二尊院 その2
天台宗 小倉山 二尊院(にそんいん)その2 2009年12月20日訪問
二尊院では、嵯峨天皇による創建から法然と九条家そして法然の弟子達による再興、そして応仁の乱の後の広明恵教と三条西実隆父子による再興について書いてきた。特に江戸時代に入ると、徳川家による寄進だけではなく、嵯峨の豪商角倉家が檀家となったことで寺運を一層興隆させている。
これに対して正徳元年(1711)の「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の二尊教院には、以下のように記述されている。
蓮門宗派云當寺ハ者弘仁ノ聖主凝シ二叡信ナ一
於テ二此砌ニ一為二萬代ノ御願一被レ建二一宇ノ之梵閣ヲ一
華台寺是也
弘仁ノ聖主とは嵯峨天皇のことである。やはり宝永8年(1711)に刊行された「山州名跡志」(「京都叢書 第18巻 山州名跡志 乾」(光彩社 1967年刊行))でも同じような記述が見られる。
當院開基 不レ詳初ヨリ此地ニ華台寺并ニ二尊教院ノ号アリ
今所レ在ル二縁起ニ一ハ。
中興法然上人ヨリ己来ヲ載タリ。
そして安永9年(1780)に刊行された都名図会の二尊院の条には以下のようにある。
当院は嵯峨天皇芹河野に行幸の時、ならびなき勝地なりとて此所をひらき給ひ、華台寺ならびに二尊教院と号せり。
夫より連綿として無双の霊場となる。其芳躅をしたひ、醍醐帝の皇子兼明親王此ほとりに山荘を営、雄蔵殿と称す。
其後星霜かさなりて中興法然上人閑居し給ひ、元久元年十一月七日一宗機範の式七ケ条の起請文を制せられ、自筆を染て判形をすゑらる。
いずれも円仁上人についての記述がない。竹村俊則の「新撰京都名所圖會 巻二」(白川書院 1959年刊)には、「この地はもと嵯峨天皇が慈覚大師に勅して創立せしめられた華台寺旧址とつたえ、久しく荒廃していたのを法然上人の高弟正信房湛空によって再興された。」としている。竹村が後に纏めた「昭和京都名所圖會 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)でも、ほぼ同じ記述となっている。
愛宕街道に面して二尊院の総門が建つ。切妻造本瓦葺の重厚な薬医門で角倉了以が伏見城より移したものという謂れがある。確かに桃山風の豪壮な雰囲気が伝わる建築になっている。総門を潜り境内に入ると、紅葉の馬場と呼ばれる幅の広い参道が現れる。小倉山を背にした伽藍配置ではあるが、この部分の引きがあることが大寺院の面影を感じさせる。馬場の左手には西行法師庵の跡の碑が建つ。昭和38年(1963)9月に二尊院保存会が建立している。弘源寺墓地に西行井戸があるように、保延6年(1140)に出家した後、二尊院門前近くに庵を結んだとされている。ただし「都名所図会」には西行法師の庵を「長のやしろの南にあり」としている。長のやしろは長明神の社のことで、二尊院大門前にあった檀林皇后を祀る祠とし、その図絵には総門よりかなり南側に描いている。
紅葉の馬場の先から緩やかな石段が始まる。正面には築地塀を南北に配している。そのため、紅葉の馬場から本堂を見ることはできない構成となっている。石段を登り切り、塀に沿って南側に廻り込むと唐門が現れる。緩やかな唐破風屋根を持つ唐門は永正18年(1521)の創建で1988年に再建されている。この門を潜り見返すと小倉山の扁額が掛けられているが、後柏原天皇の勅額である。正面には、応仁・文明の乱で焼失し永正7年(1510)に三條西実隆によって再建された本堂がある。御所の紫宸殿を模したとされる入母屋造、銅版葺の寝殿造風の本堂は、水平線の美しい優美な建築である。二尊院の扁額も後奈良天皇筆の勅額となっている。堂内中央に祀られている厨子の中には、本尊の釈迦・阿弥陀立像が安置されている。その傍らには法然上人足曳の御影と称する法然上人画像が掛けられている。これは承元の法難の際に別れを惜しんだ九条兼実が絵師の宅間法眼に描かせたものとされている。兼実の申し入れを法然上人が固辞したため、浴室に入り沐浴している上人の姿を簾越しに写したとされている。上人の一方の足先が出ていたが、法眼はそのまま忠実に描写した。後に兼実の屋敷を訪れ、この画を見せられた上人は驚き、足の出ている姿は平懐とし持念すると、この足は引かれ座ったお姿に替わったとされている。
