文書と写真・地図による「記憶」の再現

大雲院 その2



浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ)その2 2009年11月29日訪問

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大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑

 大雲院で記したように、天正18年(1590)大雲院は豊臣秀吉によって二条新御所から四条河原町の貞安前之町に移されている。そして昭和48年(1973)再び東山真葛ヶ原に移されている。四条寺町界隈の喧騒とした雰囲気の中で布教教化を行なうことが不適切であることは明白である。このような判断から移建されている。 現在、大雲院の旧地である貞安前之町には火除天満宮が残る。この天満宮は天正7年(1579)に六条街に開創されている。天正15年(1587)の大雲院の創建の際、鎮守社として二条新御所に迎えられ、その後の秀吉による寺町の建設に伴い、大雲院と共に四条河原町に遷座している。天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火(団栗焼け)により、京都の市街地の8割以上が灰燼に帰している。さすがにこの時は、鎮守社とは謂えども大雲院と共に焼失している。大火の後の寛政4年(1792)には大雲院は再建されている。しかし、後でも触れるように元治元年(1864)のどんどん焼けでは焼失を免れている。また明治に入っても三度の火災に見舞われているものの、その度ごとに類焼を免れているが、これも火除天満宮の霊験によるところが大きかったのであろう。
 明治の神仏分離令(神仏判然令)により鎮守社の火除天満宮は大雲院から切り離され、上記のように昭和48年(1973)大雲院は東山に移転するが、天満宮は貞安前之町に残る。

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大雲院 佐土原藩戦没招魂塚
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大雲院 豊烈曜後之碑

 大雲院は慶長年間(1596~1615)に日向国佐土原城城主・島津以久の帰依により、寄進を受けている。以久は、天下普請の命により篠山城建築に駆り出され、慶長15年(1610)上洛中に病死しとされている。この時に大雲院の開山 貞安上人に世話になったことから、佐土原藩島津氏は曹洞宗から浄土宗に宗旨替えし、以久の墓も大雲院に建てられている。このあたりの経緯については、作家の桐野作人氏が南日本新聞に掲載している「さつま人国誌」の59号に京都の島津家ゆかりの墓(中)(http://373news.com/_bunka/jikokushi/59.php : リンク先が無くなりました )に詳しく記されているので、ご参照を。 大雲院と佐土原藩のつながりは幕末まで続く。大雲院は佐土原藩の京都における本陣の役割を果たしている。元治元年(1864)7月19日の禁門の変の後に発生したどんどん焼けによって、京都御所の西側から南東方向の広い範囲にかけての町は焼失している。佐土原藩は大雲院を本陣としていたため、この一帯の延焼を防いだと謂われている。恐らく当日の風向きもあり、大雲院から南の一町ほどは類焼を免れている。

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大雲院 墓地へ続く門
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大雲院 墓地へ続く門の脇に建つ碑

 境内の鐘楼の脇には佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑が建つ。これらは戊辰戦争で斃れた佐土原藩士を弔うために建てられた碑で、豊烈曜後之碑が建立された明治元年(1868)12月に、佐土原藩は大雲院で慰霊祭を催している。薩摩藩の支藩である佐土原藩は新政府軍に所属し400余の兵を出したとされている。市川船橋の戦い、上野山の戦い、磐城の戦い、そして会津若松の戦いに参戦している。特に会津若松の戦いは激烈を極め、大山柏著の「補丁 戊辰役戦史」(時事通信社 1988年刊)によると、明治元年(1868)9月15日の城南一ノ堰付近の戦いにおいて戦死者18負傷者13、同17日も戦死者3負傷者5を出している。9月22日に若松城、同27日に庄内藩の鶴岡城の開城により本州での戊辰戦争は終結することとなる。
 大雲院で佐土原藩の戊辰戦争での慰霊が行なわれた明治元年(1868)12月には、既に東征大総督も解任されるなど戊辰戦争の一応の終結をみている。恐らくそのような情勢下で祭祀が行なわれたであろう。明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)によると佐土原藩の戊辰戦争における戦死者は60名となる。先にあげた9月15日から17日にかけて会津若松城外で行なわれた戦闘で35名が亡くなり、その多くの戦死した場所が会津青木村となっている。佐土原藩は戊辰戦争で明治元年(1868)4月3日の下総船橋の戦いで3名の戦死者を出したのを始めとし、総計で60名の戦死者を出している。その内49名が大雲院に葬られていることが、幕末維新全殉難者名鑑より分かる。

