東福寺 龍吟庵 その4
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん)その4 2009/11/28訪問
東福寺 龍吟庵 その3では、一条実経が無関普門禅師を東福寺に招いたところまで記した。ここからは亀山上皇と無関普門とのことに記してみる。
弘安の役終結後の正応2年(1289)亀山上皇は離宮禅林寺殿で落飾し、法皇となっている。虎関師錬が記した南禅寺の由来書「文応皇帝外紀」によれば、この当時の離宮には怪異な事が頻繁に生じていた。法皇は、高僧の徳を以って収めるしかないと考え、奈良西大寺の叡尊上人を迎えている。しかし、叡尊の法力を以ってしても、怪は退散しなかったため、次に無関禅師が召される。禅師は護摩を焚いたり呪文を唱えるでなく、雲衲と共に離宮に留まり、坐禅、掃除、勤行と、禅堂そのままの生活を送られる。これにより遂に怪異現象は鎮まる。
虎関師錬は、既成の宗教(叡尊は真言律宗の僧)に対する、臨済宗の優位性を述べる例として、上記のような逸話を記したと思われる。叡尊は弘安4年(1281)蒙古襲来に際して、亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦している。また弘安7年(1284)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却し、弘安9年(1286)宇治橋が修築すると、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立するなど勧進修造活動にも活躍した鎌倉時代中期を代表する高僧である。そして上記の逸話のすぐ後の正応3年(1290)西大寺で病を発し秋には示寂している。享年90。
正応4年(1291)亀山上皇が離宮禅林寺殿を南禅寺に改め、無関普門禅師を開山として迎えるが、禅師は病を得て東福寺に帰山せざるを得ない状況になる。禅師の病篤きことを知った法皇は、龍吟庵に禅師を見舞い、数日間駐輦され自ら看護したとされている。病態がいよいよ重くなるや、禅師は
来無所在 去無方所 畢竟如何 喝 不離当処
という遺偈をしたため、12月12日に龍吟庵で遷化されている。享年80。「大明国師行状記」によれば、遺骸は庫裏の背後の慧日山龍吟の丘にて火葬に付され、遺骨は銅製の骨蔵器に納め、石櫃に入れられ埋葬されたとされている。「古寺巡礼 京都 18 東福寺」(淡交社 1977年刊)には、龍吟庵蔵で東京国立博物館寄託の重要文化財・大明国師(無関普門)銅骨蔵器(一合)の写真が掲載されている。一面緑青に覆われた円筒形の骨蔵器の側面には、「正応四年十二月十二日于時東福禅寺師霊骨龍吟補口」の銘が施されている。文化庁の国指定文化財等データベースに掲載されている「