アーカイブ:2013年
下御霊神社
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ) 2009年12月10日訪問 下御霊神社 横井小楠殉節地より、寺町通を南に30メートルほど下ると下御霊神社の鳥居が現れる。 下御霊神社は、「山州名跡志 坤」巻之二十二(「新修 京都叢書 第19巻 山州名跡志 坤」(光彩社 1968年刊))に以下のように記されている。 在リ二京極通大炊御門ノ北東方ニ一門西向 拝殿同 社同 所レ祭ル辨スレ上ニ當社始メ新町通リ近衛ノ南ニアリ。今尚云フ二御霊ノ町ト一。 京極通は東京極大路のことであり、平安京の東端にある大路のことである。現在の寺町通と考えてもよい。大炊御門通も現在の竹屋町通にあたる。鳥居は西を向き拝殿も西向き… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その7
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。 新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。 事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その6
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。 御任選 御沙汰ニ付言上之向、列藩 德川… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その5
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その4
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その4 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地 その3では横井小楠の年譜に従い、誕生から時習館改革そして肥後実学党の分裂までを書いてきた。この項では小楠の越前藩招聘から明治元年(1868)までを記してみたい。 万延元年(1860)の「国是三論」から少し時代を遡る。安政4年(1857)5月、越前藩士村田氏寿が松平慶永の命を受け、横井小楠招聘のために熊本を訪れる。肥後藩庁は小楠招聘に対して難色を示し、種々の理由をもとに許可を降ろさなかった。しかし藩主細川斉護の三女勇姫が慶永の正室という姻戚関係から半ば強引に許可を得ること… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その3
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その3 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2では横井小楠の年譜に触れずに、いきなり対外政策について書き始めた。この項では小楠の生涯を追い、嘉永6年(1853)の「文武一途の説」や「夷虜応接大意」以降の思想的な展開と松平春嶽の活動に与えた影響について考える。 横井小楠は、文化6年(1809)肥後国熊本城下の坪内町に、熊本藩士横井時直の次男として生まれる。文化13年(1816)ころに藩校時習館に入学する。天保4年(1835)一般課程を終え、居寮生となる。天保7年(1836)4月に講堂(一般課程の最… ►続きを読む
横井小楠殉節地 その2
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その2 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 横井小楠殉節地では碑の建立の経緯と、横井小楠が嘉永6年(1853)に建言した「文武一途の説」を通じて、小楠の思想がどのようなものであったかを記してみた。小楠の外交に対する考え方が少し長くなってきたため、翌年の再訪を約してペリーが日本を去ったところで前項を閉じた。この項ではペリーに次いで日本を訪れたプチャーチンへの応接を通じてさらに小楠の外交政策の展開を見て行く。 ペリーの1回目の浦賀来航から僅かに遅れ、嘉永6年(1853)7月18日、プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長… ►続きを読む
横井小楠殉節地
横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち) 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地 この日は朝の散歩程度しか時間が取れなかったので、京都御所の東側のごく限られた範囲のみを歩いてみた。いずれ京都御苑内については時間をかけて見て行きたいと考えている。 京都御苑の南側を東西に走る丸太町通から寺町通を南に入り、下御霊神社に行く途中に横井小楠殉節地の碑が建つ。この碑は、その碑文より昭和7年(1932)に寄付を受けて京都市教育会が再建したことが分かる。中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)の中で説明しているとおり、京都市… ►続きを読む
維新殉難志士墓
維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問 維新殉難志士墓 元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られたことまで記した。この日の最後の訪問地は、この三士の墓であった。大まかな場所は分かっていたものの、実際には墓地への入口を探すのにかなりの時間を費やすこととなった。 楳本僊之介、相良頼元、相良新八郎の3人の名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)にも掲載されて… ►続きを読む
勤王家殉難地
勤王家殉難地(きんのうかじゅんなんのち) 2009年12月9日訪問 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡の東側を小畠川が流れる。もともと桂川の右岸の耕地を潤すための用水路であったため、それ程川幅は大きくない。山陰道に架けられた橋の上に勤王家殉難地の碑が建てられている。この碑については、フィールドミュージアム京都の記述が簡潔にして、詳しく説明されているのでご参照下さい。 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡 勤王家殉難地 嵯峨・天龍寺に布陣した国司信濃隊は、元治元年(1864)7月18日深夜に進軍を開始し、翌19日早朝には御所の西側の中立売門、蛤門そして下立売門周辺に集結した。中立売門… ►続きを読む
小泉仁左衛門宅跡
小泉仁左衛門宅跡(こいずみにざえもんたくあと) 2009年12月9日訪問 小泉仁左衛門宅跡 現在は集合住宅が建つ 樫原の辻から山陰道を西に少し入った所に、北から小畠川が流れてくる。この川は明智川ともよばれるように、明智光秀が天正3年(1575)丹波平定のおり、樫原を補給基地とし老の坂から樫原そして桂までの道を整備している。その際に、溜池や灌漑用水路の築造も行っている。小畠川はその際に作られた用水路とされている。小さな橋の傍らに駒札が建てられている。この駒札は、先の樫原の町並みで紹介した樫原宿場街と札場と同様、京都市の建てたものではないようだ。京の駒札(https://vinfo06.a… ►続きを読む
