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祇園閣 その3



祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問

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祇園閣

 明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。
 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかった。機能が形態を規定するという近代建築の精神が芽生える前の時代であったため、欧米の同様の施設を参照しながら自らの手で新しい建築を創り出していった。そのため当時の欧米で流行していた19世紀の折衷主義建築をいかに日本に取り入れていくかに注力していたとも謂える。一方伊東忠太、長野宇平治、武田五一、中條精一郎などの第二世代以降の建築家も同じプロセスにありながらも、日本における近代建築のあり方を科学的に考える余力があったように思える。

 明治28年(1895)平安神宮を木子清敬の指導の下で建設した伊東忠太は、豊臣秀吉没後300年にあたる明治31年(1898)に豊公三百年祭の一環として秀吉の墓を阿弥陀ヶ峰に豊国廟に設計している。考古学的、あるいは建築史的に秀吉の墓として五輪塔が正しいのかは分からないが、戦国時代の末期の墓の様式として、この形態が選ばれたのではないかと推測される。この時期の建築作品には、伊勢神宮の博物館として木造仏教寺院風に設計された神宮徴古館(1898年計画 現存する徴古館は片山東熊による)、台湾神宮(1991年竣工)、大宰府文書館(1991年竣工)、伊勢神宮庁(1993年竣工)などがある。これらは日本の歴史様式に沿った設計が要求されるものであり、忠太に任されたのは新進気鋭の建築史家として評価された結果であったと思われる。

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祇園閣 真葛荘

 明治35年(1902)から建築学研究のため、中国、インド、トルコを廻る3年間留学に出ている。当時留学旅行は珍しいものでなかったが、欧米以外の地で学ぶことは異例であったようだ。そのため留学囲繞する費用に官費を当てることは難しく、何度もの交渉の結果、最終的にはヨーロッパに出ることを条件に全費用の三分の二を支給してもらっている。この留学期間は忠太のその後の設計手法を決定付けただけでなく、大倉喜八郎と共に忠太の重要なクライアントとなる浄土真宗本願寺派(西本願寺派)第22世法主・大谷光瑞に出会ったとされている。先の「伊東忠太を知っていますか」では、伊東忠太は明治36年(1903)4月12日、雲南州に近い楊松駅で大谷探検隊の野村禮譲と茂野純一に遭遇したのであり、下記のように既に光瑞は日本に帰国した後のことであった。よって鈴木博之氏は、忠太は光瑞に出会うことはなかったとしている。その上で忠太が光瑞と出会ったのは、留学から帰国した翌年の明治39年(1906)の夏に西本願寺を訪れた頃としている。
 大谷光瑞もまた、忠太がアジア留学に出た明治35年(1902)8月より教団活動の一環として西域探検のためインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当たっている。翌明治36年(1903)1月に父の大谷光尊が死去し、法主を継職するため帰国するが、第一次大谷探検隊の調査活動は明治37年(1904)まで続けられている。さらに法主継職後も探検を続行させ、大正3年(1914)まで計3回にわたる発掘調査等を実施している。

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祇園閣

 明治38年(1905)約束通りに欧米経由で帰国した忠太は、すぐに東京帝国大学教授に就いている。そして上記の通り西本願寺に大谷光瑞を訪れた翌年の明治40年(1907)1月には、西本願時大連別院の計画を既にまとめている。これは木造の日本建築ではなくレンガを用いたアン女王様式の建物であった。残念ながら檀徒の反対にあい、この意欲的な作品は採用されることなく、大正4年(1915)に木造の伽藍が建設されている。
 明治41年(1908)神戸六甲山麓岡本に二楽荘が建設される。もともと、探検収集品の公開展示・整理のため建てられた施設であるが、その構想は拡がり学生の教育をおこなう私塾・武庫中学、図書館兼宿舎(巣鶴楼)、測候所なども持つ大谷の文化活動の拠点となっていった。二楽荘の建設は光瑞を中心に行なわれたが、忠太もこのプロジェクトに携わったとされている。大正3年(1914)本願寺に関する疑獄事件が突発し、同年3月、二楽荘と武庫中学は閉鎖され、大谷光瑞は西本願寺住職・本願寺派管長を辞任するに至っている。その後、二楽荘は大阪の富豪で旧知の久原房之助に売却されている。昭和7年(1932)10月、不審火によって焼失している。
 明治44年(1911)には北九州の門司に建設される西本願寺鎮西別院の設計を行なっている。方錐形の高塔を中心に、その周囲に小塔が建つブッダ・ガヤーの大精舎を想起させるデザインであった。盛大な起工式は行なわれたものの、檀徒の寄附が集まらず計画は中止に追いやられたというのが真実のようである。本願寺香港布教所(1912年計画)も中世教会堂風の構成にストゥーパ状の双塔や斗栱を組み合わせた、アジア・西洋・日本の意匠の折衷で纏められている。この設計に関しては、忠太がどの程度まで関与したかは明らかではないが、大正4年(1915)に木造和風寺院の起工式が行なわれている。
 大谷光瑞と伊東忠太の関係で、唯一実現したのは、油小路通に建つ真宗信徒生命保険会社(1912年計画 現・伝道院)である。レンガ造りの2階建で全体様式はアン女王様式で纏められているが、ドーム、オーダー、ペディメントの各部は西洋、アジアそして日本的な意匠が取り入れられている。また敷地の境には、忠太の好んで用いた妖怪を載せた石柱を並べている。伝道院は昭和63年(1988)に京都市の指定有形文化財として指定されている。この頃から雨漏りが生じるなど建物の老朽化が進み、ついに平成11年(1999)外壁のテラコッタが落下する恐れから、足場が架けられるようになっている。ここからおよそ10年間、改修工事も着工されることなく、据え置かれていたように見えた。しかし平成17年(2005)年に親鸞聖人750回大遠忌宗門長期振興計画が策定され、伝道院の新たな活用計画が見出されて、かつての姿を取り戻すこととなった。 なお築地本願寺が竣工するのは昭和9年(1934)と大谷光瑞が失脚した後のことである。

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祇園閣 墓地側からの眺め
敷地内の一段高い場所に建てられていることが分かる

「祇園閣 その3」 の地図


大きな地図



祇園閣 その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  大雲院 総門 35.002 135.7805
02  大雲院 南門 35.0019 135.7799
03  大雲院 本堂 35.0021 135.78
04  大雲院 鐘楼 35.0019 135.7804
05  大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑 35.0019 135.7803
06   大雲院 龍池会館 35.0023 135.7805
07  大雲院 真葛荘 35.0023 135.78
08  大雲院 祇園閣 35.0021 135.7797
09   大雲院 島津以久墓所 35.0019 135.7795
10  大雲院 織田信長・信忠父子の墓 35.002 135.7794
11  大雲院 石川五右衛門の墓 35.0022 135.7797

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