大徳寺 塔頭 その2
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その2 2009年11月29日訪問
大徳寺の塔頭 孤篷庵の前の道を東に進み、大徳寺の主要伽藍のある場所に向かう。この道沿いには、かつて大徳寺に存在していたが、現在失われた5つの塔頭の址を示す碑が建つ。寸松庵・梅巌庵趾の碑は、孤篷庵の向かいにある京都府立盲学校幼少中等部の敷地の東南隅に建てられている。寸松庵は、元和7年(1621)龍光院の江月宗玩を開祖に佐久間実勝が創建した塔頭である。梅巌庵は大徳寺第169世天祐紹杲を開祖とした塔頭。寛永20年(1643)友松宗祐が父梅巌紹薫のために寸松庵の西に創建。大光院趾・瑞源院趾の碑は、京都市立紫野高等学校の体育館の前に建つ。天正19年(1591)豊臣秀吉の弟で大和郡山城主の豊臣秀長が没し、子の秀俊が古渓宗陳を請じて、文禄年間(1592~96)大和郡山に大光院を創建している。元和年間(1615~24)藤堂高虎は金龍院南のこの地に大光院を移している。なお昭和29年(1954)龍光院の南の現在地に移再び移転している。瑞源院は大光院の西にあり、江月宗玩を開祖として福山城主の水野勝成が創建している。明治の廃仏棄釈で廃寺となる。
ちなみに現在この地にある紫野高校の開校は昭和27年(1952)で大光院が移転した後に校地としたのであろう。なお紫野高校は旧制紫野中学校であり、その前身は相国寺、東福寺、大徳寺三山が徒弟教育のため建てた学校の般若林である。水上勉は旧制紫中学校の出身者であり、氏の「私版京都図会」(作品社 1980年刊)の今宮神社界隈には下記のように記されている。
仏門立の学校だから、いまのような鉄筋ではない。今宮参道に面した左手の現存の校門と同じ場所に石柱が二本立ち、平屋の教室が瓦屋根をしずめてニ棟あり、登下校道路をはさむようにして山に向かっていた。正面に講堂(雨天体操場)。それだけが校舎で、孤篷庵の石畳道の境まで、南北に切妻をみせて建った本堂が一つ。この地にあった大光院か瑞源院の建物である。ここに寄宿舎と食堂があり、あとは講堂の上の山を切りくずして、赤土をローラーで踏みかためた校庭だった。当時は近くに家はなかったので、まるで山のてっぺんを広場にした感じで、森の向こうに、孤篷庵がまたさらにふかくしてしずんでいた。(中略)
私の記憶にまちがいなければ、宗門立紫野中学が廃校になったのは、昭和七、八年で、経営者だった各本山は、この敷地を、大宮にあった「淑女高女」(?)に売却し、女学校が越してきたはずである。この女学校の後身が、いまの「紫野高校」になったと思う。
この後、水上は「京都遍歴」(立見書房 1994年刊)で下記のように修正している。
私の記憶にまちがいなければ宗門立紫野中学が廃校になったのは、昭和十年で、経営者だった各本山は、この敷地を、大宮にあった「淑女高等女学校」に売却し、女学校が越してきたはずである。この女学校の後身が、いまの「紫野高校」になったと思う。
水上は昭和6年(1931)4月から2年間、紫野中学校で学び、等持院の徒弟となってからは花園中学校に編入している。氏の記憶を信ずるならば、恐らく大光院の本堂は昭和6年(1931)頃まで残っていたものの、本堂としては使われていなかったようだ。そして「赤土をローラーで踏みかためた校庭」であった角には、金龍院趾の碑が建つ。金龍院は慶長年間(1596~1615)飛騨高山城主の金森長近が、主君であった織田信長の追福のため伝叟を請じて創建している。
