文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都の神社巡り その4



京都の神社巡り(きょうとのじんじゃめぐり) その4

画像
京都の神社巡り 大井神社 大歳神社社前にある由来

 宮中神三十六座と京中坐神三座に引き続き、山城国一二二座の内、乙訓郡十九座、葛野郡二十座、愛宕郡二十一座、紀伊郡八座、宇治郡十座の七十八座の中で訪問した式内社を中心に書いて行く。また、久世郡二十四座と綴喜郡十四座、相楽郡六座については、全て訪問していないので今回の対象からは除外し、改めて訪問した際に記すこととする。なお祭神は現在祭祀されている神を記している。

         祭 神:高皇産日命 神皇産日命
         社 格: 旧郷社
         所在地: 京都市伏見区羽束師志水町232

 地番は志水であるが古川村を中心とする地域(羽束師古川町・羽束師志水町・羽束師菱川町)の社。「続日本紀」大宝元年四月三日の条に以下の通りある。

勅 山背国葛野郡月読神 樺井神 木嶋神
波都賀志神等神稲 自今以後 給中臣氏

 その神稲が中臣氏に賜っていることからも、早くから宮中の菜園があったと考えられている。境内は二千坪程あり、広大な羽束師の森の中に南面している。羽束師の森は、都名所図会にも掲載されている。
         祭 神: 豊玉姫命 高皇産日命 速秋津姫命 
         社 格: 旧郷社
         所在地: 京都市伏見区淀本町167(淀城址)

 現在は桂川の左岸にある淀城址内に位置するが、古くは右岸の乙訓郡水垂村(京都市伏見区淀水垂町)にあった。都名所図会には淀姫社として浮田森や淀小橋の西側に描かれている。鎮座地の名称から水垂社とも大荒木社ともよばれている。明治33年(1900)の淀川改修工事に伴い、現在地に移転するが、昭和50年(1975)に慶安2年(1649)建立とされる檜皮葺五間社流造の本殿を焼失している。
         祭 神: 不明
         社 格: 不明
         所在地: 不詳

 志賀剛の「式内社の研究 第三巻 山城・河内 和泉・摂津」(雄山閣 1977年刊)によると、大井社の所在地については4つの説が存在している。
 一番目は神社明細帳による久世村綾戸宮、すなわち現在の京都市南区久世上久世町446の綾戸国中神社である。明治3年(1870)の上久世村内社寺数取調帳(井上家文書)には、「大井社 国中社」と、かつてこの地に大井社があったことが分かる。
 二番目として京都府神社考証では綾戸大明神を祭る三座、大綾津日神、大直日神、神直日神が大井川の祓除の神であるとしている。そして大井社は上記の三座を祀る綾戸社であると推定している。大井社と綾戸社の関係が結びついたが、結局のところ一番目の綾戸国中神社と同じ所に結びつく。
 三番目は関祖衡と並河誠所が企画し、並河が編纂した「山城志」による。

沓掛村、今称千児明神

現在、西京区大枝塚原町に児子神社がある。昔はさらに西の大枝沓掛町にあり、千児明神と呼ばれていた。千児明神が児子神社に引き継がれたため、志賀は児子神社が大井社につながる神社と考えている。しかし「式内社調査報告 第1巻 京・畿内1」(皇學館大學出版部 1979年刊)では、沓掛の地には大井という地名は存在していないため、既に廃絶したとも推測している。
 四番目は明治3年(1870)に完成した「神社覈録」に依っている。松尾神社の末社が堰神を祀ったことより大井社と称していた。この社は今も臨川寺の西、渡月橋の近くに残る。「式内社調査報告」と異なり、志賀は「式内社の研究」で嵯峨野に残る大井社こそが式内社大井社であったと推測し、本来葛野郡とすべきところを誤って乙訓郡に含めたと指摘している。
         祭 神: 大山昨神
         社 格: 不明
         論 社: 角宮神社 長岡京市井ノ内南内畑35
         論 社: 火雷神社(向神社併祭)
                向日市向日町北山63

