亀山陵 その2
亀山陵(かめやまのみささぎ)その2 2009年11月29日訪問
亀山天皇の亀山陵は、後嵯峨天皇の嵯峨南陵の左側に同じ檜皮葺宝形造の法華堂という形で並ぶ。
大覚寺や妙心寺 その3で同じことを書いてきたが、父の後嵯峨天皇によって作りだされた両統迭立により、亀山天皇は最初の大覚寺統の天皇となっている。第90代亀山天皇は建長元年(1249)後嵯峨天皇と中宮藤原姞子との間に第7皇子・恒仁親王として生まれている。正嘉2年(1258)正嘉の飢饉の最中に10歳で立太子。同母兄に第89代後深草天皇となる久仁親王、異母兄に鎌倉幕府第6代将軍に就任する宗尊親王がいる。
兄の久仁親王は、寛元元年(1243)外祖父の太政大臣西園寺実氏の今出川邸第にて誕生し、生後2ヶ月で立太子。そして4歳となった寛元4年(1246)の正月、後嵯峨天皇の譲位により即位する。後嵯峨上皇が院政を敷くための譲位であったが、この時点で未だ恒仁親王が生まれていなかった。そして久仁親王は正元元年(1259)に瘧病を患っている。これは恒仁親王が10歳で立太子した正嘉2年(1258)の翌年にあたる。
瘧病とは「おこり」のことで、1日から2日おきに周期的に悪寒と発熱を繰り返す症状が現れる。この古文献等にしばしば現れる症状はマラリアによるものであったと考えられている。単細胞生物であるマラリア原虫が病原体で、ハマダラカによって媒介される。今では熱帯から亜熱帯に広く分布する病気というイメージ強い。現在は絶滅したものの、かつて日本でも土着マラリアが存在していたようだ。恐らく、後深草天皇はそれに感染したのであろう。 また、瘧病以外にも、後深草天皇は幼少の時から足腰の発育がおくれていたらしく、青年になっても右の方に傾く身体つきであったとされている。いわゆる蒲柳の質だったのであろう。一方、弟の恒仁親王が健康で聡明、そして闊達な性質であったことより、父後嵯峨上皇、母大宮院の愛が急速に恒仁親王に傾くこととなっていった。そして瘧病を患ったことを契機として、正元元年(1259)11月26日に父上皇の計らいにより、後深草天皇は無理に譲位させられたと考えられている。この譲位には母である藤原姞子、すなわち大宮院の意向が強く反映していたようだ。そしてそれが20数年後に再び現れることとなる。
後嵯峨天皇の中宮であり、後深草・亀山両天皇の生母である藤原姞子は、西園寺実氏の長女として嘉禄元年(1225)に生まれている。仁治3年(1242)1月の後嵯峨天皇の即位を受けて、6月に急遽18歳にして女御となり、その2ヵ月後に中宮に冊立されている。そして久仁親王が生まれたのが、その翌年の事である。後嵯峨天皇と中宮の夫婦仲は非常に良く、6名の子女に恵まれている。
弘長3年(1263年)、鎌倉騒動で第6代将軍の宗尊親王が鎌倉から送り返され、代わって惟康親王の下向を要請される。文永2年(1265)には、元の国書が高麗を介して伝えられ、鎌倉から送達される。幕府は元に備えると共に、朝廷は神社に異国降伏の祈願を行う。亀山上皇の院政中に、2度の元寇が起こり、自ら伊勢神宮で祈願するなど積極的な活動を行っている。文永4年(1267)世仁親王(後の後宇多天皇)が生まれると、翌文永5年(1268)後嵯峨上皇の意向のもとにこれを立太子。
文永9年(1272)後嵯峨法皇が崩御し、治天の君の継承と、皇室荘園領の問題が起こる。法皇の遺産はその遺詔に従って処分された。文永9年(1272)正月15日附けで作成された後嵯峨院御処分状には、亀山殿と浄金剛院は大宮院に、如来寿量院と薬草院は円勝法親王(後嵯峨院の庶長子)に相続されている。しかし鳥羽離宮や六勝寺を次の治天の君に与えるとだけ書かれ、具体的な選任は鎌倉幕府に一任されていた。幕府は大宮院に後嵯峨院の真意について質している。大宮院は、後嵯峨上皇が世仁親王(後の後宇多天皇)を文永5年(1268)に皇太子として認めていることから、親王の実父である亀山天皇が治天の君として院政を行う事が妥当とする趣旨による回答している。幕府はそれに従い、亀山天皇に対して次の治天の君を要請している。この時は未だ亀山天皇の在位中であったため、ここから亀山親政となったと同時に、持明院統と大覚寺統の対立につながって行く。
この幕府の裁定は、治天の君が皇位継承における決定権を有しているため結果的に亀山上皇の子孫が皇位を継承する可能性を高めることとなった。そして文永11年(1274)正月、亀山天皇は皇太子の世仁親王に譲位して院政を開始する。この事態に後深草上皇は激しく反発し、上皇の尊称を返上して出家する意向を表明する。この事態を憂慮した西園寺実兼の幕府への折衝により、幕府は持明院統への甚だしい冷遇を危惧し、妥協案として後深草上皇の皇子熙仁親王(後の伏見天皇)の立太子を推進して行く。まず建治元年(1275)に熙仁は亀山天皇の猶子となり親王宣下を行い、次いで皇太子となっている。続いて弘安9年(1287)には亀山上皇の嫡孫にあたる後宇多皇子の邦治王(後の後二条天皇)が親王宣下されている。そして弘安10年(1287)に熙仁親王が即位して第92代伏見天皇となる。さらに鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の嫡男で第7代将軍にあった惟康親王が廃されて、後深草上皇の皇子である久明親王が第8代将軍として鎌倉に迎えられるなど、持明院統にとっては大覚寺統との待遇の違いが解消されるばかりか、大覚寺統に対して優位を占めるようになってきた。これは、亀山上皇と関東申次の西園寺実兼との不和に加えて、霜月騒動で失脚した安達泰盛と親しい関係にあった事が幕府を刺激したためとされている。
このような情勢の変化によって、正応2年(1289)41歳で亀山上皇は南禅寺で出家し法皇となる。その後、禅宗に深く帰依した亀山法皇の後半生は、公家の間に禅宗が徐々に浸透していくことに結び付いている。嘉元3年(1305)亀山殿で崩御、宝算57。遺詔で末子であり当時3歳の恒明親王の立太子の意思を示している。親王の伯父である左大臣西園寺公衡が実現工作に動いたために、後宇多上皇の強い反発を招き大覚寺統内部に混乱を招くこととなった。
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