徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2011年

教王護国寺 観智院

 

教王護国寺 別格本山 観智院(かんちいん) 2009年1月11日訪問 観智院 五大の庭  東寺の北大門を潜ると櫛笥通に出る。この通りは、西の壬生大路と東の大宮大路の中間に造られた平安京の小路にあたる。平安京の東市の西側に面し、二条大路から九条大路の間に造られた小路と推測されるが、神泉苑や平安時代末期には平清盛の西八条邸により分断されている。さらに平安時代中期以降の右京の衰退に伴い、朱雀大路やこの小路も衰退していった。現在では、途切れ途切れの細い道となっている。 観智院 東寺の北大門からの眺め 右手に観智院の南大門が見える 観智院 南大門 観智院  以前の訪問の時に触れた… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その4

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その4 2009年1月11日訪問 教王護国寺 五重塔  今回、東寺を訪問した目的は、境内の東南に建立された五重塔の特別公開が行われるためである。拝観受付で五重塔の拝観を含めたチケットを購入する。 教王護国寺 五重塔の初層 教王護国寺  東寺の五重塔は、高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海により創建着手にはじまるとされているが、普請の勧進が進まなかったことや御神木事件が発生し、五重塔の竣工は遅れていた。御神木事件とは、時の天皇・淳和天皇が病に臥したのは、東寺造営用の木材を稲荷山から神… ►続きを読む

 

教王護国寺(東寺) その3

 

真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(きょうおうごこくじ)その3 2009年1月11日訪問 教王護国寺 大宮通から眺め  リーガロイヤルホテル京都の車寄前に建つ新選組不動堂村屯所跡を説明する石碑を見た後、堀川通を南に下っていく。油小路通の項で記したように、この地で堀川通が油小路通に合流し、油小路通となる。現在の堀川通は6車線の南北方向の主要幹線であるため、油小路通の方が合流したようにも思える。堀川通は、平安京の堀川小路であり、川幅4丈の堀川の両側に2丈ずつの小路があった。そのため川と道路を合わせると幅員は24メートルとなるため、大路と間違えられることもあったようだ。 JRの東海道線と東海道新… ►続きを読む

 

不動堂村屯所跡

 

不動堂村屯所跡(ふどうどうむらとんしょあと) 2009年1月11日訪問 不動堂村屯所跡 リーガロイヤルホテル京都前  木津屋橋通を越えて、さらに油小路通を南に下ると塩小路通に出る。京都駅前の広場につながる通りであるため、再開発が進み大規模な建物が並ぶ地域になっている。油小路通も塩小路通に出ると、横断歩道橋越しにリーガロイヤルホテル京都が見えてくる。この車寄せに向かっていくと新選組不動堂村屯所跡の石碑が建つ。霊山歴史館の木村幸比古氏による説明板には「この付近」という文字が書き加えられている。かつての屯所の位置は、正確には特定されていないことが分かる。現在もこの地には北不動堂町と南不動町の地… ►続きを読む

 

七条油小路の辻

 

七条油小路の辻(しちじょうほんこうじのつじ) 2009年1月11日訪問 七条油小路の辻 南側から眺める 当時の七条通は現在の半分位の幅員だったと考えられている  油小路通を下り、木津屋橋通の本光寺の山門まで至る。慶応3年(1867)11月18日の夜、この山門前に置かれた題目石塔に倒れ掛かるようにして伊東甲子太郎は絶命する。新選組は伊東の遺骸を七条油小路の辻に運び、月真院に伊東の死を伝えさせる。現在の七条通は4車線の大通りとなっている。これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業により、七条通が北側に拡幅された結果である。そのため伊東の遺骸が置かれた幕末の七条通は現在の中央線から南側… ►続きを読む

 

本光寺

 

日蓮宗 実相山本光寺(ほんこうじ) 2009年1月11日訪問 本光寺 山門  正面通を過ぎてさらに油小路通を南に下ると七条通に出る。現在の七条通は4車線の大通りとなっているが、これは大正から昭和に入ってから行われた都市計画事業によって西大路通までが拡幅された結果である。そして京都市電七条線が敷設された。そのため幕末の七条通は現在の中央線から南側で、北側に向かって拡幅されたようだ。新選組はこの七条油小路に伊東甲子太郎の遺骸を移し、御陵衛士をおびき出した。油小路事件の後半部分は、時系列に合わせて記すため本光寺の項の後に触れることとする。  七条通を渡りさらに油小路通を進むと、油小路町の地名が… ►続きを読む

 

天満屋事件跡

 

天満屋事件跡(てんまんやじけんあと) 2009年1月11日訪問 天満屋事件跡 祠の左の石碑  油小路通でも触れたように、旧花屋町通を過ぎた西側に美好園茶舗の町家がある。この先に間口の狭い1階を車庫とした搭状の建物が並び、その間に小さな祠が祀られている。この祠の脇に中井正五郎殉難地の石碑が建つ。 天満屋事件跡 町家の左側  中井庄五郎(正五郎)は弘化4年(1847)十津川野尻郷の郷士・中井秀助の三男に生まれる。幼少時から剣術を学び、田宮流抜刀術の居合い術を取得している。文久3年(1863)同じ十津川郷士で横井小楠暗殺の容疑者とされる上平主税に連れられて上京し、御所警衛に参加している。… ►続きを読む

