徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2011年

宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所

 

宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所(くないちょうしょりょうぶ)  2008年12月22日訪問 宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所 奥に善能寺祥空殿の屋根が見える  今熊野観音寺の鳥居橋を再び渡る。この今熊野観音寺への参道と御寺泉涌寺霊園へと続く道、そして塔頭の善能寺と来迎院へ続く道の合流点まで戻る。ここから善能寺、来迎院を経由して泉涌寺の本坊へと向かう際に、宮内庁書陵部月輪陵墓監区事務所の前を通りかかる。 宮内庁書陵部書陵部では、皇室関係の文書・資料の管理と編修及び陵墓の管理が行われている。書陵部は図書課、編修課、陵墓課の3つの課と5つの区域にわけて陵墓を管理している陵墓監区事務所の4つの組織に… ►続きを読む

 

泉涌寺 今熊野観音寺

 

泉涌寺 今熊野観音寺(いまくまのかんのんじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 今熊野観音寺 本堂と多宝塔 この構成が今熊野観音寺の現在の景観を作り出している  新善光寺の前の坂を上り、再び泉涌寺道を進む、右手に京都市立月輪中学校を見ながら進むと、目の前で道が三方向に分かれる。左は善能寺、来迎院と今熊野観音寺へ、中央は泉涌寺の本坊へ、そして右は泉涌寺の大門へと続く。左に折れた先にある赤い欄干の鳥居橋を渡り、さらに進むと今熊野観音寺の伽藍が見えてくる。 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から今熊野観音寺への入口 泉涌寺 今熊野観音寺 泉涌寺道から本坊への参道と大門への参道 上の写… ►続きを読む

 

泉涌寺 新善光寺

 

泉涌寺 新善光寺(しんぜんこうじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 新善光寺 山門  戒光寺の山門の石段を下り、泉涌寺道を再び先に進む。本道から分かれて左に下っていく道の角に新善光寺の大きな白い道標が建つ。この坂道を下ったところに、新善光寺の山門が開いている。 泉涌寺 新善光寺 山門へと続く坂道 泉涌寺 新善光寺 泉涌寺 新善光寺 左手に泉涌寺の幼稚園がある  泉涌寺の公式HPに掲載されている新善光寺の起源は、寛元元年(1243)僧・値願念西が歓進し、後嵯峨天皇の御願寺として一条大宮の地に創建となっている。勅命によって大工藤井為行、小工沙弥教弘らが信州信濃善光寺本… ►続きを読む

 

泉涌寺 戒光寺

 

泉涌寺 戒光寺(かいこうじ)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 戒光寺 山門  法音寺の小さな山門を出る。柵の外側からであるが戒光寺の墓地の一部分にある禁裏御陵衛士墓所を先に参拝している。順番が逆になってしまったが、目の前の石段を上り戒光寺の山門を潜る。 泉涌寺 戒光寺 境内  鎌倉時代の安貞2年(1228)宋から帰朝した曇照忍律によって八条大宮の東、堀川の西に後堀川天皇の勅願所として創建されたのが起源とされている。 曇照は浄業とも呼ばれる鎌倉時代の律宗の僧で、文治3年(1187)に生まれている。近江の園城寺や奈良の諸寺で顕密二教を学ぶ。建保2年(1214)宋に渡り、鉄翁守一よ… ►続きを読む

 

泉涌寺 法音院

 

泉涌寺 法音院(ほうおんいん)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 法音院 山門  即成院の山門を出て、泉涌寺総門を潜る。50メートルも進まない内に左手の石段の上に戒光寺の山門、右手に法音院の小さな山門が現れる。先ず右手の法音院に入る。 法音院の公式HPには、鎌倉時代末期の嘉暦元年(1326)無人如導宗師によって泉涌寺山内に創建されるとある。無人如導は弘安8年(1285)あるいは翌年の9年に誕生したとされている。北野社に千日参りをされて霊告を得たことから出家している。応長元年(1311)北野社の神宮寺として東向観音寺を中興している。 また聖武天皇の妃である光明皇后が、まだ皇太子妃であっ… ►続きを読む

 

泉涌寺 即成院

 

