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祇園閣 その2



祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問

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祇園閣 本堂西面からの眺め

 大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねねの道と呼ばれる高台寺道や高台寺の高台から眺める方が美しく見えることが、残念ながら今回の特別拝観で分かったことでもある。
 既に祇園閣で記したように、大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は大正15年(1926)老後保養の地として真葛ケ原に別邸を建設している。同時期に現在のホテルオークラの地に、大倉集古館の再興計画も含めて伊東忠太に設計を依頼している。長年に亘って収集した古美術・典籍類を収蔵・展示する目的で、既に大正6年(1917)に喜八郎は大倉集古館を本邸敷地内の一角に開館している。しかし開館から間もない大正12年(1923)関東大震災によって展示館と一部の展示品を失い、休館を余儀なくされていた。大倉集古館を再開するために耐震耐火建築による再建を伊東に託したのであろう。 喜八郎は昭和元年(1925)には90歳で南アルプス赤石岳登山を決行するなど、真葛ケ原で普通の隠棲生活を過ごすつもりはなかった。さらに展望台を兼ねた記念塔を建て、大倉集古館と同じく行く行くは一般に公開し、京都の名物にすることを考えていたようだ。

 大倉喜八郎が大倉集古館、真葛荘そして祇園閣の設計を依頼した伊東忠太は、江戸幕府の最末期となる慶応3年(1867)に羽前国米沢に生まれている。明治6年(1873)父の祐順が軍医を志願し家族と共に上京したため、番町小学校に入学し、さらに明治11年(1878)下総佐倉の連隊附の軍医になったため佐倉へ移り鹿山小学校に編入している。このあたりの経緯については「建築巨人 伊東忠太」(読売新聞社編 1993年刊)に掲載されている忠太自画伝に詳しく記されている。自画伝ということから忠太が晩年に挿絵を交えてまとめたもので、上巻として自らの出生から上京、そして父の転勤で移り住んだ佐倉での生活までを描いている。この後下巻は描かれることはなかったとされている。
 明治14年(1881)東京外国語学校独逸語科に入学、明治18年(1885)第一高等中学校に編入、明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業する。帝国大学卒業後、忠太は大学院に進み、翌明治26年(1893)に有名な法隆寺建築論を発表している。
 この論文では一般に良く知られているように、法隆寺の柱の胴張をギリシア建築のエンタシスと結びつけ、ギリシアから日本への様式伝播論を導き出している。このことが後年のシルクロードの流行による喧伝とあいまって、何となく科学的根拠を持ってしまった感がある。伊東がこの論文で行おうとした重要な点は、日本建築を日本の中だけで評価せず、西欧建築の美の規範で再測定しようとしたことにあったと考える。この明治中期に、批判精神を持って科学的に見る姿勢を示した訳である。しかし残念ながら推論を実証できるだけの根拠を提出できていなかったように感じる。これ以降法隆寺の再建時期に関する論争が行なわれたものの、学術的には忠太の様式伝播論は忘れ去られたというよりは無視されてきたともいえる。
 現在でも法隆寺を訪れる人々は、法隆寺の柱の胴張りにギリシア建築のエンタシスを連想することはあっても、それが明治中期に伊東忠太によって提唱されたことを思い起こす人はいるだろうか。法隆寺=エンタシスという図式を一般に広めたのは和辻哲郎の「古寺巡礼」であった。
     この建築の柱が著しいエンタシスを持っていることは、ギリシア建築との関係を思わせてわれわれの興味を刺戟する。シナ人がこういう柱のふくらみを案出し得なかったかどうかは断言のできることでないが、しかしこれが漢式の感じを現わしているのでないことは確かなように思う。仏教と共にギリシア建築の様式が伝来したとすれば、それが最も容易な柱にのみ応用せられたというのも理解しやすいことで、これをギリシア美術東漸の一証と見なす人の考えには十分同感ができる。

 このようにして、伊東忠太は「ギリシア美術東漸の一証と見なす人」となり、その名前は古寺巡礼から失われ、歴史学的には実証されていない説ではあるものの広く一般に広まって行ったのであろう。

