大徳寺 塔頭 その3
大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その3 2009年11月29日訪問
享徳2年(1453)8月4日夜、大徳寺山内の諸堂が焼失している。「東海一休和尚年譜」によると大徳寺第38世惟三宗叔の開堂を記した後、下記のように書き残している。
七月、鬱攸崇を為す、鐘魚索然、惟だ浴堂、門廡及び如意大用僅かに存す。
このように浴堂と山門の庇、妙意庵と大用庵以外はことごとくを失っている。第26世で大用庵を開創した養叟宗頤は、大徳寺再興に着手している。まもなくして法堂と方丈がなる。そして大用庵の建物を移し、雲門庵を再建している。被災5年後の康正3年(1457)宗頤は、後花園天皇より宗慧大照禅師の号を賜っている。これは大徳寺再興の功によるものだと考えられている。
この享徳の火災そして応仁元年(1467)に発生した応仁の乱以降に新設された塔頭について記す。
第45世岐庵宗揚が文明年間(1469~87)あるいは文明7年から同16年までの間(1476~84)に創建。文明18年(1486)太清院渡地の衆議があり、徳禅寺の寺地にある正印庵旧跡が太清院敷地として渡されている。また永正4年(1507)頃までに山内衆議に加入していることが衆評記録で確認できることから、塔頭であったことが分かる。その後、後継者に恵まれなかったことより、大用庵に付属する寮舎に下落し、さらに太清院が確認できたのは、天文3年(1534)のことであった。
天正20年(1592)龍泉庵に移管され、その寮舎となっている。文禄元年(1592)になって太清軒及び屋敷は衆評で「龍泉軒宗銕」に請け負わせている。その後廃壊している。なお寛永正保間(1624~48)に175世随倫宗宜が龍泉庵門右に建てた庵に太清軒の旧号をつけて住しているが、これ以降のことは龍泉庵の「太清軒」に記述する。
真珠庵は第47世一休宗純の塔所であり、真珠庵を拠点として展開する真珠派は大徳寺四派の一派を形成している。創建は永享年間(1429~41)で応仁の乱で焼失したとされている。宗純は長禄3年(1459)春に徳禅寺住持に請ぜられ、また文明6年(1474)大徳寺住持に出生している。しかしその存命中、山内に庵居または塔頭を設けずに洛中に瞎驢庵などを活動の拠点としていた。
宗純の寂後10年目にあたる延徳3年(1491)7月に真珠庵は創建されている。大用庵の北、大宮通の西の現在地に造立されている。寄進者は非常に多かったが、その中でも大徳寺再建のスポンサーとなった堺の豪商尾和宗臨の出資が多く、真珠庵創設の大檀越となっている。
玄関、表門そして東門を含む方丈、書院の通僊院と茶室庭玉軒、そして庫裏が重要文化財に指定され、真珠庵庭園が史跡名勝天然記念物に指定されている。
通僊院:天文年間(1532~55)に没倫紹等座元が真珠庵の北に創める。檀越は医者の半井通僊院瑞策良室(1522~96)。皇后の病を治し正親町天皇より通僊院の院号を賜わり、東福門院の宮殿を拝領する。現在の真珠庵の書院通僊院となる。
松源院は文明年間(1469~87)あるいは延徳4年(1492)7月に第40世春浦宗熈の寿塔として徳善南隅に開創された塔頭。寺地は延徳4年(1492)7月19日付で渡与されている。現在の黄梅院の南隣、養源院の西方に当たる地に、東西15丈(45.5メートル)南北13丈(39.4メートル)の寺域を持った。明応5年(1496)春浦宗熈が入寂すると、法嗣の第56世實傳宗眞に継がれる。元禄12年(1699)大用庵と松源院を一院となし、客殿を旧大用庵の建物としている。昭和55年(1980)廃絶していた松源院を奈良県大宇陀に再興している。
第3代将軍足利義満の弟の足利満詮夫人である妙雲院殿善室慶公(永享5年(1433))を弔うために、息女文渓聖詮が妙雲院を東山祇園に創立している。その後聖詮が亡くなると姉で通玄寺内の曇華院住持であった竺英聖瑞が、父足利満詮、母善室夫人、妹聖詮尼の後生菩提と自身の菩提のために、妙雲院の護持を第40世春浦宗熈に委託している。宗熈は当時東山に大蔭庵を構えていたため、聖瑞尼は寂後の始末を依頼したと考えられる。しかし尼院を委託されることができないため、寛正6年(1465)足利満詮の法号を寺号として僧所に改めている。応仁の乱で被災した養徳院は、延徳4年(1492)頃には雲林院近辺にあったと考えられている。春浦宗熈は明応5年(1496)に寂し、法嗣の第56世實傳宗眞に継がれる。現在、養徳院の開祖は實傳宗眞とされているが、養徳院の山内への編入は諸説ある。明応年間(1492~1501)あるいは明応元年(1492)、永正4年(1507)などの説がある。川上氏は永正4年(1507)4月8日に入寂した宗眞の塔所が、養徳院ではなく伏見の清泉寺にあることに注目し、入寂時には養徳院は山外にあり、その後まもなくして山内に編入されたと推測している。なお養徳院は永正4年(1507)以来寺地を動かしていない。ただし本堂、玄関、庫裏の建物は創建当初のままでなく、建物全体に改造の手が加えられ、庫裏では建物規模を半分程度に縮小している。
第47世一休宗純と競い合った第26世養叟宗頤から、第40世春浦宗熈を経て第70世陽峯宗韶が明応年間(1492~1501)に龍泉庵を開創している。戦国時代前期の武将多賀豊後守高忠(1425~1486)が檀越となっている。真珠庵を本庵とした真珠派に対して、この龍泉庵を本庵としたのが龍泉派である。明応元年(1492)7月19日付の文書には、宗韶は妙意庵主で現れ、第61世天琢宗球大徳寺住持の他に、太清軒、長勝庵、如意庵、真珠庵、大用庵、養徳院、徳禅寺などの名が残っている。この時点ではまだ龍泉庵は存在していなかったと考えられている。はじめ方丈の北にあって龍泉軒と号し、後に庵号に改められている。
元和年間(1615~24)第162世 日新宗益が再興。「龍宝摘撮」では「此の下、四庵出ず、太清、雑華、清心、雲林」と記し、「之を龍泉庵派と謂う」としている。明治9年(1876)芳春院に統合されるが、昭和33年(1958)紹溪尼(佐々木ルース婦人)によって、日米第一禅協会日本支部が設立し再興される。
この記事へのコメントはありません。