 

洛中の町並み その11 油小路通2

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ)その11 油小路通2 2009年1月11日訪問 洛中の町並み 油小路通 正面通の町並み 洛中の町並み 油小路通 天満屋事件跡  中井正五郎殉難地を過ぎてさらに南に進む。正面通と交わる角に伊東忠太が設計した西本願寺伝道院が建つ。改修工事の仮囲いがあったためか、撮影した写真の中に映像が残っていなかった。現在(2011年8月)は改修工事も終了し、一般に公開されているようだ。日を改めて訪問したい建物のひとつである。 伝道院は明治45年(1912)に真宗信徒生命保険会社の社屋として建築されている。レンガ造りの2階建で正面および東面に塔屋が付き、また北面お… ►続きを読む

 

洛中の町並み その10 油小路通

 

洛中の町並み(らくちゅうのまちなみ)その10 油小路通 2009年1月11日訪問 洛中の町並み 油小路通 天満屋事件跡  四条烏丸より市営地下鉄に乗車し、一駅南に下った五条で下車する。地上に出ると目の前に烏丸通が現れる。本日の最初の訪問地は油小路通にあるため、丁度1坊分、西に移動する。油小路通は幕末の油小路事件で有名な通りでもある。 洛中の町並み 油小路通 五条通から南を眺める  油小路通は京都市の主要な南北の通りの一つで、平安京の油小路にあたる。紫明通から北は堀川通と新町通の間を通る道となっている。この部分は大徳寺の東北にあたり、区画が整理された住宅地である。そして紫明通から上立… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その4

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その4  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口から全景を眺める  石田孝喜著「幕末京都史跡大辞典」(新人物往来社 2009年刊)には、この墓地の成り立ちついて詳細に記されている。鳥羽伏見の戦いは慶応4年(1868)1月10日に終わり、千両松の戦いで戦死した石川厚狭介を含む長州藩士の24体の遺体は、この地に埋葬され、一名ずつ木の墓標が建てられた。そして明治33年(1900)の33回忌に墓標が現在の石標に替えられ、この時に14名の戦傷病死者が追祀されている。 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 墓地入口… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その3

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その3  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 献花台の奥に墓碑が二列並ぶ  慶応4年(1868)1月3日の夕方、小枝橋での通過交渉が決裂し、ついに鳥羽伏見の戦い、あるいは1年半に及ぶ戊辰戦争が始まる。詳しい戦いの経過は、野口武彦著「鳥羽伏見の戦い 幕府の命運を決した四日間」(中央公論新社 2010年刊)や以前の項に譲るものとする。長州軍の出兵した伏見方面も、この小枝橋での武力衝突の砲声を受けて始まる。伏見奉行所に詰めていた会津軍や新選組は、奉行所を出て市街戦を挑むが、碁盤の目に配置された伏見の町並みに… ►続きを読む

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 その2

 

鳥羽伏見戦防長殉難者之墓 (とばふしみせんぼうちょうじゅなんしゃのはか)その2  2008/12/22訪問 鳥羽伏見戦防長殉難者之墓  仲恭天皇 九條陵より参道を戻る途中を左手に入ると鳥羽伏見戦防長殉難者の墓地がある。前回の訪問は新緑の季節で木々も緑濃かったが、今回は葉もすっかり落ち、墓地の地面を茶色に染めている。やや高台にある九條陵と鳥羽伏見戦防長殉難者之墓の位置関係がよく分かるようになっている。 まず参道から墓地に入ると、この空間の広さに驚く。九條陵の一段下の斜面にこれだけの面積の平地を作り出している。この墓所には鳥羽伏見戦で戦死した石川厚狭介をはじめ、病死した者を含めた49名の長州… ►続きを読む

 

仲恭天皇 九條陵 その2

 

仲恭天皇 九條陵(ちゅうきょうてんのう くじょうのみささぎ)その2  2008/12/22訪問 仲恭天皇九條陵  九條陵へ続く参道は、崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵の前を過ぎてさらに東に緩やかに上っていく。鳥羽伏見戦防長殉難者之墓を右手に見ながら、進むと宮内庁の管理用の建物があり、ここで参道は右手に折れる。皇嘉門院月輪南陵が参道に面して北向きであったのに対して、この九條陵は西向きに築かれている。 後の仲恭天皇となる懐成親王は、建保6年(1218)順徳天皇の第一皇子として生まれている。母は九条良経の娘・九条立子であった。良経は、皇嘉門院の異母弟にあたり九条家の祖となった九条兼実の次男である。… ►続きを読む

 

崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵

 

崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(こうかもんいんつきのわみなみりょう)  2008/12/22訪問 皇嘉門院月輪南陵  前回九條陵を訪問した際は、陵の場所が良く分からず東福寺の方に道順を尋ねた。どうも聞いた方もあまり詳しくなかったようで、おおよその場所の情報しか得られなかった。大雑把な地図を頼りに、日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまい。ついに見つからないのではと思った時に、大きな木の下に碑があるのに気が付いた。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。 今回は前回の道筋と光景を覚えていたので、何も迷うこ… ►続きを読む

 

東福寺 塔頭 その2 

 

東福寺 塔頭(たっちゅう)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 大樹院 ■01 万寿寺 白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまり。  正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となし、弘長元年(1261)に万寿禅寺と改めたと伝わる。往時の規模については明らかではない。 室町時代 当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(143… ►続きを読む

 

東福寺 光明院

 

東福寺 光明院(こうみょういん) 2008年12月22日訪問 東福寺 光明院 波心庭  東福寺方丈を出て、重森三玲の庭園のある光明院に向かう。既に15時を過ぎているので、日没閉山にならないうちに着くように道を急ぐ。光明院は、室町時代の明徳2年(1391)金山明昶の開創。明昶は正平4年(1349)生まれで、東福寺第70世住持を務め、但馬の極楽寺などを創建している。応永20年(1413)没。 東福寺 光明院 山門 左手に嶺雲庭の碑が建つ 東福寺 光明院 庫裡前にある嶺雲庭 東福寺 光明院 庫裡の三和土 拝観料は志納で庫裡にある竹筒の中に入れる  東福寺方丈の繰り返しになるが… ►続きを読む

 

東福寺 方丈 その2

 

東福寺 方丈(ほうじょう)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 方丈 八相の庭  東福寺の開山堂と普門院の楼門を出て、再び通天橋を渡り仏殿まで戻る。その後、東福寺の方丈を拝観する。 東福寺 方丈 八相の庭 横からの眺め 東福寺 方丈 八相の庭 正面からの眺め  東福寺の方丈庭園は前回の訪問の時にかなり書いたので、書き足すことはそれ程多くないので、新たな写真を中心に感想を記していく。 東福寺 方丈 八相の庭 東福寺 方丈 八相の庭 奇岩が用いられている  昭和14年(1939)に作庭された東福寺方丈の4つの庭、「八相の庭」、「井田の庭」、「市松の庭」そして「北… ►続きを読む

 

東福寺 開山堂・普門院 その3

 

東福寺 開山堂・普門院(かいざんどう・ふもんいん)その3 2008年12月22日訪問 東福寺 開山堂・普門院 開山堂庭園 鶴島と亀島  かげまるくん行状集記 に掲載されている本朝寺塔記には京都十刹としての普門寺についての記述がある。 東福寺の項でも触れたように、東福寺創設には長い年月を要している。九条道家が京都最大の大伽藍の造営に着手したのが、嘉禎2年(1236)であり、完成に至ったのが実に建長7年(1255)のことであった。奈良における最大の寺院・東大寺と最も隆盛を極めた寺院・興福寺になぞらえて計画された寺院であったため、東大寺と興福寺から一字づつを取り、東福寺と名付けられた。上記の普… ►続きを読む

 

東福寺 開山堂・普門院 その2

 

東福寺 開山堂・普門院(かいざんどう・ふもんいん)その2 2008年12月22日訪問 東福寺 開山堂・普門院  東福寺の塔頭・霊雲院の山門を出て再び一華院と同聚院の間の道を戻る。この道の突き当たりにある大機院は、北側に並ぶ栗棘庵や善慧院と比べると高台の上に建てられている。いつも感じるが、この大機院の山門を見るために上る石段の途中からの眺めは美しい。 日下門を目指し南に進む。右手の一華院を過ぎると、左手に月華門が現れる。文永5年(1268)一条実経が常楽庵を建立した際、亀山天皇が京都御所の月華門を下賜された門とされている。常楽庵とはこれから向かう開山堂の別名である。檜皮葺切妻造、朱塗りの四… ►続きを読む

 

東福寺 霊雲院  その3

 

東福寺 霊雲院 (れいうんいん)その3 2008年12月22日訪問 東福寺 霊雲院 九山八海の庭  霊雲院の庭園は重森三玲の手によって修復、作庭されている。 東福寺 霊雲院 遺愛石 東福寺 霊雲院 東福寺 霊雲院 九山八海の庭 と 臥雲の庭 の交わる部分  「重森三玲 永遠の求めつづけたアヴァンギャルド」(京都通信社 2007年)に掲載されている年譜を見ると、遺愛石を復元修復した九山八海の庭は昭和45年(1970)、新たに作庭した臥雲の庭は翌年の昭和46年(1971)の作となっている。この東福寺と泉涌寺には多くの重森の作品が残されている。昭和14年(1939)という最初… ►続きを読む

 
 

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