泉涌寺 即成院(そくじょういん)  2008年12月22日訪問 泉涌寺 即成院 泉涌寺道に面した山門  禁裏御陵衛士墓所の右隣にある鳳凰を屋根に載せた塔頭・即成院の山門を潜り境内に入る。この塔頭が泉涌寺総門前に建立されたのは、明治35年(1902)と比較的新しい。しかしそこに至る即成院の歴史はかなり複雑なものとなっている。 即成院の公式HPでは、正暦3年(992)恵心僧都によって伏見に建立された光明院が始まりとされている。 恵心僧都は平安時代中期の天台宗の僧・源信である。天慶5年(942)大和国北葛城郡当麻に生まれる。7歳で父を失うが、信仰心の篤い母の影響により天暦4年(950)9歳で、… ►続きを読む

 

禁裏御陵衛士墓所

 

禁裏御陵衛士墓所(きんりごりょうえじぼしょ)  2008年12月22日訪問 禁裏御陵衛士墓所 左より、毛利、伊東、藤堂、服部の墓碑 石灯籠の裏に茨木、清原、佐原、佐野、富川、富山、中村の合同墓碑と高村の墓碑が隠れている  泉涌寺総門の手前には、鳳凰を屋根の上に載せた即成院の山門がある。改めて即成院の項で書くこととするが、この地に移転してきたのは明治35年(1902)のことである。それ以前、この場所は南東に隣接する戒光寺の境内であった。今も即成院山門の西側にある墓地は戒光寺が管理している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の新熊野社の図会には、泉涌寺の総門とともに泉涌寺道に向かって… ►続きを読む

 

泉涌寺道

 

泉涌寺道(せんにゅうじみち) 2008年12月22日訪問 泉涌寺道 東大路通の角に建つ泉山御陵参道の道標  伏水街道一ノ橋が架かっていた寶寿寺からさらに伏見街道を20~30メートルほど北に進むと市立一橋小学校の校舎が右手に見える。一橋小学校の校名は一ノ橋に因んだものであるから、「ひとつばし」ではなく「いっきょう」と読む。この学校は明治2年(1869)住民自治組織であった番組を単位として、京都の町衆によって創設された64校の番組小学校の一つ(下京第31番組 一橋)であった。しかし少子化の影響により、学校統合計画が策定されている。平成26年(2014)この一橋小学校の敷地に東山区南部小中一貫… ►続きを読む

 

伏水街道の橋 その2

 

伏水街道の橋(ふしみかいどうのはし)その2 2008年12月22日訪問 伏水街道の橋 市立一橋小学校に保存されている一ノ橋  東大路通に面する万寿寺の山門前から側道を下り、再び伏見街道の本町通に戻る。鴨川を越えて九条通と東大路通を結ぶ陸橋の下にはかつて伏水街道に架けられていた二ノ橋の親柱が残されている。 この伏水街道の橋については、既に伏水街道の橋の項で書いている。前回の訪問の時にはJR奈良線の東福寺駅の北にある一ノ橋の跡を見ていなかったので、今回はその場所の確認と一ノ橋の親柱が保存されている京都市立一橋小学校のグランドを再度訪問する。 伏水街道の橋 寶寿寺 伏水街道の橋 寶寿… ►続きを読む

 

東福寺 万寿寺

 

東福寺 万寿寺(とうふくじ まんじゅじ) 2008年12月22日訪問 東福寺 万寿寺  本日は泉涌寺と東福寺の塔頭を中心に廻る。すでに両寺の本坊や主要な塔頭を拝観しているが、塔頭の多い寺院であるため、まだまだ見るべき箇所が多く残されている。 四条室町のホテルを7時頃にチェックアウトし、京都市営地下鉄烏丸線で京都駅に向かう。荷物をコインロッカーに入れ、徒歩で東福寺を目指す。現在では京都府道115号線と呼ばれる竹田街道は、京都駅の建設によって分断された東洞院通の南側部分である。この道を南に下り、大石橋の交差点で東に折れ九条通を進む。九条通は鴨川を越えるために陸橋となり東大路通と合流する。この… ►続きを読む

 

嵐山花灯路 その2

 

