大久保利通旧邸 その3
大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その3 2010年1月17日訪問
大久保利通旧邸 その2では大久保利通が小松帯刀より御花畑邸にあった茶室を譲り受けて、石薬師邸の南庭に移設したところまでを書いてきた。この項では、有待庵の謂れとともに小松の御花畑邸で締結されたとする薩長同盟について調べてみる。
前述のように大久保利武の「有待庵を繞る維新史談」(「尚友ブックレット9 重野安繹『西郷南洲逸話』、大久保利武『有待庵を繞る維新史談』」(芙蓉書房出版 2011年刊) 以後「維新史談」と記す)にも記されているように、貫道会が催された昭和17年(1942)頃には、大久保利通旧邸には「有待」という額の掛けられた茶室が存在していた。この「有待」の名の由来は、孫子兵書にある「敵の来たる無きを待つ勿れ、吾の待つ有るを恃め」としている。即ち、敵の来ないことを恃みにするのではなく、何時敵が来ても差し支えないだけの用意が必要であり、有待を恃みとするべきとあると大久保利通は考え名付けている。
「維新史談」の後半には、大久保利通が明治元年(1868)6月に邸宅を手放してから利武が入手するまでの経緯が綴られている。これに従うならば、利通は東京赴任にあたり家来某に邸宅を与えている。その後、京都御所に仕えた寺島という女官の手に渡り、40余年は隠居宅として使われている。そして邸宅が再び大久保家に譲り受けられたのは、利武が大阪府知事を務めていた大正3年(1914)のことであった。既に隠居していた女官は亡くなられていたから受け継ぐことが可能であったのであろう。利武は旧宅を入手してすぐに、西村天囚、内藤湖南、狩野直喜、三浦周行などを招いて小宴を催している。その場で西村天囚博士より茶室を有待庵と命名したらいかがかという話が持ち出され、一同の賛同を得ている。
翌大正4年(1915)には大正天皇御即位の御大典が京都御所で行われている。大久保利武は入洛した西園寺公望公を石薬師旧邸に迎え、有待の謂れを説明している。若くして国事に携わった西園寺ではあったが、当時は未だ若輩であったためか大久保の旧宅を訪れるのは初めてであったと述べている。公は利武の揮毫の願い出を快く受け入れているので、貫道会の際に茶室に掛けられていた扁額は西園寺の筆によるものであった。さらに西村天囚が利武に贈った「有待軒記」も扁額に仕立てられ隣の部屋に掲げられていた。
繰り返しになるが元々有待庵は大久保利通が石薬師邸に建てられた茶室ではなく、薩摩藩の重役・小松帯刀が近衛家から借りて住居していた近衛家御花畑の別邸にあったものとされている。最初に茶室が設けられた御花畑別邸については、歴史作家の桐野作人氏がさつま人国誌(http://373news.com/_bunka/jikokushi/index.php : リンク先が無くなりました )で「小松帯刀の京都邸御花畑」174(http://373news.com/_bunka/jikokushi/174.php : リンク先が無くなりました )と同175(http://373news.com/_bunka/jikokushi/175.php : リンク先が無くなりました )の2回に渡って書いている。その場所は烏丸上立売通の西北、室町頭町にあったと推定している。室町頭町とは南の上立売通と北の寺之内通に挟まれた室町通に面した東西町である。桐野氏は大久保利武の「維新史談」の中に記された下記の一文も小松帯刀の寓居の位置を推定する際の根拠の一つとしている。
実はこの大事件たる薩長連合の秘密談合にあの茶室が使用された事績縁故があるのであります。それには小松帯刀のことを申さなければなりませんが、小松という人は、薩摩では島津家の家柄の出で、外城の領主であり、豪い人物で、西郷等が夙に尊敬した藩の重役で、維新の際は藩の代表者として活躍した方であり、この薩長連合協議のため少し早目に京都に入り、相国寺の少し先、烏丸通に在ったと聞いて居ります近衛家御花畑の別邸を借り住居して居られます。近衛家は島津家とは御婚戚の関係もあり、こういう便宜も出来たので、この別邸に小松があの茶室を造ったものであります。