これら3本の石碑と「日本名建築写真選集 12 大徳寺」(新潮社 1992年刊)に掲載されている川上貢氏による「大徳寺の歴史と建築 伽藍と塔頭」より、今宮門前通の西側には孤篷庵、梅巌庵、寸松庵、碧玉庵、金龍院、瑞源庵そして大光院の7塔頭が存在し、東側から順次建立されたことが分かる。またその中で寛永21年(1644)に龍光院から、この地に移された孤篷庵が最も新しい塔頭であり、なおかつこの地に残ったため孤篷庵が大徳寺の中心部から離れたように見えている。
改めて大徳寺の寺域拡大の歴史を辿りながら、その塔頭の発展を見てゆくこととする。
沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」によると、大徳寺の開祖となる宗峰妙超が洛北の紫野に小庵を結び移り住んだのは、34歳の正和4年(1315)のことであったとしている。このあたりは諸説あるようだが、公式的には一寺住持としての処遇は与えられていなかったと考えられる。宗峰自筆の敷地証文案より元亨4年(1324)5月には大徳寺敷地として「雲林院辺菩提講東塔中北寄弐拾丈」の地の寄付を得たことが確認されている。そして正中2年(1325)に行なわれた正中の宗の後、同年2月には花園上皇が大徳寺を持明院統の御祈願所とし、7月に後醍醐天皇より朝廷の勅願道場とする綸旨を賜っている。ここに大徳寺は南北両朝の祈願道場となり、大徳寺の成立年時とされている。これ以降、宗峰は皇族や公卿の帰依を得て寺領を入手し、寺院経営が安定が見られるようになる。元弘3年(1333)8月、隠岐より京に戻った後醍醐天皇は、大徳寺に本朝無双之禅苑の宸翰(後醍醐天皇宸翰 御置文 国宝 大徳寺蔵)を下されている。そして11月には綸旨を下し、大徳寺を五山のうちに加列している。川上貢氏は「禅院の建築 禅僧のすまいと祭享 [新訂]」(中央公論美術出版 2005年刊)の中で、北条氏が定めてきた鎌倉を中心とした五山編成を打破し、南禅寺と大徳寺の両寺を主軸とした京都中心の五山編成に改める意図を指摘している。同年(1333)11月末に寺院敷地管領のための綸旨が大徳寺に下されている。川上氏は後醍醐天皇によって東西60丈南北90丈の敷地が大徳寺に与えられたのではなく、この時期までに大徳寺が自ら拡張してきたものを公式に承認したものであったと考えている。そして京内住人の葬所の一つとして使われてきた雲林院と延暦寺梶井門跡の紫野坊の位置関係を推定している。これによると初期の大徳寺は現在の北大路通より北側で、紫野上門前町と紫野下門前町の半分程度(大宮通より1本西側あたり)が境内に含まれていたとしている。また雲林院の所在も現在の北大路通より北側を含む紫野雲林院町あたりとしている。
建武4年(1337)3月に宗峰妙超は徹翁義亨を後継者に選び、12月22日(1338/1/13)入寂する。前年の建武3年(1336)5月に湊川の戦いに破れ、後醍醐天皇は比叡山へ逃れている。そして12月に吉野で南朝を開き、南北朝時代が始まるという政情安定しない中で、徹翁義亨に大徳寺を託して宗峰は亡くなっている。宗峰の入寂わずか5日後に、義亨を大徳寺住持に任ずる院宣が出され、朝廷側の大徳寺外護の姿勢は変わらなかった。しかし武家側の姿勢は建武親政否定から始まっている。早くも暦応4年(1341)8月の幕府評定により、鎌倉旧五山寺院の優位を復活し、南禅寺を建長寺と同格に引き下げ、大徳寺を五山の列より外している。そして足利尊氏、直義兄弟による禅宗行政の方針が定まり、天龍寺の夢窓疎石を中心とする門派擁護が明確になってきた。この時より、幕府の統制や保護を受けない大徳寺の在野的立場が定まっている。永享3年(1431)9月に大徳寺側より幕府に五山十刹から離脱し、宗峰の素意に従い一流相承制を行なうことを願い出て、それが認められている。幕府からの外護を捨てることにより、幕府と僧録が掌握している住持任命権を、自らの手に戻すことが可能となる。しかしその反面、五山十刹から離脱したことより、大徳寺の門徒は他派の寺院の住持になれなくなる。そのため自らの門徒への修行の場を設け、住持登用の機会を増やす必要性が生じ、義亨の塔頭所である徳禅寺が必要となったと川上氏は見ている。