嵐山花灯路(あらしやまはなどうろう)その2 2008年12月21日訪問 嵐山花灯路 渡月橋のライトアップ  やや強くなってきた雨の中、再びシャトルバスで大覚寺から二尊院の門前に戻る。ここから南に下りながら阪急嵐山駅に至る。長神の杜には源氏物語、平家物語、向井去来など嵯峨・嵐山に所縁のある古典文学を紹介するパネルとともに、小倉百人一首文芸苑として百人一首が刻まれた自然石の歌碑が点在している。嵐山花灯路では活け花が展示され、昼間より華やかな空間となっている。 嵐山花灯路 嵐山花灯路 長神の杜に飾られた活け花 嵐山花灯路 落柿庵の門前  この長神の杜から落柿舎を過ぎて野宮神社… ►続きを読む

 

嵐山花灯路

 

嵐山花灯路(あらしやまはなどうろう) 2008年12月21日訪問 嵐山花灯路 大覚寺・多宝塔  12月の嵯峨の日没は早く、すでに祇王寺の苔の庭園は写真も撮れない暗さに沈み込んでしまった。祇王寺を後にして再び愛宕街道に建つ4本の道標まで戻ったのが17時頃であった。 嵐山花灯路 二尊院 嵐山花灯路 二尊院門前の活け花 嵐山花灯路 大覚寺 嵐山花灯路 大覚寺・勅使門 嵐山花灯路 大沢池のオブジェ  日が落ち、辺りが暗闇に包まれてくると、いろいろな場所に置かれた灯籠に灯が入る。嵐山花灯路が始まる。二尊院の門前がライトアップされ、門前に飾られた巨大な活け花に見入る人… ►続きを読む

 

祇王寺

 

真言宗大覚寺派 高松山 往生院祇王寺(ぎおうじ) 2008年12月21日訪問 祇王寺  厭離庵から愛宕街道に戻り、二尊院の前を北に向かって進む。嵯峨二尊院門前往生院町の角に建つ、愛宕道 祇王寺、三宅安兵衛遺志の祇王寺・久保田米僊・金子静枝墓、新田公首塚碑道、檀林寺門跡の4本の道標に従い、西に折れる。小倉山の斜面を少しづつ上っていくと、右手に檀林寺、正面に滝口寺と祇王寺が現れる。この3つの寺院を本日最後に拝観する予定であったが、スケジュールの大幅な遅れから一箇所のみの拝観となってしまった。既に大覚寺に拝観した際、大覚寺と祇王寺の共通拝観券を購入したので、必然的に祇王寺に決まった。 祇王… ►続きを読む

 

厭離庵

 

臨済宗天龍寺派 如意山 厭離庵(えんりあん) 2008年12月21日訪問 厭離庵 左奥に時雨亭の茅葺屋根が見える  宝筐院の山門を出て、清涼寺の西門まで北に進むと西に折れる道が現れる。この道は渡月橋から天龍寺、清涼寺を経て嵯峨鳥居本へつながる愛宕街道の一部分である。この街道沿いには茅葺屋根のくずややむしこ造町家があり、歴史の深さを感じる。厭離庵はこの街道沿いにあるはずだが、なかなか見つからない。何度もこの道を行ったり来たりしているうちに、三宅安兵衛遺志の小倉山荘旧址厭離庵の碑に気が付く。この碑の傍らから、本当に民家の入口のような通路が北に延びていく。ここが厭離庵の入口である。 厭離庵… ►続きを読む

 

宝筐院

 

臨済宗単立寺院 善入山 宝筐院(ほうきょういん) 2008年12月21日訪問 宝筐院  清涼寺の仁王門を出て一条通を西に100メートル程進むと、一条通は宝筐院の山門に突き当たり終わる。傍らには小楠公菩提寺寶筐院という門柱が建つように、南朝の忠臣・楠木正行とその正行を敬慕した北朝を後押しした第2代将軍足利義詮の菩提寺となっている。 宝筐院 清涼寺仁王門側から眺める 宝筐院 小楠公菩提寺寶筐院の石標が見える  平安時代に白河天皇の勅願寺として建立された善入寺から、宝筐院の歴史は始まる。平安時代末から鎌倉時代にかけては、数代に亘って皇族が住持となっていたが、寺は衰微していく。南北朝… ►続きを読む

