アーカイブ:2015年 9月 15日
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問
京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影
京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。
国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製
先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れ… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その3 2010年1月17日訪問
京都御苑 清水谷家の椋
京都御苑 清水谷家の椋 その2で記したように、北から公家門の支援に駆け付けたのは乾御門の守衛についていた薩摩兵であった。この模様は桑名藩の加太邦憲が「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。
此時南方三丁程離れて蛤門の戦争が始まりましたので、其砲撃が頻に聞えました。さうしますと公卿門前に居りました諸藩の兵が其音に驚いて皆崩れ立ち、北へ遁れて一橋兵を圧迫… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 清水谷家の椋 駒札
京都御苑 清水谷家の椋では、清水谷家がこの地に移った時期の推定と椋の木の位置に付いて考えてみた。清水谷家が賀陽宮邸跡から御所の築地南西角に引っ越してきたのは、およそ宝暦13年(1763)から明和6年(1769)の頃と考えた。元の邸宅の敷地に姉小路定子の准后御殿が造営されたための配置替えであったと思われる。この後、天明8年1月30日(1788)に団栗焼けとも呼ばれる天明の大火が発生している。鴨川東側の宮川町団栗辻子で発生した火災は鴨川を越えて河原町、木屋町を焼き、… ►続きを読む
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