アーカイブ:2014年 6月 21日
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その9 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
嵐山花灯路2009 落柿舎
貞和3年(1347)に夢窓疎石が裏書したことにより、「大井郷界畔絵図」は天龍寺と臨川寺が対立することなく、臨川寺領を維持できるようにその寺領を朱線で囲んで示したことが分かる。その寺領はかつての河端殿だけではなく、南は大堰川の右岸、西は法輪寺橋、北は造路、東は造路が分岐する先までと描かれている。つまり東南隅に臨川寺領、南西隅から北西隅に天龍寺領、そして東北隅から中心にかけてが釈迦堂領と大覚寺領という構成になっている。このように絵図に描かれている範囲が「亀山殿近辺指図… ►続きを読む
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その8 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
嵐山花灯路2009 常寂光寺
嵯峨野の町並み その6では、平安時代初期の嵯峨野の開発と嵯峨院などの建立の経過について、そして葛野郡、乙訓郡、紀伊郡、愛宕郡の4郡の条里プランについて考えてきた。さらに、嵯峨野の町並み その7では、「延喜式」より平安京の条坊地割を導き出し、上記4郡の条里プランの上に乗せてみた。また嵯峨野の6ヶ里の地割だけが西側に16度傾いていることを示し、その理由と変更時期について考えた。 この項では鎌倉時代初期から室町時代初期にかけての嵯峨野における条里プランと景観の変遷につ… ►続きを読む
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その7 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
嵐山花灯路2009 大沢池
長岡京から平安京に遷都が決まると、4郡の条里プランの上に新たな40丈=400尺単位の条坊が作られることとなった。平城京の条坊が180丈と大きかったのに対して平安京では40丈とかなり小さくなっている。この条坊の大きさ以外にも2つの都城には大きな違いがあった。平安京の条坊が40丈の宅地部分に大路・小路の道路幅を足し合わせる形で作られている。つまり28丈の幅を持つ朱雀大路の西側に40丈の宅地があり、その西側に4丈の西坊城小路が作られている。朱雀大路の中心から西坊城小路の… ►続きを読む
嵯峨野の町並み(さがのまちなみ)その6 2009年12月20日訪問 2009年12月20日訪問
大悲閣千光寺からの眺望
二尊院 時雨亭跡からの眺めは、残念ながら木々が密生しているためあまり良いものではなかった。恐らく展望台として整備していないためであろうが、そのような整備を行われずに今のままの姿であることを望む。
大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と双ヶ丘
大悲閣千光寺からの眺望 双ヶ丘
大悲閣千光寺からの眺望 比叡山と仁和寺
この日は大悲閣千光寺、大河内山荘、常寂光寺、そしてこの二尊院と、少しづつ北に移動しながら眺望を見比べる楽しみがあった。特に大河内山荘から常寂光寺… ►続きを読む
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