 「式内社調査報告」では論社として角宮神社と向日神社の火雷神社の二社を上げ、「式内社の研究」では角宮神社のみを式内社と比定している。

 角宮神社は井ノ内集落の中央に位置する。社殿は左右に分かれ、右には火雷神を主神として建角神、玉依姫命、活目入彦五十狹茅尊、左には武甕槌神、経津主命、天児屋根命を祀る旧村社。もとは井内村の西北部の小字宮山にあったといわれ、文明16年(1484)に現在の地で再興されている。現在でも井ノ内に宮山の地名が残る。京都府道10号大山崎大枝線、かつての西国街道で現在の文化センター通り、光明寺交差点から少し北側に道路から西側に細長く広がる地域が宮山である。
 「山州名跡志」(「京都叢書 第18巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊行))には下記のように記されている。

当社ハ所スル延喜式
乙訓神社是也所火雷神ナリ
神名張及神代鈔等ニ出ヅ

 向日神社は向日丘陵の南端に東面するように建つ。角宮神社の東500メートルに位置する。西国街道に面する石鳥居から約三町の参道を進むと社殿に達する。祭神は向日神、火雷神、玉依姫命、神武天皇。「向日社略記」によれば、もともと上下二社に分かれ、現社地は上社で向日神が、下社には火雷神が鎮座していたが、中世初期に下社が大破したため、上社に合祀したとしている。明治になって纏められた「特選神名牒」では、井内村が角宮を産土神とし、井内村以外の村が向日神社を産土神とすることから、承久の乱で乙訓神社が廃絶すると向日神社境内に遷座したとする村人の説を取り、「角宮は疑らくは本社廃亡の時摂社などにて存したるにやあらん」と推定している。すなわち「特選神名牒」は角宮神社式内説を支持し、志賀もこれを採用している。
         祭 神: 火明命 または 建麻利尼命 と推定
         社 格:
         所 在: 大歳神社に合祀
                西京区大原野灰方町575

 大歳神社のある大原野灰方町の西に大原野石作町がある。「新撰姓氏録」によると石作氏は、第11代垂仁天皇の后・日葉酢媛命が亡くなった際に、石棺を献上したことから石作大連公の姓を贈られている。なお大歳神社の祭神と考えられている建麻利尼命は石作氏の祖先にあたる。石作神社は式内社の中でも六社あるが、叙位されているのは乙訓郡の石作神社のみである。このことからも石作大連が灰方を含む一帯を支配していたと考えられる。乙訓郡は多くの古墳が残っていることから、石棺を製作していた石作氏にとっても都合のよい場所であったであろう。
 志賀は「式内社の研究」で、長峰八幡のある旧長峰村に神社に因む大神宮などの小字があったことや、八幡宮が巨大な横穴式古墳の上にあったことからも、この地(大原野石作町40)が石作神社の旧地であったと推定している。
 石作神社の旧地と考えられてきたものに灰谷の早尾神社がある。山奥の集落にある早尾神社は、国常立命、猿田彦命そして第15代応神天皇を祭神としている。灰谷の地名は、灰方や出灰などとおなじく、染料として使用した石灰を産出したことに依っている。この神社は、大歳神社の社伝によると大歳神社の西側に鎮座していたものを、昭和18年(1943)頃に灰谷地区の氏神であったことから、旧地に遷座している。山城志等でも後世の勧請であるため石作神社とは別社と考えられている。

         祭 神: 天津児屋根命 武甕槌神 姫大神
         社 格: 旧村社
         所 在: 長岡京市奥海印寺走田3

 走田神社は奥海印寺の北の山の中腹、平野を見下ろす場所に位置している。寂照院の背後から長い石段を上って社頭に達する。「山城名跡巡行志」(「京都叢書 第10巻 山城名跡巡行志 京町鑑」(光彩社 1968年刊行))では以下のように記述され、江戸時代より式内社に比定されてきたことが分かる。

走田 在同村奥海印寺後山林
今称妙見菩薩

さらに長法寺と奥海印寺二村が祀るとしている。明治維新後、正式に式内走田神社としている。

「京都の神社巡り その4」 の地図


大きな地図



京都の神社巡り その4 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  羽束師坐高御産日神社 34.9293 135.7233
02  與杼神社 34.9053 135.7178
03  大井神社 綾戸国中神社 34.9636 135.7154
03   大井神社 大枝沓掛町 34.9776 135.6642
03   大井神社 葛野郡大井社 35.0142 135.678
04   乙訓坐火雷神社 角宮神社 34.9422 135.6888
04   乙訓坐火雷神社 火雷神社 34.9441 135.6971
05  石作神社 大歳神社 34.9508 135.6663
06  走田神社 34.9274 135.6763

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