文書と写真・地図による「記憶」の再現

高台寺 その4



臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その4 2009年11月29日訪問

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高台寺
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高台寺 2008年5月18日撮影

 高台寺 その3では、慶長3年(1598)の豊臣秀吉の死から1年して、北政所は大阪城を出て、京都新城に移り住み、ここで関ケ原の戦いを迎えることになったことを書いてきた。さらにこの項では、関ケ原の戦いの戦後処理から、高台寺建立を経て寛永元年(1624)9月6日に没した北政所が、具体的にどこで暮らしたかを中心に書いて行きたい。
 慶長4年(1599)9月26日に大阪城を出た北政所は、関ヶ原の戦いまでは京都新城で暮らしたことは良く知られているが、その後については必ずしも明らかになっていないようだ。
 Wikipediaで関ケ原の戦い後に京都新城は破却され、北政所は三本木(祇園)の屋敷に記述を見かける。これは大阪城から京都新城に移り、関ケ原の戦いで京都新城が破却されたため、三本木に移り住み、そして高台寺建立後は東山で余生を暮したというようにも読める。先ず明らかにしなければならないことは、京都新城と三本木屋敷がどこに存在していたかということではないだろうか。 「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、現在の三本木は東三本木通が南北に通る上之町・中之町・南町一帯を指す地名となっているが、元々の三本木は東洞院通にあり、この地は現在の京都御苑内の南東に位置するとある。宝永5年(1708)の大火の後に御所が拡張されることとなり、三本木の人家を鴨川の西岸の地に移して開町したのが、上記の三本木である。しかし東洞院通は京都御苑の西寄りにあり、三本木町あるいは三本木五丁目は東洞院通に面して丸太通の南側に現存している。このことから、かつての三本木は京都御苑の南東ではなく南西にあり、先の「京都市の地名」の記述にも疑問が生じる。
 さて、移転した三本木には頼山陽の山紫水明処もあるように、鴨川に面した東山の眺望が美しい場所であった。そのため江戸時代後期には遊所のひとつに数えられ、現在もマンションや保養所などが建ち並ぶ。天保13年(1842)島原以外の遊里は禁じられていたが、祇園、二条、北野、七条などでは事実上私娼が認められていた。しかし三本木の名が記されていないことより、吉田屋を始めとした三本木が不夜城となるのは、これより時代が下った嘉永年間(1848~54)頃と考えられている。このように三本木は祇園と同じ花街にはなったものの、祇園の中にはなかった。さらに宝暦の大火以前の三本木は祇園とは全く異なった御所の南にあったことが分かる。

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高台寺

 それでは京都新城と三本木屋敷は別の建物であったのか?すなわち関ヶ原の戦いの後に京都新城は破却され、北政所は高台寺が建立される間、別の屋敷で暮らさなければならない状況にあったのかという疑問が次に生じる。
「カラーブックス606 写真太閤記」(保育社 1983年刊)に掲載されている「お祢の生涯」の中で、内田九州男氏は北政所の京屋敷の位置を具体的に地図の上で推測している。元和(1615~24)から寛永(1624~45)にかけて描かれたとされている「京都地図小屏風」の中に御土居に接し、荒神口北側に「百万へん 知恩寺」、その西に百万遍前町を挟んで「木下宮中」とある。この木下宮中の西は道一つを隔てて、その北には禁中が描かれている。木下の南には「政所様」とある。この政所様の西には頂妙寺が続き、さらに西へ二筋目が三本木町となっている。すなわち木下宮中と政所様と記された屋敷は、禁中の東南に位置していたことが分かる。ちなみに木下宮中とは、宮内少輔と称した木下利房のことと思われる。利房は大阪城の戦いの後にその功績が認められ、備中足守25000石の大名に返り咲いている。
 北政所が大阪城西の丸を出た慶長4年(1599)9月26日の「言經卿記」には

     大阪ヨリ政所、禁中辰巳角、故太閤殿中へ今日御上洛也

と記されている。内田氏の推定した北政所邸の位置とほぼ一致している。京都新城から北政所邸に変遷する過程で、北側の木下宮中邸が形成された経緯は不明であるが、木下家定とその子の勝俊・利房らが、北政所の領地の代官を務めていたことより、家定に分け与えたことは想像に難くない。