広々とした本堂前の庭は、竜神遊行の庭と呼ばれている。昔、門前の池に棲んでいた竜女が、正信上人の感化により昇天したという故事に基づいている。この竜女伝説や法然上人足曳の御影については、黒川道祐による「近畿歴覧記」(新修 京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志(光彩社 1968年刊))の「嵯峨行程」に既に掲載されている。これは延宝8年(1680)の旅行を纏めたものである。そして、丁度100年後の安永9年(1780)に刊行された都名所図会に、さらに竹村俊則の「昭和京都名所圖會 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)にも記されている。なお庭の苔や白砂を囲むように円形に作られた垣は二尊院垣と呼ばれるもので、縦と横の竹に斜めに1本入っており、蛇腹をかたどったという。 本堂の南側には庫裏と書院が並ぶ。また書院の西には茶室の御園亭がある。後水尾天皇の第5皇女・賀子内親王の御化粧間であったものを元禄10年(1698)に下賜されている。一間の床の間に一間の違い棚を設けている。違い棚の天袋は狩野永徳の筆とされている。普段は非公開だが春と秋に特別公開が行われるらしい。
本堂の北側には弁財天堂があるが、これは上記の竜女を祀るものである。鐘楼の手前には二尊院の檀家である角倉了以翁像が建立されている。やはり大悲閣千光寺の木造と同様にツルハシを握り毅然とした表情の立像である。 二尊院の墓地は本堂の西側にある。湛空上人廟へは本堂背後の石段を上った小倉山の中腹にある。この湛空上人廟へ行く途中に伊藤仁斎、東崖父子及び伊藤家の墓地がある。伊藤仁斎は寛永4年(1627)京都に生まれている。江戸時代の前期に活躍した儒学者で思想家。寛文2年(1662)堀川に古義堂を開いている。仁斎は終生仕官せず、塾生は3000人を超えるとされている。寛文10年(1670)に長子の東崖が生まれているように、仁斎は40歳を超えてから結婚し、5男3女をもうけている。宝永2年(1705)に没した後、古義堂は東崖が継いでいる。号の東崖は、古義堂のあった堀川出水下るの堀川の東岸に因んだものである。東崖は元文元年(1736)に没している。
この湛空上人廟から南に続く道を進むと藤原定家の時雨亭跡とされる場所に出る。逆の北側に進むと、三条西実隆、公條、実枝そして嵯峨家廟がある。嵯峨家は明治になって改めた家名で、元は正親町三条家である。正親町三条の第28代が倒幕派公卿として有名な正親町三条実愛であり、第30代の嵯峨実勝の長女が嵯峨浩で、後に満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟・溥傑の妻となった流転の王妃でもある。なお、溥傑、浩そして天城山心中の慧生の遺骨は二尊院には納骨されていないようだ。
嵯峨家廟の先には角倉家墓地がある。四基の墓石が直線状に並んでいる。向かって左から了以とその妻、そして息子の素庵とその妻の墓である。了以と妻の墓は無縫塔の頂部だけを置いたようにも見える意匠である。妻のほうが小ぶりで括れ方が少ない形なっている。素案とその妻の墓は板状で頂部を円弧状に削っている。
角倉家の墓地を過ぎると門を閉ざした鷹司廟があり、さらに進むと土御門、後嵯峨、亀山三帝塔の説明板が現れる。左から宝篋印塔、五重塔、そして十三重塔と異なった意匠の墓が並ぶ。いずれも破損が激しい。二尊院の説明では宝篋印塔が第90代亀山天皇、五重塔は第83代土御門天皇、十三重塔は第88代後嵯峨天皇の塔としている。宮内庁のHP
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/
では、後嵯峨天皇と亀山天皇は天龍寺境内にある嵯峨南陵と亀山陵を陵墓としている。土御門天皇も長岡京市の金原陵を陵墓としている。土御門天皇と後嵯峨天皇は湛空上人が戒師を勤めたことによっている。ただし竹村俊則は「昭和京都名所圖會 洛西」(駸々堂出版 1983年刊)の中で、宝篋印塔は第105代後奈良天皇、十三重塔も第52代嵯峨天皇の塔としている。後奈良天皇は本堂の勅額、そして嵯峨天皇は二尊院の起源となった二尊教院の創健者という関係がある。 最後に往年の映画俳優・坂東妻三郎の墓。本名は田村傳吉なので田村家累代墓となっている。墓所は平成5年(1993)に田村高広によって整備されている。墓誌の最後に高広の名が見える。
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