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平安神宮 神楽殿 2008年5月12日撮影
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平安神宮 蒼龍楼 2008年5月12日撮影

 明治28年(1895)伊東忠太は平安神宮を木子清敬のもとで手掛けている。これが忠太の最初の建築作品となっている。木子清敬は弘化元年(1845)京の中立売通宝町に生まれている。伊東忠太との間には22歳という親子のような年齢差があった。生家の木下家は代々、宮中の修理職棟梁の家柄であった。そのため明治維新前から宮中に奉仕し、東京遷都後に宮内省に入っている。さらに、明治22年(1889)から明治34年(1901年)まで工科大学造家学科において授業を受け持っている。これは日本で初めて大学における日本建築史の授業であった。伊東忠太も学生時代に既に木子清敬の講義を受講したと思われる。稲葉信子氏の「帝国大学における「日本建築学」講義 建築アカデミズムと日本の伝統」によると、忠太は日記「浮世の旅」に、大学院に進学後も大学あるいは木子清敬の自宅で木子に会い、またともに旅行もし、木子の自宅では木子が所蔵する建築資料も閲覧していたことを記している。明治26年(1893)に伊東忠太を平安神宮建設に送り込んだのは木子清敬であり、平安神宮工事中、清敬に代わって京都に滞在し初めて日本建築の現場監督を務めたのは忠太であった。建築史家で東京大学教授を務めた鈴木博之氏の編書「伊東忠太を知っていますか」(王国社 2003年刊)によると、岸田日出刀が師である忠太に捧げた「建築学者伊東忠太」(乾元社 1945年刊)には、下記のような忠太の木子清敬に対する評が掲載されているとしている。
     木子講師の講義も、日本建築史を講述するものとしては不完全極まるものだつた。
     講義の内容は、主として江戸時代以降の木割法を述べたもので、(中略)
     悪くいへば大工講習会ともいふべき形式内容の講義だつた。

 これを額面通りに受け取るべきか、意識するほどに黙殺あるいは批判に出る忠太の性格の表れと見るかは判断の分かれるところであろう。恐らく忠太の思い描いていた建築史、あるいは平安神宮に見られる日本建築を基盤とした自由な創作と木割によって規定される意匠は異なっていたことは確かであろう。

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豊国廟 2008年5月16日撮影
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豊国廟 蒼龍楼 2008年5月12日撮影

 忠太は明治30年(1897)帝国大学工科大学講師に就任している。明治31年(1898)には、豊臣秀吉没後300年にあたり、豊公三百年祭が行なわれている。この時に秀吉の墓として阿弥陀ヶ峰に豊国廟に巨大な五輪塔が建立されている。この設計を平安神宮の造営に次いで伊東忠太に任されている。この時期の建築作品には、伊勢神宮の博物館として木造仏教寺院風に設計された神宮徴古館(1898年計画 現存する徴古館は片山東熊による)、台湾神宮(1991年竣工)、大宰府文書館(1991年竣工)、伊勢神宮庁(1993年竣工)などがあるが、忠太がどの範囲まで設計を主体的に行なったかは明らかでない。また後年の自由な建築様式とは異なり、日本の歴史様式に沿った設計が忠太に任されていたように思われる。

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祇園閣 入口

「祇園閣 その2」 の地図


大きな地図



祇園閣 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  大雲院 総門 35.002 135.7805
02  大雲院 南門 35.0019 135.7799
03  大雲院 本堂 35.0021 135.78
04  大雲院 鐘楼 35.0019 135.7804
05  大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑 35.0019 135.7803
06   大雲院 龍池会館 35.0023 135.7805
07  大雲院 真葛荘 35.0023 135.78
08  大雲院 祇園閣 35.0021 135.7797
09   大雲院 島津以久墓所 35.0019 135.7795
10  大雲院 織田信長・信忠父子の墓 35.002 135.7794
11  大雲院 石川五右衛門の墓 35.0022 135.7797

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