 内藤昌氏は「豊臣家京都新城-武家地の建築 近世都市屏風の建築的研究-洛中洛外図・その6-」(昭和47年(1972)日本建築学会大会学術講演梗概集)の論文中で、木下宮中と北政所邸があった地の北側の町家に着目している。奥行15間町家が三段連なる町並みは、明らかに周囲の町割りとは異なっている。現在は京都迎賓館が建設されているが、幕末までは三条実美ら公家屋敷となっていた場所である。内藤氏は慶長5年(1600)8月に行われた京都新城の一部破却した石垣や塀と外辺広場であった可能性をここに見ている。さらに小堀遠州が後水尾上皇のために作庭した仙洞御所の直線を多用した異形の庭も、もとの京都新城の影響の表れかもしれないと考えている。それにしても実際の地名ではなく、かなり西に離れた三本木の名が残ったのは何故であろうか?
 大徳寺 孤篷庵その3でも記したように、この庭は外辺を囲む築地塀の内側にさらに築地塀を設けることにより、2枚の築地塀の間には70~80メートル×3~4メートルという細長い回廊のような空間が作られた。遠州はここに小川を流し、互い違いに8本の異なった橋を架けている。これにより茶席に渡る客は、小川の最上流に架けられた丸太違橋から順番に、すのこ橋、古舟板橋、杉大桁橋、くすのき橋、すじかいそり橋、そして杉桁橋を左右に渡りながら茶席へと近づいていく構成になっている。 京都新城の遺構が小堀遠州の仙洞御所庭園に影響を与えたという内藤氏の推測はかなり飛躍しているようにも感じられるが、もしそのような影響を与えたとしたらこの奇想の庭の創作過程が見えてくるのかもしれない。

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高台寺 太閤像
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高台寺 高台院像
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高台寺 霊屋 2008年5月18日撮影

 また、内藤氏は同論文中で、関ケ原の戦いの前後に京都新城の石垣、塀、門などが撤去されたことを指摘している。「大日本史料」慶長5年(1600)8月29日の綱文に「禁垣東南豊臣氏第アリ是日其南西二門及ヒ塀垣ヲ毀ツ」とあり、9月13日にも南門が壊されている記述が「言経卿記」に残されている。
 これは軍事拠点として京都新城が使用される可能性を取り除くと共に、そのような疑いを掛けられることを防ぐためであったとも考えられる。恐らくそれでも危険を回避できないと察した北政所は9月17日に京都新城を出て、後陽成天皇の母である勧修寺晴子の屋敷に居を移している。時の天皇の生母の屋敷までは手が出せないと考えての行動である。そして再び京都新城に戻ったのは22日の暁の頃であった(「言経卿記」9月19日の条)。
 豊臣家の京都新城は武装解除を行なうことにより、関ケ原の戦い後も北政所邸は維持されていたと内藤氏は考えている。そして慶長10年代(1605~14)に行なわれた公家町の改変及び整備においても、北政所邸が存続していることを確認している。またこの時期に徳川家康を自らの館に招き饗応を行っているという記録も残されている。
北政所邸が後水尾上皇の仙洞御所に改められるのは、北政所が死去した寛永元年(1624)より後の寛永4年(1627)の事であった。

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高台寺

 このように徳川家康によって、完全な京都新城の破却が行われたのではなく、北政所の生活した場は関ヶ原の戦い以降の三本木屋敷まで規模に変化はあったものの位置的には大きな違いはなかったことが分かる。それでは慶長10年(1605)以降、北政所は高台寺の地に移り住んだのだろうか?これが最後の疑問として残る。
国史大辞典(吉川弘文館 1980年第一版第一刷発行)の高台院の項には下記のように記されている。

     その年(慶長3年(1598))の8月18日秀吉が没すと、
     大阪城西ノ丸にあった北政所は落飾して高台院と称し、
     翌4年徳川家康に西ノ丸を明け渡して京都三本木の
     邸に隠棲した。
     ついで同10年秀吉の冥福祈るため徳川家康に
     はかって京都東山に高台寺を建立し、ここを
     終焉の地として禅床三昧の日々を送り、
     寛永元年(1624)9月6日76歳
     (『寛政重修諸家譜』309では83歳とある)
     で没した。
     遺骸は寺内の豊公廟の下に葬られた。
     法名は高台院湖月心公。