引用が長くなったが、御花畑別邸は相国寺の少し北の烏丸通に沿った地にあったと述べている。これは薩摩藩士・葛城彦一の日記にある「室町頭近衛様御花畠御屋しき」の記述ともほぼ一致する。なお2008年に上京区一条堀川東入ル南側の松之下町に「小松帯刀寓居参考地」の碑が建立された。この地には近衛堀川屋敷が存在していたようだ。中村武生氏はこの屋敷内に御花畑があり、ここが小松帯刀の寓居した近衛家御花畑邸の有力候補地と考えたのであろう。しかし上記の桐野作人氏の説が有力となり、20015年8月に石碑を撤去している。
さらに紛らわしいことに、同志社大学新町キャンパス(新町通今出川上ル)内にも近衛家旧邸址の石碑が存在する。京都御苑 近衛邸跡でも既に書いたように、この碑は近衛家の末裔である近衛文麿が建立したものである。この地には有名な糸桜があったことから、近衛殿桜御所と呼ばれていた。しかし天正年間(1573~92)に行われた公家町整備により近衛家は御所の西北に移転している。その後、近衛家の本邸は御所西北の地に定められたが、この桜御所も近衛家が継続して所有していたようだ。慶応4年(1868)成立の大成京細見繪圖にも「サクラノ御所」とあるので、この地は幕末まで継承されている。このことが小松帯刀寓居の御花畑別邸と混同されることにもなっている。「京都坊目志」(「新修 京都叢書第14巻 京都坊目誌上京乾」(光彩社 1968年刊))には「維新後畠地たりしが明治28年以来工業会社の工場となる。」とあることから、近衛家が東京に移住していった後に廃絶したと考えるのが妥当であろう。
「松菊木戸公伝」(マツノ書店 1996年刊)によれば、京阪の形勢視察という藩命を受けた桂小五郎は、慶応元年(1865)12月26日に山口を立ち、三好軍太郎、品川弥二郎、早川渡そして土佐藩士の田中顕助を従え、薩摩藩士の黒田了介と共に三田尻から船で播磨を経由し、慶応2年(1866)正月4日に大阪に到着している。そして8日に伏見薩摩藩邸を経由して、その日の内に京都二本松の薩摩藩邸に入っている。もともと薩摩藩邸は東洞門通錦小路、すなわち現在の大丸京都店の地にあったが、手狭となったため文久2年(1862)に相国寺門前の二本松に藩邸を設けている。文久3年(1863)10月、薩英戦争及び八月十八日の政変後となる島津久光の上洛以降は、この藩邸が主に用いられている。敷地は5805坪と広大で9棟の建物と多くの土蔵が建ち並ぶ大規模な藩邸となった。
伏見藩邸で桂等を迎えた西郷吉之助と村田新八等も同行し、二本松藩邸の小松帯刀、大久保一蔵、桂久武等と共に桂小五郎等を応接した。「松菊木戸公伝」によれば、桂小五郎は正月14日に「帯刀の宅」に於いて桂久武と、そして18日には島津伊勢、桂久武、西郷、大久保そして吉井幸輔、奈良原五郎と会合を行っている。「松菊木戸公伝」の編纂主任であった妻木忠太は薩長同盟の締結を正月20日とし、その日の夜に木戸のための別宴が御花畑の小松邸で催されたとしている。当日のことは桂武久日記(「鹿児島県史料集26 桂久武日記」(鹿児島県立図書館 1986年刊))にも見られる。
正月廿日 曇天
略
一此晩長の木戸別杯致度候間、可参小松家ヨリ承候得共、不気色放相断候、尤大久保氏ニて西郷江逢候付相頼置候成
別宴が正月20日に「小松家」で予定されたが、桂武久は体調不良ということで出席できなかった模様である。そのため武久が欠席したこの別宴が、本当に20日に行われたかは明らかではない。桐野氏はこの別宴を、交渉が進捗しない状況にしびれを切らした桂小五郎が会談打ち切って山口に戻ることを宣言したために予定されたとしている。坂本龍馬が20日に到着し薩長の仲介の労をとったことにより漸く同盟についての話し合いが開始する。そのように考えると、20日の決裂の別宴は行われず同盟締結後に宴が開かれたのかもしれない。
また桂に同行していた品川弥二郎に中原邦平が後年になって聞き取った「品川弥二郎述懐談」によれば以下の通りである。
桂一行が京都についたのは慶応二年の正月八日で、直ぐに相国寺の近辺にあった西郷氏の邸宅に入つたのです。そこで木戸は始めて西郷に面会したのでありますが、その時木戸は頗ぶる
詳細に薩長の経緯を述べ、長州の考へは、斯くくかやうであつて、一にも二にも朝廷へ対し奉つて勤皇の大義を展べようと致したのであるが、不幸にしてその意志が通ぜず、遂に朝敵の汚名を蒙むつたのは、まことに残念の至りであつたと、従来の行掛りを詳しく述べ、面と向つて随分薩州の嫌味を述べたさうです。
三四日西郷の邸に滞在して、我々は近衛公の小松別荘に移つたのであるが、四日経つても、五日経つても、大事な連合の話については、ついぞ口を切らない。薩摩側では、毎日のやうに御馳走をするばかり、こちらではそれを食べるばかりといふ始末である。
