徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2013年

松尾大社 その2

 

松尾大社(まつおたいしゃ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 楼門  松尾大社では、祭神の大山咋神を中心に、この地や秦氏との関係について書いてきた。これが伝説上の松尾社の起源となっているが、伊呂波字類抄には下記のように記されている。     本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、     立阿礼居斎子供奉  飛鳥時代の最末期となる大宝元年(701)に秦都理が社殿を営み、山頂附近の磐座から神霊を移している。すなわち現在の松尾大社の創建より以前から松尾山の頂上近くの、秦氏本系帳では日崎の峰とよばれる場所に磐座があり、ここが松尾社の旧鎮座地であった。この遷宮は持統天皇8年(694)の藤… ►続きを読む

 

松尾大社

 

松尾大社(まつおたいしゃ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 二之鳥居  阪急電鉄嵐山線を松尾駅で下車する。松尾の町並みで記したように、南北に走る京都府道29号宇多野嵐山山田線に東側から四条通が突き当たる。四条通は八坂神社を始点としこの松尾大社を終点とする。いずれにも共通するのは楼門と鳥居に用いられた朱色と背景地としての山であろうか。 松尾大社 一之鳥居脇の石碑  一之鳥居の脇には松尾大社と記された社号標とともに大きな一組の瓶子が置かれている。さすがにお酒の神様の社前であることを想わせるのに十分な大きさである。鳥居を潜ると左手に交番と2つの大きな石碑が見える。その傍らに忘れ去られ… ►続きを読む

 

松尾の町並み

 

松尾の町並み(まつおのまちなみ) 2009年12月9日訪問 松尾の町並み 松尾大社の一之鳥居  八条ヶ池の南半分に面する錦水亭の外観を眺めた後、長岡天満宮の中堤の入口に建つ大鳥居を潜り、天神通を東に進む。阪急京都本線の長岡天神駅までは200メートル程度である。ここより京都本線に乗車し、嵐山線の松尾駅を目指す。京都本線から直接嵐山に向う直通列車は行楽時期だけの臨時列車だけで、通常は桂・嵐山間の折り返し運行となっているため、桂駅で嵐山線に乗り換えると、上桂の次が松尾駅となる。 松尾大社のある場所は桂川の右岸でも、西側から松尾山・嵐山が迫り出しているため、平地の部分が最も少なくなっている。松尾… ►続きを読む

 

錦水亭

 

錦水亭(きんすいてい) 2009年12月9日訪問 錦水亭  八条ヶ池の南半分に面して錦水亭の建物が建てられている。もともと、筍料理で有名内老舗であることは承知していたので、その風情を楽しむだけで食事を頂く予定は立ててなかった。それでも帰宅後に錦水亭の公式HPを確認するとランチタイムに訪れない限り、夜の会席料理にはとても手を出せないことが分かった。 錦水亭 錦水亭  長岡京市の公式HPには「竹とたけのこ」というページが掲載されている。いまや筍は長岡京市の名産品のひとつとなっているため、市のHPに掲載されていてもおかしくはない。現在、日本で食用にされる筍の代表的なものは、中国から… ►続きを読む

 

長岡天満宮 その2

 

長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)その2 2009年12月9日訪問 長岡天満宮 拝殿  菅原道真の配流に同行した中小路宗則は、道真の没後に再び開田に戻り聖廟を建てている。これが現在の長岡天満宮につながっていったと考えられている。宗則の末裔は、長岡天満宮の神官を務める一方、土豪として勢力を拡大し応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場するに至る。中小路氏が城主を務めた開田城については、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)4月27日条に以下のような記述がある。  この山名是豊による攻撃が開田城の初見とされている。このことより、これ以前より開田城は存在しており、興福寺大乗院の門… ►続きを読む

 

長岡天満宮

 

長岡天満宮(ながおかてんまんぐう) 2009年12月9日訪問 長岡天満宮 正面鳥居  八条ヶ池中央の中堤を渡り、長岡天満宮の境内へと入っていく。この中堤の両側には樹齢100年を超えるキリシマツツジが植えられているが、生憎訪問したのが冬であったため丈の高い生垣としか見えなかった。樹齢百数十年ということは明治以前に植えたものかもしれない。 長岡天満宮 キリシマツツジと正面鳥居 長岡天満宮 中堤の石橋  長岡天満宮の公式HPによると、御祭神は菅原道真公で御例祭は10月9日となっている。もともと菅原道真を祭神とする神社を天満宮あるいは天神社と呼び、大宰府天満宮、北野天満宮そして防府天… ►続きを読む

 

八条ヶ池 その2

 