 この記述により、高台院はその後半生を高台寺で過ごしたと強く印象付けることとなったようだ。

 秀吉の没後、北政所は京都新城で関ケ原の戦いまで過ごしたという点では、諸説それほど大きな相違はない。そして関ケ原の戦いで京都新城が完全に破却されたと考える者は、京都新城以外に新たな屋敷を建てなければ説明ができなくなり、三本木屋敷が浮かび上がってくる。つまり破却説を取るならば京都新城と異なった地に、新たな屋敷の存在が必要となる。そして高台寺が建立される慶長10年(1605)に北政所は三本木屋敷を捨てて、高台寺の地に移り住んだという説になって行く。こうして京都新城→三本木屋敷→高台寺のように高台院が居を移したとする説が、一般に広まっていったと考えられる。
 これに対して京都新城の一部は武装蜂起のために破却されたが完全な解体は行われたと考えると、北政所は関ケ原の戦いの後も現在の仙洞御所にあった屋敷で暮らすことも可能となる。京都新城→京都新城≒三本木屋敷→三本木屋敷という図式になる。高台院 その3で触れたように、関ケ原の戦いの後に山内一豊の未亡人・見性院が京都御苑の南に位置する桑原町に居を移している。この当時の見性院は、二代藩主に甥の山内忠義、その後見人を義弟の康豊に任せ、土佐での政治から身を引くことが可能となった。権力の二重構造が解消されず、今後の政権の行方は未だ不明確であった。見性院は新たな政権の元に土佐藩を導くため、上京したとも考えられる。その点から考えれば大阪にも江戸にも独自の情報ルートを持つ北政所の近くに居を定めたのは当然のことであった。見性院が京都に出てきたのは、山内一豊が亡くなった慶長19年(1605)9月20日から半年の後のことであると考えられている。もし既に高台院が三本木屋敷を出て高台寺に移り住んでいたならば、わざわざ旧居の近くに新たな屋敷を設けることもなかっただろう。このように見性院が京新城に近接するように移り住んだことも三本木屋敷が存続していたと考えられる一因となっている。

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高台寺

 跡部信氏の「高台院と豊臣家」(大阪城天守閣紀要第34号 2005年)によると、高台院が高台寺へ移徒したことについては、「時慶卿記」の記述が根拠となっているようだ。「大日本史料」慶長10年(1605)6月28日の綱文に「高台院浅野氏、嘗テ造立スル所ノ、京都寺町康徳寺ヲ東山ニ移シ、規模ヲ恢宏ニシ、改メテ高台寺ト号ス、工就ルヲ以テ、是日移リテ之ニ居ル、」とある。そして続く「時慶卿記」には、

     慶長十年六月廿七日、天晴、孝蔵主ヘ、
     今ヲ内儀ヨリ被遣、明日康徳寺移徒ノ由候、
     北政所殿御共ニ、内儀可参由候、

     廿八日、天晴、霙、但地不湿未刻也、早辰、
     内儀ハ東山康徳寺ヘ移徒、北政所殿御越、御供ニ被出、
     大般若在之、粥斎在之ト、長老ヘ百疋折紙被遣候由候、
     孝蔵主肝煎也、日没二帰京候、瓜六十進上候、

 前半の文書は、明日北政所がお越しになるので、西洞院時慶の内儀は「康徳寺移徒」に御供とすると時慶に知らせている。後半は翌日の6月28日、内儀は「康徳寺へ、移徒に北政所がお越しになった御供に出られた」と跡部氏は解釈し、移徒の主語を康徳寺に入寺される「長老」すなわち弓箴善彊としている。前半部分の移徒の主語を康徳寺としている点も気になるが、後半部分の解釈についてはやや強引なようにも感じられる。
 この他にも、翌年の慶長11年(1606)高台院の屋敷(香台院政所殿屋)の修理を、大阪城の片桐貞隆が奉行となって行った記述(「慶長日件録」11月24日の条)を引用している。そして豊臣家によって造立された屋敷、すなわち京都新城の修繕を豊臣家によって行わせたと推測している。

 以上が現在のところ、高台院が高台寺に移り住んだのではなく、かつて京都新城のあった地で人生の終焉を迎えたのではないかと推測する根拠である。裏付けるにしても否定するにしても新たな資料の発見が望まれる。

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高台寺

「高台寺 その4」 の地図


大きな地図



高台寺 その4 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  高台寺 台所坂 35.0005 135.7802
02  高台寺 庫裏 35.0008 135.7808
03  高台寺 遺芳庵 35.0011 135.7813
04  高台寺 偃月池 35.001 135.7815
05  高台寺 臥龍池 35.0008 135.7818
06   高台寺 書院 35.0009 135.7812
07   高台寺 方丈 35.0007 135.7812
08  高台寺 方丈南庭 35.0005 135.7812
09  高台寺 勅使門 35.0004 135.7812
10  高台寺 観月台 35.0009 135.7814
11  高台寺 開山堂 35.0009 135.7816
12  高台寺 臥龍廊 35.0009 135.7819
13  高台寺 霊屋 35.0009 135.7821
14  高台寺 傘亭 35.0006 135.7826
15  高台寺 時雨亭 35.0005 135.7826

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