寺 雲龍院 書院庭園 | 34.9769 | 135.7805 |
08 | ▼ 泉涌寺 仏殿 | 34.978 | 135.7803 |
09 | ▼ 泉涌寺 舎利殿 | 34.9779 | 135.7806 |
10 | ▼ 泉涌寺 本坊 御座所 | 34.9779 | 135.7812 |
11 | 泉涌寺 本坊 霊明殿 | 34.9776 | 135.7809 |
12 | ▼ 泉涌寺 月輪陵 後月輪陵 | 34.9772 | 135.7819 |
13 | ▼ 泉涌寺 浴室 | 34.9779 | 135.7799 |
14 | ▼ 泉涌寺 泉涌水屋形 | 34.9778 | 135.7801 |
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