徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2011年

大覚寺 その2

 

真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ)その2 2008年12月21日訪問 大覚寺 村雨の廊下と中庭  大覚寺の広い境内には多くの堂宇が並び、諸堂の拝観に東側の大沢池の池畔の散策まで含めると2時間くらいは必要である。 大覚寺の公式HPにある境内図を見ても、この寺院の伽藍配置が複雑であることが分かる。勅使門から北に向い、南庭、入母屋造、桟瓦葺の御影堂、八角堂の心経殿が一直線上に並ぶ。そして御影堂の手前、西に宸殿、東に本堂である五大堂を配する構成となっている。勅使門は幕末の嘉永年間(1848~54)に再建された四脚門、屋根は切妻造で正面と背面に唐破風を附けている。門全体は素木造であ… ►続きを読む

 

大覚寺

 

真言宗大覚寺派大本山 嵯峨山 大覚寺(だいかくじ) 2008年12月21日訪問 大覚寺 御影堂と宸殿  化野念仏寺から愛宕街道を下り、嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の始まりの地点にある八体地蔵石仏が並ぶ三叉路まで戻る。渡月橋から着た道とは違う道を大覚寺に向って進む。 大覚寺 明智陣屋 大覚寺 表門前の堀  嵯峨野の町並みで触れたように、平安遷都を行った桓武天皇の第2皇子であった嵯峨天皇は、この嵯峨野の地に離宮を造営し居住している。都を京都に移した直後から、この地は風光明媚なことより天皇や大宮人たちの遊猟や行楽地となっていたのであろう。特に唐の文化に憧れていた嵯峨天皇は… ►続きを読む

 

化野念仏寺

 

浄土宗 華西山 東漸院・化野念仏寺(あだしのねんぶつじ) 2008年12月21日訪問 化野念仏寺 西院の河原  愛宕念仏寺の仁王門を出て、再び平野屋、愛宕神社の一の鳥居、そして「つたや」を眺めながら愛宕街道を下る。嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区の中間地点あたりに化野念仏寺の入口がある。 化野念仏寺 愛宕街道から続く参道 右手に石標が建つ 化野念仏寺 参道の途中で見かけた石像  化野念仏寺は、正式には華西山 東漸院と号する浄土宗の寺院である。伝承によれば、その起源は弘仁2年(811)空海による五智山如来寺建立に遡る。もともと化野は東山の鳥辺野、洛北の蓮台野とともに葬送の… ►続きを読む

 

愛宕念仏寺 その2

 

天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)その2 2008年12月21日訪問 愛宕念仏寺 千二百羅漢  愛宕念仏寺にとって大きな転機となったのは、大正11年(1922)堂宇保存のために行われた移築であろう。3年間をかけて現在の嵯峨の地に堂宇を移したものの、その後も寺門は興隆しなかったようだ。 昭和30年(1955)仏師で、後に天台宗の僧侶となった西村公朝が愛宕念仏寺の住職となり、復興に当たる。 愛宕念仏寺 本堂 愛宕念仏寺 本堂から多宝塔を眺める  西村公朝は大正4年(1915)大阪府高槻市に生まれ、昭和15年(1940)東京美術学校卒業。翌昭和16年(1941)… ►続きを読む

 

愛宕念仏寺

 

天台宗延暦寺派 等覚山 愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ) 2008年12月21日訪問 愛宕念仏寺 多宝塔と本堂を眺める  愛宕神社の一の鳥居を越え、平野屋の前を過ぎると上り勾配が強くなってくる。愛宕念仏寺は清滝トンネルの手前にある「おたぎでら前」バス停留所の前にある。 愛宕念仏寺 仁王門 愛宕念仏寺 千二百羅漢像  愛宕念仏寺は天台宗延暦寺に属し、山号は等覚山。 愛宕神社の入口にあることから「あたご」と読むように思われるが、山城国愛宕郡という地名から来ているため「おたぎ」である。愛宕郡は現在の京都市北区と左京区の地にあり、葛野郡とともに平安京を形成した地域である。嵐山の町並み項… ►続きを読む

