アーカイブ:2012年 11月
石塀小路の町並み
石塀小路の町並み(いしべいこうじのまちなみ) 2009年11月29日訪問 石塀小路の町並み 圓徳院の裏 圓徳院を出た頃は、空にまだ少し明るさが残っていたが、高台寺の台所坂を下ると、既に町は暗闇の中にあり、店々の軒に下がる看板だけが目立つようになっていた。 八坂神社の南楼門から南に延びる下河原町通の東側、維新の道とよばれる京都霊山護国神社参道の北側で高台寺と霊山観音を含む地域は下河原町とされている。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)によると、この下河原町通は祇園社(現八坂神社)の表参道であったことより祇園大路という名称があり、中世には百度大路ある… ►続きを読む
高台寺 その10
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その10 2009年11月29日訪問 高台寺 この項では幕末において高台寺で起きたことをまとめてみることとする。 嘉永6年(1853)6月3日、フィルモア大統領の親書を携えた東インド艦隊司令長官マシュー・C・ペリーは、旗艦サスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガを率いて浦賀に来航する。この内、外輪式フリゲート艦はサスケハナとミシシッピであり、プリマスとサラトガは帆船であった。そのため「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌は有名であるものの、蒸気船は2隻のみであった。老中首座阿部正弘は国書の受取りを回避することは不可… ►続きを読む
高台寺 その9
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その9 2009年11月29日訪問 高台寺 勅使門 高台寺 その8では、明治18年(1885)11月の火災によりした仏殿の東北に忠義堂が築かれ、近年の高台寺境内の整備事業に伴い、撤去される運命であったものを大原野の正法寺に移したところまで説明してきた。ここからは高台寺の主要伽藍について書いて行く。 忠魂堂の東北にはかつて桧皮葺唐破風の屋根を持った唐門があった。高台寺創建時の建築で、豊臣氏の船屋形を上屋とし、門扉には菊桐章が施されていた。唐門の北には方丈が南面していた。かつての方丈は文禄の役で凱旋した諸将を祝宴した殿舎を伏見から移したものとされ… ►続きを読む
高台寺 その8
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その8 2009年11月29日訪問 高台寺 高台寺 その3において、慶長3年(1598)の豊臣秀吉没後に北政所が伏見城を出て京都新城に移ったこと、さらには木下家の人々が関ヶ原の戦いに、どのように対峙したかについて書いてきた。また高台寺 その4では、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降の北政所が居住したと考えられる三本木屋敷について書いた。現在では慶長10年(1605)の高台寺建立以降も高台院は、三本木屋敷で暮らしていたとする説の方が有力であると思われる。そして高台寺 その5と高台寺 その6では、高台寺が創建される前に東山に存在していた雲居寺の… ►続きを読む
高台寺 その7
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その7 2009年11月29日訪問 高台寺 時雨亭 高台寺 その5と高台寺 その6では、高台寺創設以前に衰退した雲居寺と金山院、引攝寺について書いてきた。この項では、岩栖院と高台寺建立時のことについて書いてみたい。 「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)には、岩栖院ノ址という項目で比較的詳細に綴られているので、これに従って書いて行く。かつての岩栖院は下河原町高台寺の地にあった。 後に室町幕府管領を務めることとなる細川満元は、天授4年(1378)細川頼元の長男として生まれている。そして応永4年(1397)頼元の死去により家督… ►続きを読む
高台寺 その6
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その6 2009年11月29日訪問 高台寺 霊屋 浄蔵貴所や瞻西が住した以外にも、謡曲で有名な自然居士も雲居寺を住居としていた。この禅宗系の勧進聖は生没年不詳とされている。しかし永仁4年(1296)に制作されたと考えられている「天狗草紙」に蓑虫、電光、朝露と共に放下の禅師4人組の歌舞説教が描かれていることから、鎌倉後期の聖とされている。円爾弁円派であったことから東福寺 即宗院に自然居士の墓が残されている。もっとも説教者の祖として日本各地を巡ったため、居士の墓とされるものは全国に点在している。脇田修・脇田晴子著の「物語 京都の歴史 花の都の二千… ►続きを読む
高台寺 その5
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その5 2009年11月29日訪問 高台寺 高台寺の庫裏を過ぎ、境内に入ると美しくライトアップされた湖月庵、鬼瓦席そして遺芳庵の3つの茶席が現れる。この先には右手に書院、左手に薄暗い中に偃月池が見える。さらに進むと左手の眺望が開け、高台寺庭園の全貌が見えてくる。所々に紅葉を引き立たせる赤い照明が配され、それらの木々色を偃月池に写し、秋の高台寺を印象付ける景色となっている。 後藤典生氏の著書「日本の古寺5 圓徳院住職がつづる とっておき高台寺物語」(四季社 2008年刊)によると、この高台寺のライトアップは氏が住職を務めていた平成10年(199… ►続きを読む
高台寺 その4
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その4 2009年11月29日訪問 高台寺 高台寺 2008年5月18日撮影 高台寺 その3では、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死から1年して、北政所は大阪城を出て、京都新城に移り住み、ここで関ケ原の戦いを迎えることになったことを書いてきた。さらにこの項では、関ケ原の戦いの戦後処理から、高台寺建立を経て寛永元年(1624)9月6日に没した北政所が、具体的にどこで暮らしたかを中心に書いて行きたい。 慶長4年(1599)9月26日に大阪城を出た北政所は、関ヶ原の戦いまでは京都新城で暮らしたことは良く知られているが、その後については必ずしも… ►続きを読む
高台寺 その3
臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その3 2009年11月29日訪問 高台寺 遺芳庵 圓徳院庭園を観賞しているうちに、ライトアップの時間になっていたようだ。本日最後の訪問地として高台寺に向かう。圓徳院の境内からねねの道に出ると、高台寺の夜間拝観を目的として集まった人々で膨れ上がっていた。幸いに圓徳院を拝観する際に共通券を購入しておいたので、入場券を購入するために列に並ぶ必要はなかったが、それでも多くの人の後ろに並ぶ事となった。 高台寺 台所坂 圓徳院の項でも参照したように重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)には、「豊臣… ►続きを読む
高台寺 圓徳院 その2
高台寺 圓徳院(えんとくいん)その2 2009年11月29日訪問 圓徳院 北書院北庭 高台寺 圓徳院では、圓徳院が建立されるまでの歴史を高台院とそれを取り巻く木下家の人々を中心に記してきた。この項では圓徳院庭園を中心に書いていきたい。 碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)では、「庭園は今に存す。所謂石庭式なり。空池に石橋を架し奇石を安徘す。傅て小堀政一の作と云ふ。手水鉢あり檜垣と名く世に著名なり。」と記されているのに対して、重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)では、その可能性… ►続きを読む