華厳寺
臨済宗永源寺派 妙徳山 華厳寺(けごんじ) 2009年12月20日訪問
衣笠山にある地蔵堂から再び華厳寺橋で西芳寺川を渡り、松尾山側に戻る。先ほど通過した華厳寺を訪問する。山門へと続く石段の右手には「鈴蟲の寺 華厳禅寺」の寺号標石がある。現在は臨済宗永源寺派の寺院で山号を妙徳山とする。 華厳寺の開山は江戸中期の学僧・鳳潭とされている。鳳潭は華厳・天台・禅・倶舎・真言・浄土などの諸宗にわたり膨大な著述を残し、仏教文献の流伝と保存に大きな功績を残している。それにも関わらず、鳳潭の生誕年や出身地に諸説があるように、史伝資料が非常に少ない人物でもある。王芳氏の「鳳潭の生没年及び出身地に対する一考察」(「インド哲学仏教学研究第19号」 東京大学 2012年刊)によると没年は元文3年(1738)2月26日であるが、生年については3説あり、承応3年(1654)と明暦3年(1657)さらに万治2年(1659)と最大でも5年近い開きが生じている。いずれの説でも80歳近い長寿を仏教研究に費やしたこととなる。また出身地についても、摂津国難波村、摂津国豊島郡池田村、越中国西礪波郡埴生村の3説が存在している。なお、王芳氏は上記論文で、万治2年(1659)摂津国豊島郡池田村生まれと推測している。
鳳潭は、延宝2年(1674)黄檗二傑の一人として名高い河内の法雲寺主である慧極道明禅師のもとで出家、黄檗一切経を上梓した鐵眼道光禅師に仕えている。法名を僧濬、別号を菊潭と名づけられ、華厳宗復興を勧められ、その興隆を志すこととなる。興福寺、東大寺で学び、元禄6年(1693)泉涌寺で受戒する。比叡山でも天台における教相と観相を就学し、京阪地方において大乗・小乗・顕教・密教仏教各宗をも研究している。宝永年間(1704~11)江戸に下り大聖道場で華厳経を講じ、諸宗学徒が参集している。華厳に対する自らの考えを著し、各宗の学僧と交流を広げている。そのため生涯他宗僧侶との論争を重ね、真言宗の慧光・実詮、浄土宗の義海、同西山派の顕恵、天台宗の光謙・守一・性慶、真宗の法霖・知空・慧海・性均、日蓮宗の日達・日諦などと相互に著書を著し応酬している。
鳳潭は華厳宗の復興を図るため、享保8年(1723)松尾に大華厳寺を建立する。しかし伽藍の拡張も未完成のまま元文3年(1738)死去している。安永9年(1780)に刊行された都名所図会では華厳寺について下記のように説明している。
此所は最福寺の延朗上人の住給ひし谷堂の旧跡なり。
〔字を寺家の内といふ〕近年鳳潭和尚華厳宗を再興あらんとて、松尾安照寺を遷して華厳寺と改め、此地において寂す。〔元文三年二月廿六日八十五歳〕
現在、華厳寺が所蔵する約7寸八分の瓦は鎌倉時代のもので最福寺の遺物とされている。その後、江戸時代末期の慶応4年(1868)慶厳が入寺し臨済宗に改めている。そのため華厳寺の中興開山とされている。大正元年(1912)には勧進募金により本堂を再建している。境内地600坪、本尊は平安時代作とされる大日如来坐像。本堂には本尊以外に、鎌倉時代の宝冠釈迦如来像及び鳳潭木像を安置する。寺号の額は黄檗隠元の筆、左右の聨は鳳潭の筆。鳳潭の墓は庫裏の裏手の墓地の中にある。なお、多数の鈴虫を飼い、鈴虫寺と呼ばれるようになったのは近年のことである。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻2」(白川書院 1959年刊)には記述がないが、「昭和京都名所圖會 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)では下記のように記している。
俗に「鈴虫寺」といわれ、境内には多数の鈴虫が飼われていることで、近年有名になっている。
今回、石段の上の山門まで上ったが、境内には多くの拝観者で溢れかえっていたのでここで引き返すこととした。
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