 

嵯峨鳥居本の町並み その3

 

嵯峨鳥居本の町並み(さがとりいもとのまちなみ)その3 2008年12月21日訪問 嵯峨鳥居本の町並み 一の鳥居  渡月橋を7時45分に渡り、小督塚、小倉百人一首文芸苑を見て、嵯峨野の竹林に入り、野宮神社にお参りをする。嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓と落柿舎の前を通り、去来墓と西行井戸と嵯峨小倉陵に立ち寄り、嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区に入る。保存地区を北に進み、一の鳥居に辿り着いたのが10時15分ということは2時間30分もかかってしまった。ヒデさんのHP名所旧跡めぐり 嵯峨野/愛宕街道を歩く(https://vinfo06.at.webry.info/201102/article… ►続きを読む

 

嵯峨鳥居本の町並み その2

 

嵯峨鳥居本の町並み(さがとりいもとのまちなみ)その2 2008年12月21日訪問 嵯峨鳥居本の町並み 一の鳥居に向かう町並み  八体地蔵が並ぶ三叉路から嵯峨鳥居本の重要伝統的建造物群保存地区に入る。少しすると坂道の左手に「北條別邸 逍遥遊」の石碑が建つ。以前、高瀬川一之舟入で見かけたものと同じものであるから、恐らく北條誠氏の関わったプロジェクトと思われる。建物は愛宕街道から引いて造られ、エントランスへのアプローチには竹を組んで立ち入りを制限している。恐らく商業や飲食施設ではなく個人住宅なのだろう。このあたりの民家は、上記のように街道に面して比較的広い間口を持ち、瓦屋根の平入りの建物となっ… ►続きを読む

 

嵯峨鳥居本の町並み

 

嵯峨鳥居本の町並み(さがとりいもとのまちなみ) 2008年12月21日訪問 嵯峨鳥居本の町並み  嵯峨小倉陵より清滝に向う道に戻る。大覚寺方面から続く道に合流する三叉路あたりから町並みが変わってくる。京都市都市計画局の伝統的建造物群保存地区を定めた地図を見ると、この八体地蔵石仏が並ぶ三叉路から嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区が始まることが分かる。 嵯峨鳥居本の町並み 三叉路で見かけた八体地蔵石仏 嵯峨鳥居本の町並み 保存地区の入口にある建物 嵯峨鳥居本の町並み  嵯峨鳥居本は産寧坂や祇園新橋より、やや遅れ昭和54年(1979)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されている… ►続きを読む

 

嵯峨小倉陵

 

嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ) 2008年12月21日訪問 嵯峨小倉陵  去来墓と西行井戸から再び鳥居本に連なる道に戻り、北へ進む。二尊院の門前を過ぎ、祇王寺・滝口寺そして檀林寺へ入っていく道を左手に見ながら、さらに200メートルくらい北へ向かう。左手に分かれる道の入口に、生垣を前にして後亀山天皇嵯峨小倉陵参拝道の道標が建つ。小倉山の斜面に向かって参拝道はやや上っていく。200メートル近く西に入っていくと右手に嵯峨小倉陵の石造の鳥居が現れる。陵形は五輪塔。 嵯峨小倉陵 参拝道の始まり 嵯峨小倉陵 参拝道の道標  嵯峨小倉陵に葬られているのは、南朝第4代で最後の天皇となっ… ►続きを読む

 

西行井戸

 

西行井戸(さいぎょういど) 2008年12月21日訪問 西行井戸  去来墓の入口を通り過ぎ、「西行井戸百人一首歌碑」を眺めながら進むと、西行井戸という駒札が建つ。 東山に残る西行庵の項でも触れたように、西行は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である。永元年(1118)左衛門尉佐藤康清の元に佐藤義清として生まれている。父は秀郷流武家藤原氏の出で、藤原秀郷の8代目の子孫となる。代々衛府に仕える裕福な家庭であったと考えられている。西行も16歳の頃より徳大寺家に仕え、保延元年(1135)18歳で左兵衛尉に任ぜられている。そして同3年(1137)鳥羽院の北面の武士としても奉… ►続きを読む

