松尾大社
松尾大社(まつおたいしゃ) 2009年12月9日訪問
阪急電鉄嵐山線を松尾駅で下車する。松尾の町並みで記したように、南北に走る京都府道29号宇多野嵐山山田線に東側から四条通が突き当たる。四条通は八坂神社を始点としこの松尾大社を終点とする。いずれにも共通するのは楼門と鳥居に用いられた朱色と背景地としての山であろうか。
一之鳥居の脇には松尾大社と記された社号標とともに大きな一組の瓶子が置かれている。さすがにお酒の神様の社前であることを想わせるのに十分な大きさである。鳥居を潜ると左手に交番と2つの大きな石碑が見える。その傍らに忘れ去られたかのように「西芳寺 南へ凡五丁」と記された三宅安兵衛遺志の道標が置かれている。本来は二之鳥居の近くに建てられたのではないかと思われる。右手の屋根の架けられた建物は京都府神社庁である。そのまま参道を進むと二之鳥居が現れる。
松尾大社は延喜式神名帳では、
松尾神社二座 並名神大月次相嘗新嘗
とある。祭神は大山咋神と市杵島姫命。本朝二十二社の一で、伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂別雷神社、賀茂御祖神社、平野神社、伏見稲荷大社、春日大社とともに上七社に数えられている。旧官幣大社で昭和25年(1950)に松尾社を松尾大社に改めている。
祭神の大山咋神の咋は「くい」と読み、杭を指し示している。大山に杭を打つことより、大きな山の所有者である神と考えられている。古事記には下記のように記されている。
大山咋神、亦の名を山末之大主神。
此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、
亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ
丹波国の浮田明神には大山咋神にまつわる古い伝承がある。太古の昔、丹波国が湖であった頃、大山咋神は自ら鍬鋤を用いて保津峽を切り開いたとしている。その時、掘削した土を積んで出来たのが亀山と荒子山(あらこやま=嵐山の地名説)であった。湖水を大堰川に通じさせたことにより、湖は沃野となり丹波国の収穫も上がった。また山城国でも保津川の流れを導いたことにより、荒野を潤しことが可能となった。この事跡からも大山咋神が国土開発の神であり、農耕信仰の守護神として崇められたことがうかがえる。すなわち稲作農耕の初期において、原初的な土木技術が導入された事例を示唆する伝承とも考えられる。大山咋神は松尾山に鎮座し、山城と丹波の開発に努めたとされている。
上記の伝承から想い起こされることは、秦氏による葛野の開拓である。嵐山の町並みや葛野大堰でも記したように、秦氏の基となった氏族は新羅から日本に渡来している。日本書紀には応神天皇14年(283)に弓月君が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化したこととなっているが、実際には、もう少し後の時代の5世紀中頃に日本に渡り、そして山城国葛野の太秦あたりに定住したと考えられている。林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年刊)にも、この時期に日本に渡来した秦氏が湿潤な地域の土地改良のため桂川に大堰を造り、河川の水量を調整することにより、大規模な開拓と耕地への灌漑が可能にしたと考えている。
秦氏によって築かれた葛野大堰は既に失われ、その位置を特定することは難しい。昭和4年(1929)に建碑された三宅安兵衛遺志の道昌大僧正遺業大堰の碑は、かつては存在していた。しかし前回の訪問した時にはついに見つけることができなかった。その代わりに嵐山上河原町にある嵐山公園管理事務所の斜め向かいにあるマンションの西側で、一ノ井堰碑を見ることが出来る。この碑は昭和55年(1980)一之井堰並通水利組合が建てたもので、碑文は当時の京都府知事の林田悠紀夫による。文中には、5世紀頃に秦氏によって葛野大堰が作られ、その場所はこの地附近と推定されていること、また応永26年(1419)に描かれた桂川用水路図には法輪寺橋のやや下流の右岸に一ノ井と云う名称で用水取入口が記入されていること、そしてこの樋門は松尾桂川岡の十ヶ郷の農地灌漑用水路として潤っていたことが記されている。 この一ノ井堰碑に従うと法輪寺橋、すなわち嵯峨街道が桂川を渡る現在の渡月橋の下流あたりの一之井堰の附近にあったということである。現在も渡月橋の上流に、木の杭を並べた堰を見ることができる。また橋の下流にも近代に堰が作られている。すなわち桂川右岸の中之島の上流と下流側に2つの堰が存在している。恐らくこの範囲が一之井堰の碑文のいう「附近」ということであろう。
