アーカイブ:2012年 10月
高台寺 圓徳院
高台寺 圓徳院(えんとくいん) 2009年11月29日訪問 圓徳院 方丈南庭 朝、天龍寺を訪れた時には非常に良い天気であったが、大徳寺を廻るあたりから曇りがちとなり、一番気になっていた祇園閣からの眺望を楽しむ段になって、厚い雲に覆われた鈍よりとした空になってしまった。最後に最上層より四方の眺望を確認した後、大雲院の南門を潜りねねの道に出ると、たちまち東山の喧騒に戻る。次に訪れる圓徳院は高台寺の塔頭の一つである。高台寺には何回か訪問しているが、今まで一度も訪れたことがなかった。前回も高台寺と圓徳院の共通券を購入したにも関わらず、時間がなかったのか圓徳院に入ることが適わなかったように思う。… ►続きを読む
祇園閣 その4
祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問 祇園閣 八坂塔方面 祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。 伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に… ►続きを読む
祇園閣 その3
祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問 祇園閣 明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかっ… ►続きを読む
祇園閣 その2
祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問 祇園閣 本堂西面からの眺め 大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねね… ►続きを読む
大雲院 その2
浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ)その2 2009年11月29日訪問 大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑 大雲院で記したように、天正18年(1590)大雲院は豊臣秀吉によって二条新御所から四条河原町の貞安前之町に移されている。そして昭和48年(1973)再び東山真葛ヶ原に移されている。四条寺町界隈の喧騒とした雰囲気の中で布教教化を行なうことが不適切であることは明白である。このような判断から移建されている。 現在、大雲院の旧地である貞安前之町には火除天満宮が残る。この天満宮は天正7年(1579)に六条街に開創されている。天正15年(1587)の大雲院の創建の際、鎮守社として… ►続きを読む
大雲院
浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ) 2009年11月29日訪問 大雲院 本堂 大徳寺で訪問した総見院、芳春院、興臨院、黄梅院の4つの塔頭は、通常は拝観謝絶の寺院である。今回、幸いにも秋の特別公開によって拝観が可能になっている。天龍寺から、京福電気鉄道嵐山本線と北野線さらに市営バスを乗り継いで大徳寺に着いたのが12時少し前であったから、上記の塔頭の拝観と山内を歩いている間に、すでに3時間も経っていたことに気がつく。天龍寺の宝厳院と弘源寺も特別公開であったことから、本日7番目の特別公開寺院として大雲院へ向かうこととする。15時少し前に、勅使門の西側にある門を潜り、大徳寺の団体バスの… ►続きを読む