アーカイブ:2015年
京都御苑 中立売御門
京都御苑 中立売御門(きょうとぎょえん なかだちうりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 中立売御門 京都御苑 凝華洞跡 その5では朝議が長州藩討伐に決するまでの過程と甲子戦争の開戦となった福原越後軍の伏見街道での交戦状況を見てきた。福原軍は長州藩正規兵が主力であるため、開戦前から戦闘能力に疑問が持たれていた。そのため天龍寺に駐屯していた太田市之進、松本鼎三、阿武彦助等を急遽福原軍の梃入れとして加えている。その不安は見事に的中し、伏見から進撃を始めた福原軍はついに洛中に入ることもできずに包囲され消耗し、そして京外に追い落とされている。主将の福原越後は緒戦で狙撃に遭い、伏見へ下が… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その5
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 2014年10月8日撮影 京都御苑 凝華洞跡 その4では甲子戦争前夜の薩摩藩の動向について見て来た。既に薩摩にとって幕府の存在は無きも同然であり、朝廷を守護することこそが大義であり行動原則でもあった。このあたりが幕府と対立構造の上に存在意義を求めた長州藩とは思考自体が異なっていたと云ってもよいだろう。この項では朝議が長州藩討伐に決する過程から甲子戦争の開戦となった福原越後軍の交戦状況までを見ていく。 「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 19… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その4
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 建礼門側からの眺め 京都御苑 凝華洞跡 その3では元治元年(1864)7月17日までの緊迫した状況を書いてきた。この項では薩摩藩の動向について見て行く。 朝廷内の動きは既に書いてきたように、長州藩を同情する者、あるいは武力衝突回避を望む者が下級公家を中心に増えてきた。これに対して諸藩はどのように捉えていただろうか?まず京都守護職の会津藩と京都所司代の桑名藩は長州藩討伐すべしとの強硬論派であった。これは八月十八日以降の政治情勢を継続し、なおかつ京都の治安を維持する役割を担っている… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その3
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡の駒札 京都御苑 凝華洞跡 その2では元治元年(1864)春から福原、国司、益田三家老の出陣までを書いてきた。この項では甲子戦争の開戦に至る経緯を見ていく。 長州藩の世論が進発へ傾いて行ったことについて、元よりの賛成派であった来嶋又兵衛や池田屋事件といった突発的な衝突を除けば、京都で政情を観てきた久坂玄瑞の意見陳述が最終段階での後押しとなったと云ってもよいだろう。もともと長州藩は根来上総や井原主計の雪冤運動と共に、世子が率兵して上京するという2つの方向で、朝廷政治においての自らの… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その2
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 京都御苑 凝華洞跡では、文久3年(1863)の八月十八日の政変以降の政治体制の変化と長州藩の活動、特に雪冤運動について見て行った。時間軸では文久3年8月から元治元年(1864)3月頃までの8か月間に当たる。この項では甲子戦争に至る残りの4か月間の動きについて書いて行く。ほとんど凝華洞跡とは関係のないことであるが、ここで記しておかないと次の甲子戦争に繋がって行かないので、もう少しお付き合いをお願いいたします。 奉勅始末記を朝廷に奉ったものの入京を拒絶された井原主計は、朝廷からの帰… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 京都御苑 猿ヶ辻から京都御苑 堺町御門 その5までを使い文久2年(1862)後半から文久3年(1863)の八月十八日の政変までを見てきた。政変直前には、急進派公家が尊攘派浪士の勢いを借り朝廷政治を自らの望むように動かすことができる体制をほぼ完成さていた。原口清氏は「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)所収)で、孝明天皇こそが八月十八日の政変で最も重要な役割を果たしたとしている。急進派公家の勢いを止める… ►続きを読む
京都御苑 堺町御門 その5
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その5 京都御苑 堺町御門 内裏圖1889年製 より国際日本文化研究センター 京都御苑 堺町御門 その3では、文久2年(1862)12月9日に制定された国事御用掛と翌文久3年(1863)2月13日の国事参政と国事寄人の顔ぶれを見ながら、急進派の躍進を記してきた。また、京都御苑 堺町御門 その4で、急進派の主張する西国鎮撫使と御親征に対する公武一和派及び穏健派の対応について見てきた。そして8月13日から始まる八月十八日の政変の準備状況と共に、この政変を企画した人物についていくつかの論文を参照しながら考えてみた。ここでは8月13日から… ►続きを読む
京都御苑 堺町御門 その4
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 葵祭 2008年5月15日撮影 京都御苑 堺町御門 その2でも触れたように、真木和泉の入京が6月8日で、同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。そして6月末頃から天皇の攘夷親征を望む声が高まって行き、7月初旬には朝廷内で攘夷親征論が三条実美等の急進派公家によって唱えられている。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)によると、真木は6月29日に学習院出仕を命じられ、同日に「五事献策」を国事参政・豊岡随資に提出している… ►続きを読む
京都御苑 堺町御門 その3
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門から堺町通を眺める 京都御苑 猿ヶ辻から その2、その3 そして その4までを使い、文久3年(1853)5月20日に発生した姉小路暗殺事件とその捜査の推移について書いてきた。この事件を理解する上で、攘夷決行期日に設定されていた5月10日から僅かの日の内に発生したということを忘れてはならないだろう。この暗殺事件の原因を長州藩の攘夷に求めることはできなくても、事件の推移は当時の政局を有利に運ぼうとする勢力に、大いに利用されたことは確かである。実行犯の一人と目されている田中雄平は、捕縛… ►続きを読む
