アーカイブ:2012年 8月
大徳寺 黄梅院 その2
大徳寺 黄梅院(おうばいいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 黄梅院 前庭と玄関、庫裏 本日の大徳寺の塔頭への訪問の最後となる黄梅院へと向かう。 黄梅院は第98世春林宗俶が創立した黄梅庵が前身となっている。この地にはもと第87世休翁宗萬の塔頭龍福院があった。休翁は龍泉派の第79世悦溪宗忢の法嗣であり、天文3年(1534)64歳で寂している。休翁の法嗣である第92世玉堂宗條が永禄4年(1561)に82歳で寂すると、後継者がいなくなり永禄5年(1562)8月に本院である龍源院に寄進されている。黄梅院文書に残されている龍源院納所請取所によると、龍源門下で瑞峯派の春林… ►続きを読む
大徳寺 興臨院 その4
大徳寺 興臨院(こうりんいん)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 興臨院 北庭 興臨院は大徳寺の山門の西に位置する。東面する平唐門とその先の玄関の唐破風屋根は、ほぼ東西軸上にある。玄関の北側には本堂があり、ここまでの表門、玄関そして本堂が創建時の建物とされ重要文化財に指定されている。なお本堂東側の庫裏は後世に再建されている。慶長2年(1597)の校割帳により、創建時は本堂と庫裏で構成されていたことが分かる。ここには本堂と庫裏の諸室とその大きさ(畳数)が記されている。本堂:真前 客殿 礼間(12) 檀那間(12) 書院(眠蔵長床とも13) 小座敷(6.5) … ►続きを読む
大徳寺 興臨院 その3
大徳寺 興臨院(こうりんいん)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 興臨院 方丈南庭 芳春院の長い参道を歩き、再び大徳寺の庫裏と法堂に戻る。この後は春と秋に特別公開を行なっている興臨院と黄梅院を訪問するため、勅使門まで南に下る。 大徳寺 興臨院 山門 2008年5月19日撮影 大徳寺 興臨院 庫裏と玄関へと続く参道 興臨院は2008年5月に訪問して以来、昨年の秋にも訪問しているので、3回目の訪問となる。同じ時期ではあるものの、昨年より一層紅葉が美しいので非常に楽しみである。 大徳寺 興臨院 方丈玄関 大徳寺 興臨院 方丈南庭 大徳寺 興臨院 方丈南庭… ►続きを読む
大徳寺 芳春院 その2
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 芳春院 呑湖閣 芳春院の本堂南庭は花岸庭と呼ばれる新しい庭。松子が好んだとされる桔梗の花が一面に生い茂る庭を1989年に中根金作が禅宗の南庭の様式を守り、なおかつ、どことなく女性的な雰囲気を漂わせる美しく優しい庭に改めている。白砂を敷き詰めた方形の庭の奥に苔地と石組みを築くことは、南禅寺本坊庭園などと同じ手法である。単に自然の雄大さを表現すると白砂の大海に対して陸地を表わす苔地の曲線が単調なものとなってしまう。二次元的には小さな入り江状の部分を何箇所か設け、苔地全体に緩やかな三次元的な動きを与えることで女性的な… ►続きを読む
大徳寺 芳春院
大徳寺 芳春院(ほうしゅんいん) 2009年11月29日訪問 大徳寺 芳春院 花岸庭 総見院を出て東隣りに並ぶ聚光院の前を過ぎると、目の前に大徳寺の庫裏と法堂が現れる。ここで左に曲がると大仙院と真珠庵へ続く道となっているが、今回は大仙院の方丈屋根が見えたところで曲がらずに、そのまま北に進む。ほどなくして芳春院の山門が現れる。芳春院は大徳寺の境内で最も北に位置する塔頭で、通常は非公開であるが、今回は秋の特別公開を利用して拝観する。 大徳寺 芳春院 山門 大徳寺 芳春院 参道 慶長13年(1608)加賀百万石の祖・前田利家の夫人まつが玉室宗珀を開祖として建立した塔頭。松子の法… ►続きを読む
大徳寺 総見院 その2
大徳寺 総見院(そうけんいん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 総見院 本堂と茶筅塚 孤篷庵の前の見事な石畳を歩き、今宮門前通を越えると、いよいよ大徳寺の境内という気分になる。水上勉は「日本名建築写真選集 12 大徳寺」(新潮社 1992年刊)に寄稿したエッセイ「純禅の道 大徳寺随想」でも下記のように記している。 この孤篷庵へののぼる石畳の道はほかの塔所より、距離がながいこともあって美しい。私の育った紫野中学校(現・紫野高校)の校舎の横のなるい勾配の坂道である。 龍翔寺の山門前を過ぎると、近衛家廟所の周囲に調和していない石積みの塀が見える。その先に総見院の山門が現れ… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵 その4
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 延段 大徳寺 孤篷庵で、小堀政一と春屋宗園や江月宗玩との関係について書いてみた。また、大徳寺 孤篷庵その2、大徳寺 孤篷庵その3で政一の仕事の中の建築と作庭を中心に眺めてきた。比較的長く書いてみたものの、茶の湯については触れていないので、遠州芸術の全体像を紹介することにはならない。それでも寛永文化を代表する人物の一人であり、遠州好みを生み出す背景となったものの一端が伺えるものとなった。 大徳寺 孤篷庵 境内 ここでは、非公開となっている孤篷庵の建築について資料等を参照しながら書いてみる。 大徳寺 孤… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵 その3
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 石橋 大徳寺 孤篷庵その2に続き、二条城への行幸以降の小堀遠州の後期の仕事を年代順に見ていく。二条城行幸を無事に終えた寛永3年(1626)小堀政一は大阪城再建の現場に再び戻り、天守並びに本丸御殿の作事に従事している。そして寛永4年(1627)より仙洞女院御所の作事を手がけている。慶長18年(1613)幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図る目的で、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定め、さらに慶長20年(1615)に禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵 その2
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 石橋と山門 大徳寺 孤篷庵に続き、小堀遠州の前期の仕事を年代順に見ていく。まず慶長11年(1606)に後陽成院御所の造営奉行となっている。この造営は関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が、織田信長、豊臣秀吉の皇室政策を継承して秀吉の造営した禁裏を拡張し、女御御殿と後陽成天皇の院御所を新造するものであった。宮内庁書陵部には後陽成院御所指図が遺されている。総奉行は板倉伊賀守勝重が務め、その指揮下にいた9名の奉行の中に小堀作介(政一)が含まれていた。 また同時期に遠州は江戸城普請の手伝いも行なっている。既に慶長8年(1… ►続きを読む
大徳寺 孤篷庵
大徳寺 孤篷庵(こほうあん) 2009年11月29日訪問 大徳寺 孤篷庵 山門 京福電気鉄道の北野白梅町駅で北野線を下り、駅前の京都市営バスの停留所から205号に乗車する。大徳寺へ行くのならば、7つ目の大徳寺前で下車すればよいのだが、塔頭の孤篷庵を訪問するならば、4つ目の千本北大路で下りる方がよいだろう。 京都市営バス205号を下車した後、北大路通を東に進む。南北に走る船岡西通と北大路通の角に大徳寺納豆と和菓子の紫竹庵本店が建つ。この紫竹庵本店の店舗前に大きな円柱状の「孤篷庵前」という道標が建てられている。ここから北側は住宅地となっているため、この道標は非常に有難い。北大路通から船岡西… ►続きを読む