八条ヶ池(はちじょうがいけ)その2 2009年12月9日訪問 八条ヶ池 水上橋  寛永15年(1638)長岡天満宮の境内東に池を開削した八条宮智仁親王は、正親町天皇第5皇子である誠仁親王の第6皇子として天正7年(1579)に生まれている。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)で、同母兄に後陽成天皇や定輔親王・勝輔親王・邦慶親王らがいる。父の誠仁親王については、大雲院の項で記したように、天正10年(1582)6月2日、すなわち本能寺の変が起きた日、二条新御所には皇太子であった誠仁親王が在宅していた。 もともと二条晴良・昭実父子の邸宅であったが、織田信長が上洛時の宿舎とするため、京都所司… ►続きを読む

 

八条ヶ池

 

八条ヶ池(はちじょうがいけ) 2009年12月9日訪問 八条ヶ池  乙訓寺より再び文化センター通りを南に歩き、八条ヶ池に至る。長岡天満宮の歴史については次の訪問地であるため、そこで記すこととする。しかし創設時期を特定できる明らかな記録は、どうも残っていないようだ。それに対してこの八条ヶ池の開削については以下のようなことが残されている。 八条ヶ池 中堤の北側 八条ヶ池 中堤の南側は錦水亭  明治3年(1870)にまとめられた長岡天満宮の由緒書上によると、元和9年(1623)境内一帯は八条宮智仁親王の家領となっている。この家領は後に京極宮に継がれていく。長岡京市観光協会のブログ … ►続きを読む

 

乙訓寺 その2

 

真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら)その2 2009年12月9日訪問 乙訓寺 本堂  乙訓寺では、既に古い時代より多くの人々が乙訓寺の周囲に住んでいたことについて記してきた。縄文時代から古墳時代にかけての今里遺跡、5世紀前半の今里車塚古墳や6世紀後半から7世紀初頭にかけて造営された今里大塚古墳などからも人々の営みが良くうかがえる。また現在の乙訓寺本堂の北側から長岡第三小学校にかけての乙訓寺遺跡から、長岡京造営以前よりこの地に寺院が存在していたことも分かっている。昭和41年(1966)から始められた発掘調査により、講堂と推定される大規模(桁行九間27メートル、梁行四間12メートル)… ►続きを読む

 

乙訓寺

 

真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら) 2009年12月9日訪問 乙訓寺 山門  光明寺より光明寺道を東に進み、光明寺道の交差点で右折し文化センター通りに入る。そのまま300メートルほど南に下り、今里大通りを左折し東に進む。200メートルくらい歩くと、歩道上に小さな道標が建てられている。これに従い左手の細い道に入って行くと正面に乙訓寺の赤い山門が現れる。 乙訓寺 本堂 乙訓寺 本堂裏  延暦3年(784)の長岡京造営以前より、すでに乙訓の地には、多くの人々が住んでいた。乙訓寺のある台地およびその東側の台地下の傾斜面には、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡を見ることが出… ►続きを読む

 

乙訓の町並み

 

乙訓の町並み(おとくにのまちなみ) 2009年12月9日訪問 乙訓の町並み 光明寺道 粟生のあたり  光明寺の総門を潜り、光明寺道を東に進む。次の訪問地の乙訓寺までは1.6Km程度なので歩いて移動する。JR長岡京駅からバスに乗車して光明寺まで来たが、その道を途中まで戻ることになる。この光明寺道は西国街道の五辻から光明寺へと続く道である。現在では光明寺前と光明寺道の間は京都府道10号大山崎大枝線に含まれているようだ。そのため光明寺の総門を出て府道10号を東に進むという言い方になるのかもしれない。 乙訓の町並み 文化センター通り 今里のあたり  府道10号大山崎大枝線は、文字通り大山崎… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その6

 

京都の名庭巡り その6 龍安寺  京都の名庭巡り その1 から 京都の名庭巡り その6 までお読み頂きありがとうございました。今回のランキング作成するために参照した資料等を表にまとめておきました。もし庭園とか建築に御興味があれば、ご参照下さい。京都の名庭巡り作成資料。。   126 浄瑠璃寺庭園  127 裏千家庭園  128 官休庵庭園  129 酬恩庵(一休寺)方丈庭園  130 酬恩庵廟前庭園  131 小松亭址積翠園庭園  132 真如院庭園  133 表千家庭園  134 霊雲院庭園  135 勧持院庭園  136 西翁院庭園  137 泉涌寺練成道場前庭園  138 藪内宗家… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その5の2

 

京都の名庭巡り その5の2  このブログには文字数制限があるようで、1つ星の名庭を その5の1 と その5の2 に分けました。 ここは1つ星の名庭を掲載いたしました。「星1つの庭なんて?」とお考えの方も居られるかと思いますが、下記の写真を見て頂ければ、そんなことは全くないことがお分かりかと思います。ついに、ここまでで100庭を越えてしまいました。それだけ京都の庭のレベルが高いということだと思います。また、ほとんどの庭が現役の庭です。どんなに有名な作庭家が手掛けた名庭でも、人手が離れるとあっという間に遺蹟になってしまいます。今までも数え切れないほど多くの庭が私達の知らない所で消えていったことでし… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その5の1