 大雲院に残されている佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑は、破損が激しいため新たに大雲院が建立したものらしい。昭和58年(1983)に元の2基の石碑は佐土原の高月院に移されている。高月院は慶長17年(1612)に佐土原藩第2代藩主の島津忠興が、父である初代藩主以久の3回忌に建立した寺院である。以久の法号である高月院殿前典厩照誉崇恕居士より寺号が名付けられているように佐土原藩島津家廟所となっている。 豊烈曜後之碑には殉難した藩士の様子が記されている。「道明の古文書及び金石文」というHPに碑文が掲載(http://hyuga.rakurakuhp.net/i_593748.htm : リンク先が無くなりました )されている。
 東に面した大雲院の総門は旧宮家の門で東京より移築されたものである。今回の特別公開で境内へと入った南門も四条河原町の旧地より移築されている。本堂は昭和48年(1973)に建立された2階建ての建築で東に面する。本堂は2階部分に設けられ、総門から境内に入ると正面の長い階段を上ることとなる。
 本堂から総門を見て右手(南)に鐘楼が建てられている。慶長14年(1607)豊臣秀頼が北野天満宮に寄進した鐘楼が、明治の神仏分離によって明治5年(1872)に大雲院に移されたものらしい。梵鐘は鐘楼より古く、延徳2年(1490)の銘から室町時代の作であることが分かる。こちらも元々は祇園感神院にあったものだが、神仏分離により祇園感神院が八坂神社となり明治3年(1870)に佐土原藩から寄進されている。上記の明治元年(1868)12月に行なわれた戊辰戦争殉難者慰霊の後のことと考えられる。
 総門の北側には、大雲院創建400年となる昭和62年(1987に記念事業として建設された信徒会館・龍池会館があり、本堂との間を渡り廊下で結んでいる。今回の特別拝観の順路に従うと、信徒会館の2階が寺宝の展示空間となっているようだ。
 本堂の北側には大倉喜八郎の別邸・真葛荘で国登録有形文化財に指定されている。一部二階建ての和風建築の東南隅に八角形状の応接室が組み込まれ、祇園閣から眺めると印象的な建物となっている。これは大倉集古館、祇園閣とともに伊東忠太の設計で昭和2年(1927)竣工した建物である。鈴木博之著の「伊東忠太を知っていますか」(王国社 2003年刊)によると奥にある喜八郎の寝室は頑丈な土蔵造で築かれ、万一、襲われた時のために、裏手に逃げる通路まで用意されていたとしている。ただし昭和3年(1928)92歳で没したため、この寝室で眠ることもなかったようだ。

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大雲院 織田信長、信忠父子の墓
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大雲院 織田信長、信忠父子の墓

 本堂の裏側に建つ祇園閣については別の項を改めて起こす。今回の拝観範囲には、祇園閣の西側の墓地も入っている。祇園閣の南にある墓地の入口となる門の脇には、織田信長公 信忠公墓所参道と石川五右衛門墓所参道の2本の碑が建つ。この門を潜ると正面に丸に十の字の紋のある墓所がある。後から調べると、これが佐土原藩初代藩主の島津以久の墓所であった。その裏側に大きな石標が見える。墓は1基で右に総見院、左に大雲院とあるので、信長と信忠の墓であることが分かる。2人の戒名と共に記された天正十壬午年、六月二日は本能寺の変の日付である。
 石川五右衛門の墓は墓地のどの場所にあったか思い出せないが、高い生垣と塀を背にして建てられていた。尖がった笠を持つ石燈籠を両側に配した立派な墓であった。戒名は融仙院良岳寿感禅定門、処刑された盗賊としては破格の戒名とも謂える。

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大雲院 石川五右衛門の墓
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大雲院 石川五右衛門の墓

 この他にも豊臣政権で京都所司代を務め、五奉行の1人となった前田玄以、江戸時代の儒学者・伊藤坦庵、江戸時代後期の画家・望月玉川、近代の画家で儒学者・富岡鉄斎などの墓がある。
 寺町姉小路上ルにある鳩居堂の7代目当主の熊谷直孝の墓も大雲院にある。文化14年(1817)に生まれた直孝は、父の直恭とともに頼山陽らと親交があり、勤王派町人として知られている。家業が香商ということで宮中への出入りもあり、勤王派公家とも交友があり倒幕運動に資金的援助を行なってきた。慶応3年(1867)12月8日、侍従の鷲尾隆聚と数十名の浪士が朝廷からの内勅を受け、武装した上で紀州の高野山を目指して京都を出発している。後に高野山義挙とも呼ばれる行動にも密かに軍資金を渡し、岩倉具視の指示で大坂徳川方の状況を探るなどの役割を果たしている。また維新期には新政府の資金調達に1500両を供出したとされる。
 直恭の設けた種痘所・有信堂を引き継ぐなど社会奉仕についても力を注ぎ、子女の教育のために設置した教育塾は、明治2年(1869)に開校した柳池小学校の母体となっている。明治10年(1877)太政大臣三條実美より、同家に900年来伝承されてきた「宮中御用の合せ香」の秘方をすべて伝授されている。これは直恭から直孝が行なってきた国事事業と社会奉仕が認められた結果とされている

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大雲院 墓地からの祇園閣 境内から建物全体が眺められる場所は少ない

「大雲院 その2」 の地図


大きな地図



大雲院 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  大雲院 総門 35.002 135.7805
02  大雲院 南門 35.0019 135.7799
03  大雲院 本堂 35.0021 135.78
04  大雲院 鐘楼 35.0019 135.7804
05  大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑 35.0019 135.7803
06   大雲院 龍池会館 35.0023 135.7805
07  大雲院 真葛荘 35.0023 135.78
08  大雲院 祇園閣 35.0021 135.7797
09   大雲院 島津以久墓所 35.0019 135.7795
10  大雲院 織田信長・信忠父子の墓 35.002 135.7794
11  大雲院 石川五右衛門の墓 35.0022 135.7797

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