豊国廟
豊国廟(ほうこくびょう) 2008年05月16日訪問
新日吉神宮から豊国廟参道に戻り、さらに上っていく。京都女子大学の校舎が参道の両側に建ち、真っ赤な車体にプリンセスラインと書かれたバスが並ぶ停留所を過ぎると、両側が駐車場として使用されているものの、樹木の密度も高くなり豊国廟の参道らしくなってくる。さらに進むと大きな石灯籠の先に石段、そしてその先に石の鳥居が現れる。鳥居を潜ると正面に細長い拝殿が待ち構える。左側に建物が建ち、右手は開けているが、その奥はプリンセスラインの駐車場として使用されているようだ。このあたり一帯が30万坪はあったといわれる豊国廟の太閤担だったのだろうか。この場所で30万坪とは北は東海道、西は妙法院、智積院、そして南は東海道本線を越え泉涌寺の北側にある鳥戸野陵あたりの醍醐道まで含まれても足りないような気がする。 六道の辻でも触れたように、阿弥陀ヶ峰山麓一帯は平安期から墓地、葬送の地とされた鳥辺野であった。豊国廟もこの京の歴史に従って造られたと考えても良いだろう。ただしその規模が巨大であったことが異例であった。
慶長3年(1598)8月18日、秀吉は伏見城で逝去する。2010年現在、Wikipediaの豊臣秀吉の項では、通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬されたとしている。出展が明示されていないので良く分からないが、なかなか刺激的な記述である。 河内将芳氏は「秀吉の大仏造立」(法藏館 2008年)の中で、三宝院義演の日記・義演准后日記を引用し、秀吉の死去すぐに遺体が埋葬されたことを否定している。義演は真言宗の僧で、天正4年(1576)醍醐寺第80代座主に就任し、醍醐の花見や醍醐寺三宝院復興など秀吉と密接な関係を持つ人物である。
秀吉の死後、家督は秀頼が継いでいる。その死はしばらくの間秘密とされたのは、2度目の朝鮮出兵・慶長の役の最中であったためである。朝鮮では第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いでは次々と明・朝鮮軍を撃破していたが、秀吉の死去により朝鮮の服属と明の征服は意義を失い、10月15日五大老により朝鮮からの撤兵が決する。いずれにしてもこの緘口令によって、秀吉死後の経緯が文書として残らず、諸説入り混じる状況になっている。
秀吉の死の翌年、慶長4年(1599)3月に廟所仮殿建設が始まり、4月には完成している。4月13日秀吉の遺体は仮殿に遷され、16日に仮殿遷宮が行われる。そして翌17日に後陽成天皇より豊国大明神の神号が贈られる。そして4月18日に正遷宮が行われる。このため例祭は4月18日と命日の8月18日に行われることとなる。社殿は北野天満宮を参考にして建てられたと言われている。
慶長9年(1604)8月に秀吉の七回忌を祀る臨時大祭が執り行われる。太田牛一筆による豊国大明神臨時御祭礼記録や豊国神社に残る豊国祭礼図屏風は、この祭礼がかつてない規模の賑やかなものであったことを伝える。諸大名が競って馬揃えを行い、京の町衆達も多数詰めかけるなど、死してなお秀吉人気の高さを示すイベントとなった。
既に豊国神社の項で説明したように、慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、家康により豊国大明神の神号の停止、豊国神社の破却が決定する。北政所の嘆願と神龍院梵舜の尽力により、かろうじて守られてきたが、家康の死後、元和5年(1619)神宮寺を妙法院に引渡し、梵舜は退去せざるを得ない状況に追い込まれる。そして秀忠による社殿や霊屋の破却が完了する頃、北政所もまたこの世を去り、豊臣の代は完全に終焉を迎える。寛永元年(1624)9月のことである。
再び豊国神社が世に現れるのは、江戸幕府が瓦解し、王政復古となってからである。明治元年(1868)3月23日より明治天皇は44日間の大阪行幸を行っている。江戸開城が3月14日に決まるものの植野の山には彰義隊が残るなど、まだ関東での戦いの行方はまだ決していない時期である。明治天皇は、大阪の地で天下を統一しながら幕府は作らなかった豊臣秀吉を尊皇の功臣であるとして豊国神社の再興を布告している。当時の社会情勢を考えれば、徳川幕府に対する政治的な発言であることは明らかである。明治6年(1873)別格官幣社に列格し、明治13年(1880)方広寺大仏殿跡地の現在地に社殿が完成し、遷座が行われた。
耳塚の項でも触れたように明治31年(1898)は豊臣秀吉の三百年忌にあたり、豊公三百年祭が行われる。阿弥陀ヶ峰も伊東忠太の設計によって整備される。伊東忠太は、既に明治28年(1985)に平安神宮の設計にも携わっていた。当時の豊国廟の姿は、国立国会図書館に収蔵されている明治36年(1903)刊行の近畿名所という写真帳の中に残されている。おそらく竣工直後の写真だと思われるが、現在のように樹木が茂っていない分、全体の構成がよく伝わる。手前の石段から鳥居までの緩やかな上り勾配の参道は、現在駐車場として使用されている部分であろう。2つめの石段を上った先には鳥居と拝殿が見える。その先には3つ目の幅の広い石段が山頂を目指して始まる。この石段は最初と2番目の階段と同じ幅で造られているようだ。そして踊り場の先に4つ目の石段が頂上まで続き、巨大な五輪塔が現れる。4つ目の石段は幅を狭くしている。この参道から見た際に、遠近法を使用して奥行きと峰の高さを強調している。
智積院の項で取り上げた宮元健次氏は、著書「京都名庭を歩く」(光文社新書 2004年)で、この工事の際に出土した甕について記している。これは明治39年(1906)に刊行された史学雑誌に掲載された豊太閤改葬始末を基にしている。宮元氏は、徳川実記や義演准后日記より秀吉の墓は既に掘り起こされているとし、粗末な甕に西向きに屈葬となっていることから、家康によって秀吉の墓は改葬された可能性を推測している。その根拠として高貴な人物の埋葬に使用される寝棺が用いられていない点、神への再生を望み日出でる方向である東向きに埋葬されていない点を指摘している。
この500段近い石段の前で、日没を向かえたため、阿弥陀ヶ峰の登頂は断念した。
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