 

去来墓

 

去来墓(きょらいのはか) 2008年12月21日訪問 去来墓 中央の青緑の自然石  落柿舎と有智子内親王墓の前を戻り、再び野宮神社から来た道を100メートルくらい北に進むと、右手に去来墓と西行井戸がある。 去来墓 墓地の入口 右に去来塚百人一句句碑 西行井戸百人一首歌碑の石碑が見える  落柿舎の項で触れたように、宝永元年(1704)向井去来は聖護院近くの岡崎村で死去している。 落柿舎は去来の別邸であり、本邸は京都の中心にあった。伊藤洋氏の制作されたHP・芭蕉DBの芭蕉総合年表の元禄4年(1691)4月21日の項には、「朝、凡兆夫妻、夕方、去来、市中に帰りる。」という記述がある。また… ►続きを読む

 

落柿舎

 

落柿舎(らくししゃ) 2008年12月21日訪問 落柿舎 柿の実が残っている  有智子内親王墓の東側には落柿舎が並ぶ。残念ながら素屋根を架け工事を行っているため見学することは出来なかった。 落柿舎は、松尾芭蕉の弟子である向井去来の別荘として使用されていた草庵。去来が著した落柿舎ノ記に、この草庵について書いている。このことは、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように掲載されている。     嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ経ぬれど、このみも持来らず代かゆるわざもきかねば、もし雨風に落されなば、王祥が志にもはぢよ、若鳶烏にとられなば、… ►続きを読む

 

有智子内親王墓

 

嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか) 2008年12月21日訪問 有智子内親王墓  野宮神社を後にして、再び嵯峨野の竹林の中に戻る。JR山陰本線の踏切の手前には、小倉百人一首文芸苑の野宮神社地区の細長い敷地がある。踏切を渡りそのまま北に進むと、京都府道29号宇多野嵐山山田線と常寂光寺を結ぶ道に合流する。この辺りから観光客の数が増えてくる。 さらに木立や生垣の続く道を北西方向に進むと、大きな畑が現れ景色が一変する。小倉山を背にして広がる田園風景は、嵯峨野を代表する景色でもある。畑の奥には有智子内親王墓の木々と落柿舎がある。落柿舎は解体工事中なのか素屋根が架けられている。… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み

 

嵯峨野の町並み(さがののまちなみ) 2008年12月21日訪問 嵯峨野の町並み 嵯峨野の代表的な風景 落柿舎前から眺める  嵯峨あるいは嵯峨野という地名は、東西は小倉山の東から太秦や宇多野の西まで。南北は愛宕山麓の南から桂川の北までの地域を指し示す。行政地区名としては嵯峨が嵯峨野よりも多いように見えるが、観光地としては嵐山から鳥居本あたりまでの小倉山に沿った社寺が建ち並ぶ地域を嵯峨野と呼ぶのが一般化している。地名の由来には、坂あるいは険しなどの地形に起因するという説と中国西安郊外の巀辥山を嵯峨山と読んだという説があるようだ。  嵐山の町並み項でも触れたように、… ►続きを読む

 

野宮神社

 

野宮神社(ののみやじんじゃ) 2008年12月21日訪問 野宮神社 黒木鳥居  小倉百人一首文芸苑を過ぎ、嵯峨野の竹林に入り西に進むと、小路は北に折れる。その先で、天龍寺北門経由で大河内山荘へ至る道と、野宮神社やJR山陰本線踏切経由して落柿舎へと続く道に分かれる。 この分かれ道の角に、三宅安兵衛遺志の檀林寺旧跡・前中書王遺跡の道標が建つ。この碑の内容については、嵯峨野の歴史(嵯峨野の町並み)と共に説明することとし、先に進むと左手に黒木鳥居と小柴垣に囲まれた野宮神社の社域が現れる。 野宮神社 左に白峰弁財天、白福稲荷大明神、大山弁財天、野宮大黒天 中央に野宮大神(天照大神) 右に愛宕大… ►続きを読む