上記の述懐は「大西郷全集 第三巻」(大西郷全集刊行会 1927年刊)に「【三】木戸・西郷の会盟(二)」として掲載され、「坂本竜馬全集 増補4訂版」(光風社出版 1988年刊)にも「五一 品川弥二郎述懐談(木戸、西郷の会盟)」として引用されている。この品川の述懐より二本松の藩邸に入った桂等は、先ず相国寺の近辺にあった西郷の邸宅に場所を移し会談を始めたことが分かる。西郷隆盛の京における寓居としては錦小路藩邸の近くにあった鍵直旅館が有名であるが、ここには現在のところ石碑も駒札も設けられていない。相国寺からかなり離れているので、この時の会談は違う場所で行われたのであろう。
桐野作人氏の「さつま人国誌 幕末・明治編」(南日本新聞社 2009年刊)は上記の南日本新聞に掲載されたコラムの内2007年4月7日から翌年の9月6日までの53回分の記事を加筆修正したものである。南日本新聞社のHP上にあるさつま人国誌(http://373news.com/_bunka/jikokushi/index.php : リンク先が無くなりました )は2008年4月5日より前の51回分が掲載されていないので、この書籍に頼るしかない。この書の中で桐野氏は、小松の御花畑邸、大久保の石薬師邸とともに西郷の寓居についても調べている。先ずは西郷が石薬師中筋の中熊という料亭の2階を間借りしていたこと、それから相国寺東の塔之段に二階建ての建物を借りていたことの2つの説を取り上げている。前者は大久保利武が地元の古老・西村安兵衛から聞いた話であり、後者は「元帥公爵大山巌」に大山の回想として記されているようだ。桐野氏は、最初石薬師中筋に間借りした後、塔之段の一軒屋に移ったと考え、その時期は大久保が石薬師邸に住み着いた頃と推定している。つまり品川の回想に出てくる西郷邸とは塔之段の住宅であったと考えられる。 その後、西郷邸から小松邸に場所を変えたのは、桐野氏も指摘しているように家老である小松邸の方が広かったから、桂等を接待するのに適していたのであろう。
薩長同盟の仲立ち役を果たしたとされる坂本龍馬は、正月10日に三吉慎蔵と下関から京に向かうために乗船している。16日に神戸、18日に大阪薩摩藩邸さらに19日には伏見寺田屋に入り。正月20日にやっと二本松の薩摩藩邸に到着している。同盟締結に難航しているのを目にした龍馬は双方に対して譲歩を求め、諸説あるものの慶応2年(1866)正月21日あるいは22日には合意に至っている。大久保が帰国のため京を離れたのが正月21日なので、同盟締結21日説の方が有力のように思われる。22日には桂小五郎等の送別の会が行われ、その翌日23日に龍馬は三吉慎蔵とともに伏見の寺田屋に戻っている。そして寺田屋事件が発生するのは24日の未明である。龍馬等は薩摩藩の支援によって最大の危機を脱している。もしこの事件で坂本龍馬が命を落としていたら、正月23日に桂小五郎が記した所謂、薩長同盟覚書(「木戸孝允文書 巻六」の二 坂本龍馬宛書翰(「日本史籍協会叢書 木戸孝允文書 二」(東京大学出版会 1930年発行 1985年復刻)))に対して「毛も相違無之候」と裏書することもできなかっただろう。
以上が小松帯刀の寓居した御花畑邸で薩長同盟の会合が行われたとする所以であり、同邸にあった茶室が会合に用いられたとも考えられている。ところで、桐野氏も指摘しているように小松帯刀が御花畑邸に住居するようになったのは、いつの時期であったのだろうか?元治元年(1864)まで、小松は二本松藩邸に居住していたことより、慶応元年(1865)頃に移ったのではないかと推測している。ここから薩長同盟が締結されるまでの1年間に御花畑邸内に茶室が設けられたと考えるのが適切であろう。
(追記:2016/08/16)