樫原の町並み
樫原の町並み(かたぎはらのまちなみ) 2009年12月9日訪問 樫原の町並み 山陰街道 松尾大社では重森三玲の松風苑を鑑賞させていただいた。本日の訪問地の中でも最も期待していただけに、予定以上の時間をここで費やすこととなった。この後、再び阪急電鉄嵐山線に乗車し桂駅で下車して徒歩で次の訪問地・樫原の辻に行く予定であった。しかし時間がなくなったので、タクシーを使うことに変更した。この道は、先ず京都府道29号宇多野嵐山山田線であるが、西京区山田の山陰道の交差点から先は、京都府道・大阪府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に変わる。同じ直線上に接続されているにもかかわらず、山陰道を挟んで2つの… ►続きを読む
松尾大社 蓬莱の庭
松尾大社 蓬莱の庭(まつおたいしゃ ほうらいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社の「曲水の庭」と「上古の庭」を拝観した後、磐座登拝入口の前を経て、霊亀の滝と滝御前社に至る。再び御手洗川に沿って神輩所横から出る。一之井川を東側に渡り楼門を潜り出た先には二之鳥居が見える。その手前左手に客殿があり、その脇に蓬莱の庭の入口がある。 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 現在の蓬莱の庭に面した場所に客殿が建設されたのは、それほど古い時代ではなかったようだ。 「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭 その2
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社 曲水の庭では、この庭が完成するまでの時間的な流れを記し、いかに重森三玲が短時間の内に庭を創り上げて行ったかを明らかにした。また中国の風習である曲水の宴が日本に伝わった時期を考えることで、三玲がこの庭に託した歴史的な想いについても記してみた。 曲水の庭の設計図は、もちろん「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に掲載されている。しかし「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には設計図とともに施工以前の庭の様子や施工中の… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 上代の磐座・磐境をモティーフとした「上古の庭」に続いて、「曲水の庭」について見てゆく。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている重森三玲の日記によると、上古の庭を設計した昭和49年(1974)4月28日に大体の設計で終わり、5月10日に門弟の斎藤忠一氏による清書が完成している。これを同月25日に河田宮司に披露し、5月29日の大安の日に松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行っている。この庭の施工は上古の庭が完成してからとなる。昭和49年(1974)8月1日に… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭 その2
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭 松尾大社 上古の庭では磐座と磐境のことでほぼ費やしてしまったが、ここからは話しを上古の庭に戻す。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には大判の松尾大社庭園設計図①と②が付けられている。①は上古の庭と曲水の庭を1枚で著したもの。②は蓬莱の庭のみの設計図である。重森三玲が設計した庭だから実測図ではなく設計図となる。実測図とは異なり、設計意図を表現したものであり、恐らくこれだけを見て施工することは不可能であったと思われる。大社で庭を拝観し… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 上古の庭 松尾大社 松風苑では、作庭家・重森三玲の庭園史家としての業績について書いた。そして松尾大社 松風苑 その2では「松尾大社造園誌」から、松風苑の成立過程について考えてみた。ここからは各庭のデザイン・モティーフとなった時代の順に、先ずは「上古の庭」から記していこうと思う。 上古の庭は宝物殿の北側の斜面に造られた庭園である。社務所から西側には、すぐに山裾が広がるため、南側の曲水の庭も片勾配の敷地に作庭されている。特に上古の庭は丹波笹が敷き詰められているため松尾山と一体となり、あたかも山肌をその… ►続きを読む
松尾大社 松風苑 その2
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社の案内によると重森三玲の作庭した3つの庭を松風苑と呼ぶようである。松尾大社 その3でも記したように、大社の設定した拝観順路に従うと北清門と神饌所を結ぶ回廊の下を潜り、再び社務所と葵殿を結ぶ回廊を潜ると「曲水の庭」が現れる。この庭は葵殿と宝物殿、そして社務所と松興館に囲まれた空間に作られている。そして松興館と宝物殿を結ぶ回廊の先に次の「上古の庭」がある。もうひとつの「蓬莱の庭」へは、「上古の庭」の築地塀の外側の坂道を登り、磐座登山口の前を過ぎる。さらに宝物館と葵殿の裏側… ►続きを読む
松尾大社 松風苑
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭全景 昭和を代表する作庭家の重森三玲は、庭園史家として、初期と最晩年の2度にわたり研究成果を著している。最初は昭和11年(1936)より刊行開始した日本庭園史図鑑(有光社)である。未だ科学的分析手法を用いた日本庭園研究がなかった時代に、日本庭園史図鑑は画期的な研究書であった。この執筆のために重森は実に日本全国350の庭を訪れ調査を行い、その内から243庭を選出し、全26巻に纏めた。刊行を終えた昭和14年(1939)は第二次世界大戦を間近に控えた混乱した時期でもあった。 東福寺方丈… ►続きを読む
松尾大社 その3
松尾大社(まつおたいしゃ)その3 2009年12月9日訪問 松尾大社 本殿 大宝元年(701)秦都理は松尾社の社殿を営んでいる。その後数度の火事にあっているが、弘安8年(1285)3月の火事により、社中ことごとく焼亡している。現在、重要文化財に指定されている現在の本殿は天文11年(1542)の建造で、桁行三間、梁行四間の一重檜皮葺の両流造である。箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝の斗組や蟇股、手挟などの優れた彫刻意匠に室町期の特色を見ることができる。なお松尾大社… ►続きを読む