秦氏による葛野大堰は、その末裔である道昌によって、承和年間(834~48)あるいは貞観年間(859~77)によって修復されたと考えられている。大山咋神の伝承は、渡来者である秦氏の事跡を神格化するために創作されたようにも思える。
先の古事記の大山咋神に関する記述の中に、鳴鏑について触れられている。鳴鏑は矢の先端に付ける発音用具のことである。これに関しても秦氏本系帳に以下のような一文が見られる。
初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。
時に一矢あり。上より流下す。
女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。
ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。
(中略)戸上の矢は松尾大名神これなり。
(中略)而して鴨氏人は泰氏の婿なり。
これは古代の神婚譚であり、同様な伝承は大和の大神神社にも見ることができるが、山城国風土記逸文に見られる賀茂別雷大神の誕生譚との強い類似性を感じる。
瀬見の小川で遊んでいた玉依日売は川上から流れてきた丹塗矢を持ち帰り寝床の近くに置いた。すると玉依日売は懐妊し男の子が生まれた。やがて成人した男の子は、その祝宴の席で賀茂県主であり玉依日売の父親である賀茂建角身命より「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言われたところ、屋根を突き抜け天に昇っていったとされている。これにより子の父が神であり、丹塗矢の正体は乙訓神社(向日神社)の火雷神であったとされている。山城国葛野郡と愛宕郡を支配した賀茂氏は代々賀茂神社に奉斎し、賀茂別雷大神を祀る賀茂別雷神社と玉依姫命・賀茂建角身命を祀る賀茂御祖神社の両神社の祠官家となった。 このように伝承が似ていることからも賀茂氏と秦氏の間に何らかの関係があったことは十分に推測できるものの、それを説明できるものが現れていないようだ。秦氏本系帳を信じるならば、「鴨氏人は泰氏の婿なり」とは、賀茂別雷大神の父神が大山咋神であることとなる。
古事記の記述の中に、「近淡海国の日枝の山に坐し」とあるように、大山咋神は日枝山(比叡山)の守護神として祀られていた。その後、近江京遷都の翌年となる天智天皇7年(668)大津京鎮護のため、大和の大神神社から大己貴神の和魂とされる大物主神を勧請している。以降、元々の神である大山咋神よりも大物主神の方が上位とみなされるようになっている。延暦7年(789)最澄も大物主神を西本宮とし、従来の祭神である大山咋神を東本宮としている。なお最澄が一乗止観院という草庵を建てた年が延暦寺の創建とされている。その後最澄は入唐を果たし、天台教学を天台山国清寺で学んでいる。この寺に地主山王元弼真君が鎮守神として祀られていたため、唐から帰国した最澄はこれに倣い比叡山延暦寺の地主神として日吉山王権現を祀ったことが、天台宗が興した神道の一派となる山王神道につながってゆく。江戸時代に入り天海が山王一実神道と改めている。また太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てたため、大山咋神は徳川家の氏神とされてきた。明治以降は皇居の鎮守とされている。
大山咋神が大年神と天知迦流美豆比売の間の子とされている。これに対して松尾大社のもう一方の祭神である市杵島姫命は、天照大神と建速須佐之男命の誓約を結んだ際、建速須佐之男命の十拳剣から現れた宗像三女神の一人である。古来より海上守護の神徳があるとされ、筑前国の宗像大社や安芸国の厳島神社の祭神ともなっている。松尾大社の祭神とされているのは秦氏が大陸から渡来してきたことに関係があるのかもしれない。「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 初版第4刷1993年刊)でも、
「秦氏の大陸系氏族としての性格から合祀されたと
考えられる。」
とかなり曖昧な記述となっている。
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