 

嵯峨野の竹林

 

嵯峨野の竹林(さがののちくりん)  2008年12月21日訪問 嵯峨野の竹林  京都府道29号宇多野嵐山山田線を三宅安兵衛遺志の天龍寺・嵐山の道標の建つ角で西に曲がると小倉百人一首文芸苑の建石町広場が右手に現れる。この先から嵯峨野の竹林が始まる。 嵯峨野の竹林 嵯峨野の竹林  嵯峨野という地名から思い浮かべる風景はと問われれば、多くの人は人気の少ない竹林の小道をあげるのではないだろうか。この日はまだ朝早かったため観光客の姿は少なく、地元の人の散歩道という風情であった。これが昼近くなると人通りの多い道に変わってしまう。ただの竹林ならば、他の道でも見かけることができる。嵯峨野の小… ►続きを読む

 

小倉百人一首文芸苑

 

小倉百人一首文芸苑(おぐらひゃくにんいっしゅぶんげいえん) 2008年12月21日訪問 小倉百人一首文芸苑 建石町広場  小督塚の前を北に進み、突き当りを右に曲がると、京都府道29号宇多野嵐山山田線に出る。右手に京福電鉄嵐山線の嵐山駅、左手に天龍寺が現れる。そのままさらに北に向かい、釈迦堂・清瀧方面と三宅安兵衛遺志の天龍寺・嵐山の道標の建つ角で西に曲がる。嵯峨野の竹林が始まる右手前に小倉百人一首の歌碑を並べた小倉百人一首文芸苑のひとつがある。 小倉百人一首文芸苑 左は三宅安兵衛遺志の碑 小倉百人一首文芸苑  平安時代末期から鎌倉時代前期の武将である宇都宮頼綱が嵯峨野に建築した… ►続きを読む

 

小督塚

 

小督塚(こごうつか)  2008年12月21日訪問 小督塚  渡月橋を渡り切り桂川の左岸、すなわち嵯峨に入る。桂川の川岸の三条通を西に進み、最初の道を北側に入ると、左手に小督塚がある。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、中山家の始祖となった中山忠親の日記・山槐記によると治承4年(1180)の時に小督は23歳であったとされている。このことから小督は、桜町中納言藤原成範の娘として保元2年(1157)に生まれたと考えられている。類い稀な美貌を持ち、琴の名手となった小督は、宮中に上がり高倉天皇の寵愛を受けるようになった。高倉天皇は応保元年(1161)生まれであるから、小督の方が年上で… ►続きを読む

 

渡月橋

 

渡月橋(とげつきょう) 2008年12月21日訪問 渡月橋  法輪寺の裏参道を出ると、正面に大堰川と渡月小橋が現れる。 嵐山の項でも触れたように、渡月橋より下流は桂川と呼び、その上流を大堰川、あるいは保津川下りのように亀岡市保津町から渡月橋間を保津川と呼ぶこととなっている。 淀川水系のひとつである桂川は、京都府京都市左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する。左京区広河原、左京区花脊を南流し、花脊南部で流れを西へと大きく変える。京都市右京区京北を常照皇寺から山国神社へと東西に横断し、南丹市日吉町の世木ダム、日吉ダムを経由、以降は亀岡盆地へと南流する。亀岡市の中央部を縦… ►続きを読む

 

法輪寺 その2

 

真言宗五智教団 智福山 法輪寺(ほうりんじ)その2 2008年12月21日訪問 法輪寺 多宝塔  天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会には、禁門の変で焼け落ちる前の法輪寺の姿が残されている。この図会には現在の状況と一致する場所も、しない場所も存在し、なかなか興味深い。図会の下部には恐らく物集女街道と思われる道と民家が描かれている。ここから境内に入るとすぐに石橋が現れる。安永9年(1780)に刊行された都名所図会には、     轟橋 楼門の前にかくる橋をいふ とあるので、江戸時代の橋がそのまま残ったように思われる。現在この轟橋の下には池がないため、無用の橋となっている。図会では、… ►続きを読む

 
 

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