東福寺 方丈 その2
東福寺 方丈(ほうじょう)その2 2008年12月22日訪問
東福寺の開山堂と普門院の楼門を出て、再び通天橋を渡り仏殿まで戻る。その後、東福寺の方丈を拝観する。
東福寺の方丈庭園は前回の訪問の時にかなり書いたので、書き足すことはそれ程多くないので、新たな写真を中心に感想を記していく。
昭和14年(1939)に作庭された東福寺方丈の4つの庭、「八相の庭」、「井田の庭」、「市松の庭」そして「北斗七星の庭」は重森三玲の事実上の処女作になる。「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年)に掲載されている年譜を見ると、これ以前に手がけたのは郷里である岡山の天籟庵の茶室と庭園、そして奈良の春日大社の庭園と西賀茂の正伝寺庭園の復元であった。この方丈庭園は三玲が43歳での作品であるから、処女作と言っても若くして造り上げた作品と言うわけではない。中年に至ったといえでも実績の少ない作庭家に京都五山の方丈庭園を任せるということは、なかなか出来ないことである。
東福寺 開山堂・普門院の項で触れたように、三玲は昭和11年(1936)頃より日本各地の庭園の実測調査を開始している。これは昭和9年(1934)に発生した室戸台風で損壊した名庭復元のために欠かせない庭園の記録が保存されていなかったことに気が付いたからとされている。そして「日本庭園史図鑑」(全26巻 有光社 1939年刊)を纏め、作庭家より先に庭園史研究家としての実績を上げている。東福寺にも、この調査活動の一環として訪れ、そこで東福寺執事長の爾以三師に出会っている。先の「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」には、三玲の教養と感性に感銘を受けた爾以三師が、作庭を依頼したとしている。独学で実績はなくても、多くの名庭と出会うことから、作庭意図、形式、意匠、技法・技巧などの分析を通じ、庭園の歴史的変遷の理解、作庭年代の推定、そして日本庭園の本質を熟知するに至った。爾以三師が三玲に仕事を任せる決断を下した背景には、このような地道な研究とそれを自らの作庭に活かせる自信が溢れていたからであろう。
年譜的には昭和14年(1939)に東福寺方丈の「八相の庭」、塔頭・光明院の「波心庭」、塔頭・芬陀院と開山堂庭園の復元を手がけている。そして三玲も晩年になって、「ついに東福寺の庭を超えられなかった」と自ら語ったとされている。それだけ恵まれた条件の元に、今まで蓄えてきたアイデアを展開できたからであろう。これは年齢や実績ではなく、自分の才能を発揮できる機会にいつ巡り合うかである。それが三玲にとって最初の仕事としての八相の庭であっただけかもしれない。
一見すると八相の庭は禅宗の南庭の伝統的な形を継承しているようにも思える。庭園の左側の石組みは小堀遠州の南禅寺方丈庭園との類似性を感じる。しかし庭の大きさが、南禅寺と東福寺ではかなり異なっている。もし遠州と同じような構成を行うとすると、三玲は東福寺の白砂の上に巨石を並べなければならなくなる。 また東福寺と南禅寺の違いで一番大きい点は、鑑賞する角度ではないだろうか。現在の南禅寺本坊は方丈正面からの視点を重視して作り上げたと思う。これこそが古典的な視座といえるであろう。
それに対して三玲の八相の庭は庫裡から方丈に進む拝観者の視点の移動を意識して造り上げている。まず八相の庭の東南角に立った拝観者は、直線状に並んだ立石の側面を見る。石は重量感を失い、白砂の上に垂直に立ち上がった黒い直線のようにも見える。そして面を塗り分けるのではなく、線の構成によって描き上げたデッサンのようにも見える。そしてアルベルト・ジャコメッティの彫像が林立する風景にも通じる存在の不安感がそこにある。しかし方丈に近づくに従い、石は質量感を取り戻していく。そして圧倒的な存在感を発散し始める。作庭家の野村勘治氏は、「三玲庭園を読む」(重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド)で、このような展開を導入部分に用いるのが三玲庭園の展開方法と指摘している。
方丈正面から八相の庭を眺めると、扁平だった立石は石の厚さが感じられなくなる。そして鋭い輪郭線を持った面としての表現となる。そして正面からの視点は、石組の形状、色やテクスチャアの配置、そして前後関係と遠近感が表現の手法となる。そして上記の側面から見た時に作られた線的な構成が、正面に廻った時に保ちえるかが難しい問題となる。立石の中に地を這うような石が3つ配置されている。この中には6メートルを超える巨石もある。これが正面と側面の調和を担っているのではないだろうか?
そしてこの庭の西側には、5つの山が築かれている。これは臨済宗の五山(天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺)を表現しているとされている。ただし白砂の中に一つ独立した築山がある。別格とされている南禅寺を表現しているのだろうか?
そしてこの築山と白砂の間は勅使門から通天橋へ続く門の2点間を結ぶ直線によって区切られている。ここにはモルタルで作られた目地が入れられている。作庭された時は出来なかったが、現在ではこの空間構成をGooglemapで確認することが可能になっている。このように重森三玲は八相の庭に古典的な構成の中に新たな表現方法を持ち込んだともいえる。
この方丈南庭を始めに西庭の「井田の庭」から、北庭の「市松の庭」そして東庭の「北斗七星の庭」と巡って行く。
井田の庭は通天橋へ通じる門によって、南庭の八相の庭と分けられている。有機的な形状をした築山が白砂の上に広がり、庭の北側には方形に刈り込まれた植栽によって、市松模様が作られている。これは南庭から続く苔地の続きであり、その先の方形の刈り込みは北庭のデザインの予告的な表現であろうか?
そして続く市松の庭は、苔地の上に四角い御影石を配置した有名なデザインである。誰もが思い浮かべるピエト・モンドリアンのブロードウェイ・ブギウギが1942~43年の作品であり、この庭の作庭は、昭和14年(1939)である。三玲の発想は、江戸時代の歌舞伎役者・初代佐野川市松が白と紺の正方形を交互に配した袴を履いたことから使われるようになった市松模様の破調的なバリエーションであったのだろう。しかし三玲のデザインの根底にあるグラフィック・アートへの傾倒には、抽象画としてのマチスやカンディンスキーへの憧れにあったとされている。
最後の北斗七星の庭には、東司に使われていた柱石を星座の形に据えている。他の庭と異なり具体的な形状を表現した庭となっている。この庭は方丈に入る廊下に面しているため、禅堂に入るために身を清めることを思わせるために柄杓の形の星座をここに置いたとも言われている。このコンセプトを表現するために、抽象性を控えたとも思える。しかし三玲自身は、
庭の定義を無視した抽象作品で、鑑賞者の自由な楽しみ方にまかせたい
としている。
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