徳禅寺の創建については、「天応大現国師行状」に下記のように記されている。
寺前の地に相して別に山を開く、山名は霊山、寺号は徳禅、池を鑿ち石を畳む、宛塵外に有り
霊山徳禅寺は別の山号持つ別寺として貞和3年(1347)頃に、近世の養徳院、松源院から大徳寺南前の民家あたりの地に創建されたと考えられる。「龍宝山大徳禅寺世譜」でも「山上に玲瓏閣竹影閣等ありて、舟を泛て往来す、今の松源、養徳の地、及び宝山門前東南いにしの霊山の封彊なり」とあり、広大な寺域を持つ大寺院であったようだ。応仁の乱で焼失した後、一休の帰依者である泉州堺の貿易商祖渓宗臨が、大徳寺総門東南角の現在地に再興している。
創建年時が明確ではないが第7世言外宗忠によって応安年間(1368~75)から至徳3年(1386)までに創建されたと考えられている。「大徳寺役者等連署充文」によると宗忠が入寂した翌年の明徳2年(1391)に如意庵は大徳寺の寺域内に寺地を持つことが正式に認められ、大徳寺の北隅に東西12丈(36.4メートル)南北20丈(60.6メートル)が衆評により議決されている。如意庵は徳禅寺に次いで造立された塔頭ではあるが、その規模を比較すると相当の隔たりがあったようだ。また、応永17年(1410)の「庵校割帳」から推測するところ、同時代の円覚寺塔頭黄梅院と比較してもはるかに小規模であったことが分かる。黄梅院は夢窓門徒が総力を結集して造営したものであり、五山に属さない大徳寺の勢力差が垣間見られる。
如意庵は応仁の乱で焼けるが、文明年間(1469~87)に再建される。創建当初から江戸時代初期までは現在の本坊庫が所存する位置、すなわち現在の法堂の北、聚光院の東、大仙院の南にあった。その後、寛永年間(1624~44)に徳禅寺東南の地へ、明暦2年(1656)第169世天祐紹杲により龍翔寺の東北へ、そしてさらに宝永3年(1706)松源院裡に移されている。ただし「龍宝摘撮」によると松源院西南への移築は享保年間(1718~36)としている。現在、聚光院の北側にある如意庵は、昭和47年(1972)第511世 大龜宗雄によって再興されたものである
創建年時や由緒について詳しいことは不明であるが、大用庵より早く長勝庵が創建されていることは、大用庵の敷地渡状の連署者に長勝宗鑑が見えることから分かる。真珠庵文書に残されている「真珠庵西地充状」に長勝庵宗仙が見えるように、応仁の乱後の明応3年(1494)頃まで、その存在は確認できる。しかし近世の初めには既に存在していない。川上氏は第11世徳翁宗碩を開基とし、法嗣の第19世乾用宗梵を創庵者と推測している。
永享11年(1439)第26世養叟宗頤が、大徳寺山内の如意庵東隣に開創した塔頭。養叟の師である第22世華叟宗曇の像(近江塩津高源院)を模して大用庵に安置し塔所とする。応仁の乱で焼失した後、一休の帰依者である泉州堺の貿易商祖渓宗臨が再興する。古くは旧方丈の北にあったが、元禄12年(1699)松源院の門内に移される。
「大徳寺 塔頭 その2」 の地図
大徳寺 塔頭 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 大徳寺 徳禅寺旧地 | 35.0416 | 135.7467 |
02 | 大徳寺 如意庵旧地 | 35.0439 | 135.7459 |
03 | 大徳寺 長勝庵旧地 | 35.0443 | 135.7458 |
04 | 大徳寺 大用庵旧地 | 35.0439 | 135.7464 |
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