最福寺跡
最福寺跡(さいふくじあと) 2009年12月20日訪問
月読神社とその鳥居の右手にある押見宿祢霊社遺跡碑の前から、浄土宗西山禅林寺派 帰峰山 西光寺に出る。同じ浄土宗でも右京区太秦多藪町の来迎山 西光寺は嘉禄の法難で有名である。光明寺の項で、来迎坊圓空と太秦の西光寺に少しふれているので興味のある方はご参照を。
この松室山添町の西光寺から華厳寺に向かう途中に「谷の堂最福寺 開山延朗上人旧蹟地」の碑と小さな堂宇を見かけた。
最福寺跡は松尾山南麓を流れる西芳寺川の谷の入口北岸にある。延朗上人の木像を安置する延朗堂の他には、いくつかの碑と石造の観音立像のみが残る。最福寺は天台宗寺門派の寺院で、開山は三井寺の学僧延朗である。
「元亨釈書」によると開山の延朗は源義家より4代目の子孫となる。八幡太郎義家の子が悪対馬守義親、さらに義親の長男が源義信で、延朗は大治5年(1130)義信の長男・源義実として但馬国に生まれたとされている。天養元年(1144)15歳で出家し、延暦寺や園城寺にて天台宗を学び、顕教・密教両面の内典・外典に通じた碩学ぶりを以って知られるようになる。しかし平治元年(1160)から始まった平治の乱が発生する頃、延朗は源氏の縁者として追われ諸国遍歴の旅に出る。安元2年(1176)京に戻った延朗は松尾大社の神宮寺に住し、最福寺を創建する。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻2」(白川書院 1959年刊)では延朗は松尾山寺の旧地に最福寺を谷ヶ堂最福寺として建立、松尾山寺は奈良朝末期の寺院で由緒不明と記している。「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))に下記のようなことが松尾山寺として掲載されている。
類聚国史云天応二年七月壬寅
松ノ尾山寺ノ僧尊饒生年百一歳請二入内裏ニ一
叙二位大法師ノ一
確かに「類聚国史」巻百八十五 仏道十二 僧位に、その記述を確認することができる。註に尊饒の饒は鏡と同じとある。また同様の記述を「続日本紀」の巻三十七 桓武天皇紀にも見える。
壬寅 松尾山ノ寺僧尊鏡 生年百一歳 請シ二入レテ内裏ニ一
叙ス二位ヲ大法師ニ一
優メナリ二高年ヲ一也。
この松尾山寺を葛野の松尾山と見るか大和郡山の松尾山とするのかで異なった結果となるだろう。現在でも大和郡山には松尾寺が存在している。因みに最福寺の境内には、後世に作られた「松尾山寺 尊鏡大法師像安置」と記した蹲踞も置かれている。
源義経は、一族の源義家の子孫が開山した最福寺の興隆を願い、丹波国篠村庄の寄進を半ば強要したとしている。延朗には、このような義経からの寄進は不要であったようだ。それでも寄進を受け入れた延朗は、3年間年貢を免除しただけではなく、一万回仏号を唱えた農民には租一石を免じたとされている。そのような経緯があった領地であったので、義経が朝敵として追われた後は、源頼朝に同庄の返上を申し出ている。文治2年(1186)頼朝は使者の豊島有経を通じて改めて同庄を寄進している。延朗は承元2年(1208)に79歳で入寂している。
弟子の慶政は松尾谷を隔てて南の葉室山の山中に一宇を建立し、師延朗の廟所とした。これが法華山寺の始まりとされている。慶政は文治5年(1189)生まれの鎌倉時代の僧で、年代的には延朗の二世代後に属する。号は証月坊・松月坊・勝月坊・照月坊で、猪熊本「比良山古人霊託」によれば、東福寺を建立した藤原道家、すなわち九条道家の兄ともされているが確証は無い。出家して天台宗寺門派の僧となった慶政は、延朗が入寂した承元2年(1208)に京都西山に隠棲している。建保5年(1217)に宋へ渡り翌年に帰国し、嘉禄2年(1226)法華山寺を建立している。明恵上人とも交流があったが、文永5年(1268)に入寂。
最福寺と法華山寺の開山が延朗であるということは、確認は出来なかったが室町時代の「壒嚢鈔」に、「谷峯両寺共ニ延朗上人興行ノ所也。(中略)或云、峯堂ヲハ延朗弟子照日上人建立ト云云。延朗上人ノ為基所被造ト云リ。法華山寺ト云是也。」に依っているいるらしい。また「山城名勝志」でも「壒嚢鈔」を引用している。 かつての法華山寺の位置は桂西方丘陵、地名としては西京区御陵峰ヶ堂で海抜180.3メートルの三角点(点名:御陵 基準点コード:TR35235358401 種別等級:三等三角点 緯度:N34度59分12.4441 経度:E135度40分31.3136 標高:187.04)付近とされている。この場所から東に進むと唐櫃越の桜谷墓地そして浄住寺に出るようだ。M.Yagiさんの管理されているHomePage(http://home.att.ne.jp/wood/myagi/ : リンク先が無くなりました )に掲載されている“法華山寺跡(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/5774/travel6o.html : リンク先が無くなりました )”に山中に残る法華山寺跡と考えられる場所を撮影した写真があります。 なお法華山寺が廃絶した後、天文3年(1534)細川晴元の奉行人茨木長隆が山城守護代木沢長政に下した奉書に見られるように、大永7年(1527)の戦火で焼かれた後の峯堂は、峯城に改装されたと推測されている。
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の公式HPで提供している各区の遺跡(文化財保護課)では、「法華山寺跡(峰ヶ堂城跡)」という名称で登録されている。下記のようなことが備考に記されている。
法華山寺と呼ばれ,大永7年(1527)に炎上し,廃絶後,峰ヶ堂城が築かれた。寺は建保7年(1219)から貞応元年(1222)の間に証月房慶政が建立したと伝えられる。一方,城跡は『東寺百合文書』中に「峯城」との記載箇所がある。現在,曲輪・土塁・石垣・井戸などが残る。城跡の主郭部分は円丘になっており,南側に石材が散乱していることから,横穴式石室をもった古墳の可能性が指摘されている。
また、山下正男氏による「京都市内およびその近辺の中世城郭-復元図と関連資料-」(「京都大学人文科学研究所調査報告第35号」(京都大学人文科学研究所 1986年刊)にも「63.峰ケ堂城(谷城)」として掲載されている。
63.峰ケ堂城(谷城)
西、御陵峰ケ堂
法華山寺、通称峰ケ堂の跡地に建造された戦国期の典型的な山城。三つの峰、五つの尾根にまたがって存在する。曲輪の数は40個にのぼる。(中略)
この地は大枝から松尾の山田へ抜ける道の峠の部分に当り、また丹波から山田へ抜ける古道、唐櫃越(からとごえ)の道沿いに位置していた関係上、はじめ寺自体が陣地として徴用され、その結果兵火にあい焼亡。法華山寺の寺領も殆んど失われ、寺はついに再建できなかった。そして跡地につくられたのが峰ケ堂城である。それゆえこの遺構は法華山寺の遺物(磚がいまでも多量に出土する)と戦国山城の遺物を多く埋蔵しているはずである。考古学的調査が望ましい。(後略)
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