既に一般紙でも報道(http://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20160610000143/print : リンク先が無くなりました )されているとおり、近衛家御花畑邸について新たな資料が見つかりましたので追記いたします。歴史研究家の原田良子氏が、薩長同盟締結の地とされる御花畑邸の場所を特定できる明治初期の行政文書を発見しました。この文書には「北間口四拾八間六寸、西奥行三拾三間三寸」と記され、総坪数1796坪で瓦平家建、瓦住居二階建、土蔵、瓦平家長屋など邸内の様子をも伺えるものです。さらに、この近衛家の別邸が、北を鞍馬口通そして西を室町通に面していたとする記述より、御花畑邸が上京区森之木町にあったと特定している。室町頭町あたりに存在したとする従来の説より更に400メートル以上北に上ることになる。これにより小松帯刀が寓居し薩長同盟が締結された地は、薩摩藩邸があった同志社キャンパスに近い室町頭町ではなく、それよりも北側に離れた鞍馬口通室町東入ル小山町であったことになる。その場所は、地下鉄の鞍馬口駅で下車、現在のザ・ダイソー 鞍楽ハウディ店を西に入った南側ということになる。現在でこそ交通の便も良く人家の密集する場所であるが、小山町自体は中世には近郊の小山郷の中にあったとされている。鞍馬街道入口にあったため早くから町場化したものの、京の中心からはかなり外れた印象を受ける。恐らく幕府の監視を避ける目的で、薩摩藩が近衛家より別邸を借り受けて使用していたと推測される。丁度、鹿児島県歴史資料センター黎明館で開催されている「幕末薩摩外交-情報収集の担い手たち-」で初公開された「近衛家別邸御花畑絵図」にも森之木町の記述があることから、ほぼ同時期に見つかった2つの資料が一致している。
上記の文書に描かれた敷地図は、北側間口が四拾八間六寸つまり凡そ90メートルに対し南側は70間以上もあったことを示している。御花畑邸は整形なものではなく旗竿状であったことが分かる。この敷地の西側が室町通に接していたとすると、東側は現在の烏丸通を超えてしまう。しかし明治25年(1892)成立の地図・京都を見れば分かるように当時の烏丸通は上立売通あたりまでしかなかった。御花畑邸が現在の烏丸通を跨いでいても問題がなかったことは、2016年7月29日の京都新聞で中村武生氏が説明している。記事にもあるように烏丸通が北に延長されたのが大正天皇の大典以後であったので、当時の正確な地名は「鞍馬口通室町東入ル小山町」となるのであろう。この敷地を現在の町名で表記すると上京区小山町、森之木町そして上御霊中町となる。
この新たな発見を受け、近衛家の御花畑邸の場所を追い求めてきた桐野作人氏もさつま人国誌(http://373news.com/_bunka/jikokushi/index.php : リンク先が無くなりました )に「近衛家別邸「御花畑」の所在地」(421(http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=7809 : リンク先が無くなりました ))と(422(http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=7811 : リンク先が無くなりました ))の2回にわたって紹介している。
「大久保利通旧邸 その3」 の地図
大久保利通旧邸 その3 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 大久保利通邸跡 | 35.0275 | 135.7681 | |
小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 小山町 | 35.0374 | 135.7587 | |
01 | ▼ 薩摩藩邸跡 | 35.03 | 135.7595 |
02 | ▼ 小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 室町頭町 | 35.0326 | 135.7578 |
03 | ▼ 西郷隆盛寓居 石薬師中筋 中熊 | 35.0275 | 135.7685 |
04 | 西郷隆盛寓居 塔之段 | 35.0305 | 135.7652 |
05 | ▼ 京都御苑 近衛邸址 今出川本邸 | 35.0282 | 135.7617 |
06 | ▼ 近衛殿桜御所 | 35.0312 | 135.7551 |
07 | ▼ 近衛基煕別邸 堀川屋敷 | 35.026 | 135.7523 |
08 | ▼ 小松帯刀寓居参考地・近衛家堀川邸跡他 | 35.0261 | 135.7525 |
09 | 近衛家煕別邸 河原邸 | 35.0159 | 135.7707 |
10 | 近衛忠煕別邸 桜木御殿 | 35.018 | 135.7734 |
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