 

京都の名庭巡り その5の1  このブログには文字数制限があるようで、1つ星の名庭を2つに分けました。続いて、その5の2 も御参照下さい。はっきり言いまして、星1と星1.5の差はほとんどありません。比較的有名であり、容易に鑑賞でき庭を星1.5に選んでおきましたので是非、こちらから順番に訪問してみてください。 なお洛翠は現在閉鎖していると思われます。またいつの日か新たな所有者のもとで再会できることを希望しております。そのような意味を含めて掲載させていただきました。 font-size:larger   記事へのlink → 1・2・3 font-size:larger   記事へのlink… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その4

 

京都の名庭巡り その4 font-size:larger   記事へのlink → 1・2・3 font-size:larger   記事へのlink → 1 font-size:larger   記事へのlink → 1 font-size:larger   記事へのlink → 1・2・3・4 font-size:larger   記事へのlink → 1・2 font-size:larger   記事へのlink → 1 font-size:larger   記事へのlink → 1 font-size:large… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その3

 

京都の名庭巡り その3 font-size:larger   記事へのlink → 1・2 font-size:larger   記事へのlink → 1・2 font-size:larger   記事へのlink → 1・2 font-size:larger   記事へのlink → 1  ★★★☆も同じく4つの庭を他より一段高く置きました。選んだ後で眺めてみると偶然ですが4つの作品とも東山に作られた庭でした。  高台寺円徳院は豪放な桃山文化を象徴する庭園です。少し上に入れた醍醐寺三宝院庭園には及ばないまでも見逃すことのできない庭だと思います。特に醍醐寺三宝院… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その2

 

京都の名庭巡り その2 font-size:larger   記事へのlink → 1・2・3・4・5 font-size:larger   記事へのlink → 1・2・3・4・5・6 font-size:larger   記事へのlink → 1 font-size:larger   記事へのlink → 1  ★★★★☆は4つの庭園に絞りました。★★★★の上位4ないし5にさらに☆を加えることも可能だと思いますが、あえて違いを作りました。  修学院離宮庭園は、後水尾上皇の指示で造営された離宮だけに、上皇個人というよりは王朝文化の美意識の到達点を示す庭となって… ►続きを読む

 

京都の名庭巡り その1

 

京都の名庭巡り その1  2013年新春企画ということで京都の名庭ランキングを作ってみました。このような企画は個人の主観でかなり変わってきますので、御承知の上で御参照ください。また☆はそのランクの中でも秀でた庭園ということで特筆いたしました。自分の目で確かめたものから選びましたので、一般公開や特別公開そして事前申し入れで拝観できる庭だけです。個人所有で非公開の庭などは含まれていません。「なぜ、この庭がないの?」という疑問に答えるため、まだ訪問できていない庭のリストを最後に追加しておきました。  自分で見た庭から選んだと書きましたが、どうしても2つだけは未訪問の庭を入れました。お分かりかと思いま… ►続きを読む

 

光明寺 その4

 

西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その4 2009年12月9日訪問 光明寺 勅使門  法然上人袈裟掛之松の西側には法然上人の石棺が残されている。光明寺の項で、叡山の衆徒の襲撃より法然上人の遺骸を護るため吉水から移したことに触れた。安貞元年(1227)6月22日の墓堂破却以前に遺骸は嵯峨に移されたが、ここも安全でないため同月28日にさらに太秦の広隆寺来迎院の圓空に託されている。太秦大映通り商店街の途中、三吉稲荷神社から南に入った右手に西光寺がある。圓空はこの地で上人の遺骸を七ヶ月間護ったとされている。 光明寺 法然上人の石棺 古墳時代の石棺と推定されている 光明寺… ►続きを読む

 

光明寺 その3

 

西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ)その3 2009年12月9日訪問 光明寺 薬医門 江戸初期の建築  光明寺 その2では、法然と熊谷直実を中心とした光明寺の歴史について記してきた。この項では境内の風景について書いていきたい。 女人坂を登りきると正面に光明寺の本堂が見える。この女人坂が終わった箇所の左手に塩田紅果の句碑「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」がある。塩田紅果は本名・塩田親雄、芭蕉の生誕地である三重県上野に生まれる。昭和初期の弁護士で俳人。沼波瓊音に師事して俳句を学ぶ。作家を志したが父の反対に合い、判事となり、後に金沢で弁護士を開業する。昭和2年(1927)「蟻乃塔」… ►続きを読む

 
 

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