 

清凉寺 その3

 

浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) その3 2008年12月21日訪問 清凉寺 方丈庭園  清涼寺本堂の西側には薬師寺がある。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には清涼寺の境内に薬師堂として描かれている。清涼寺の塔頭のように見えるが、浄土宗知恩院派の寺院である。薬師寺の公式HPによると、弘仁9年(818)に、嵯峨天皇の勅命により弘法大師が刻んだ薬師如来像を祀る寺として創建されている。その後は焼失と再建を繰り返したが、現在に残る本堂は寛永年間(1624~1644)に大覚寺門跡である尊性親王によって再建されている。そのため明治時代に入るまで大覚寺の管理下にあり、現在は浄土宗知恩院… ►続きを読む

 

清凉寺 その2

 

浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) その2 2008年12月21日訪問 清凉寺 本堂北側の弁天堂  安永9年(1780)に刊行された都名所図会には江戸時代中期の清涼寺の境内が描かれている。これと清涼寺の拝観の栞にある境内図を比較すると、仁王門、本堂、阿弥陀堂、方丈そして多宝塔の位置関係が同じことが分かる。それ以外にも八宗論池や嵯峨帝塔、融大臣塔、愛宕社、薬師堂もまた江戸時代中期から継承されている。 清凉寺 仁王門脇に建つ碑  一条通に面した仁王門の左には5つの道標が建つ。右側から、小楠公御首塚の寺、三宅安兵衛遺志の源融公栖霞観地、小倉山・二尊院西二町、嵯峨帝陵東北十六町、御室・… ►続きを読む

 

清凉寺

 

浄土宗 五台山 清凉寺(せいりょうじ) 2008年12月21日訪問 清凉寺 境内 左側から鐘楼 薬師寺本堂 清涼寺本堂の屋根が見える  名古曽滝跡から大沢池の東岸を廻り、大覚寺の茶室・望雲亭の前を通り再び入口に戻る。かなり足早に多宝塔や石仏群から名古曽滝跡そして大沢池を見てきたが、それでも40分くらいの時間を要している。丁寧に見ていくと、ここだけでも1時間程度は必要である。大覚寺の長い参道を南に下り、総門跡で一条通に出る。この道を西に10分くらい歩くと、清凉寺の山門前に到着する。一条通は清凉寺の境内の西端で宝筐院に突き当り終点を迎える。 清凉寺 仁王門 清凉寺 境内図  この… ►続きを読む

 

名古曽滝跡

 

名古曽滝跡(なこそのたきあと) 2008年12月21日訪問 名古曽滝跡 名古曽滝跡の石組  大沢池の北東に、立木もなく整地された場所があり、この奥に名古曽滝跡を示す碑が建つ。  名古曽滝は嵯峨天皇がこの地に築いた嵯峨院の滝殿に面して造られた庭である。既に大沢池の項でも触れたように、嵯峨天皇は皇子時代より、この地に山荘設営に着手している。そして日本後記の弘仁5年(814)閏7月27日の条に、     天皇、北野に遊猟し給い、この日嵯峨院に御す という記述が残されていることより、この時期には既に離宮が完成していたと考えられている。 名古曽滝跡 左奥に名古曽滝跡の石碑が見える 名古曽… ►続きを読む

 

大沢池

 

大沢池(おおさわのいけ) 2008年12月21日訪問 大沢池 東側から大覚寺方向を眺める  大覚寺の拝観を終え、式台玄関から出る。表門を再び潜り勅使門の前を過ぎ、大沢池の畔に出る。 大沢池 南東側を眺める 大沢池 東側を眺める  周囲約1キロメートルの池は、嵯峨天皇が嵯峨院の造営にあたり中国の洞庭湖を模して造られたもので、庭湖とも呼ばれる。日本最古の人工の林泉であり、作庭者は平安時代の絵師・巨勢金岡、または百済河成ともいわれている。嵯峨天皇がこの地に山荘設営に着手したのは、まだ皇子時代とされている。西桂著「日本の庭園文化 歴史と意匠をたずねて」(学芸出版 2005年)によれば… ►続きを読む

 
 

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