京都御苑 堺町御門 その2
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門の駒札 京都御苑 堺町御門では、姉小路卿殺害から文久3年6月末までの薩摩藩の情勢と中川宮の窮状について見てきた。この後に発生する八月十八日の政変まで推移をこの項で書いて行く。 姉小路暗殺に続く急進派の攻勢は単に暗殺犯の究明に留まらず、即今破約・攘夷実施に繋がって行った。この暗殺事件より10日前の文久3年(1863)5月10日は攘夷実行期日であり、長州藩が馬関海峡を封鎖し、通過する艦船に砲撃を実施している。また、同7月2日から4日にかけては生麦事件についての薩英間の交渉が決裂し鹿児… ►続きを読む
京都御苑 堺町御門
京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 堺町御門はかつての公家町を守る九門のひとつで、現在の京都御苑の南側、丸太町通に面して設けられた門である。寺町通と烏丸通の中間に位置する南北路、堺町通の突き当りに御門がある。葵祭や時代祭が御苑から出発する際に潜って行く門としても有名だが、地図で確認すると御所の建礼門の軸線上には御門はない。そのため祭りの隊列は九条池の手前で東に折れて堺町御門に至る。 幕末に於いては、現在のように御苑の入口ではなく西の九条家と東の鷹司家の間を分ける道の中間にあった。 世の中は欲と忠との堺町 東はあ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻 その4
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御苑 猿ヶ辻 その3の最後で触れたように、6月11日に薩摩藩士の九門出入が自由となっている。町田明広氏は「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)で、薩摩藩の姉小路暗殺に関する嫌疑が冤罪として氷解したためとしている。その理由として、侍従・滋野井公寿と大夫・西四辻公業が姉小路暗殺に関与していたことを上げている。 滋野井は羽林家廷臣で天保14年(1843)、西四辻も羽林家廷臣の天保9年(1838)生まれで、2人とも即今破約攘夷派の若い廷臣である。広沢安任の「鞅掌録」(… ►続きを読む
設定変更について その4
設定変更について その4 2015年6月19日登録 FileMaker PhotoDBの操作画面 設定変更について その3では、写真の撮影方法からフィルムのデジタル化で終わってしまいました。ここではデジタル化された画像ファイルの管理方法について書いてみたいと思います。 写真を撮影するのは楽しいけれど、これを整理しなければならいと考えると、急に気が重くなるのは私だけでしょうか?撮影が終わったら、なるべく早くフラッシュ・メモリーからPCのハードディスクに複写します。フラッシュ・メモリーが破損したら、撮影したものが全て失われるからです。PCのハードディスクは多重にバックアップを設定しているの… ►続きを読む
設定変更について その3
設定変更について その3 2015年6月19日登録 Nikon F4 + COOLSCAN Ⅴ ED 設定変更についてでは、先ず徘徊の記憶のフォーマット変更のために行ったCSSファイルの編集について書きました。また今まで訪問した場所の写真を整理し、それを告知するための徘徊の蔵書棚を開設しました。また徘徊の蔵書棚では、写真を掲載したブログのリストを付けました。関連する項目の検索にも役に立つと思います。今回の変更で、なるべく早く撮影済みの写真をDBに登録し、撮影場所のタグを付けるように改めました。今まではブログに掲載する際に、かなり時間の経過した写真に撮影場所のタグを付けてきました。当然… ►続きを読む
設定変更について その2
設定変更について その2 2015年6月17日登録 徘徊の記憶 掲載写真を大きくした 設定変更についてで書きましたように、徘徊の記憶のデザイン変更と新たな徘徊の蔵書棚の立ち上げまでは比較的容易に終了しました。しかしウェブリブログの提供するImport機能が、単にエントリーを追加するものであり、既に存在するエントリーの上書きを行うことができないことが明らかになりました。そこで徘徊の記憶の表示領域の拡張に伴う掲載写真や地図の横幅変更は、一つ一つ手作業で行わなければなりませんでした。2015年6月現在で、695エントリーがありましたので、全部修正するのにおよそ2週間かかりました。 今回の設定… ►続きを読む
設定変更について
設定変更について 2015年6月17日登録 徘徊の備忘録 TopPage 2015年3月から3ヶ月間、本ブログの表示設定等について調整を行ってきましたが、ここに一応の完了を迎えましたので報告させていただきます。今回の調整作業を行う発端はブログの更新作業が大幅に遅れ始めていることにあります。京都御苑 猿ヶ辻 その3は、2015年3月に書いたものですが、元々は2010年1月17日に京都御苑を訪れた際に撮影した写真をもとに、記憶を辿りながら綴っております。既にブログへの更新が訪問から5年以上も隔たってしまいました。本ブログの右上に「地図上への表示」という訪問した場所を地図上に表示する機能があ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻 その3
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御苑 猿ヶ辻とその2に続き、襲撃犯が田中雄平に決する過程と薩摩藩に下された処罰、そして八月十八日の政変へと続く薩摩藩による復権活動について見て行く。 長州及び土佐の武市派は、この猿ヶ辻の変を上手く利用し京都における薩摩の勢いを削ぐ事に成功した。その本当の襲撃犯が田中雄平であっても又はなくても、朝廷における薩摩の信頼を大いに損なわせることに成功したからである。その後の経緯については「七年史」が詳しい。5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻 その2
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御苑 猿ヶ辻に続き、文久3年(1863)5月20日にこの付近で起きた暗殺事件の顛末を見てゆく。 姉小路公知襲撃の翌日の「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように、九門警備が強化されたことが記されている。 清和門院 土州 堺町門 長州蛤門 水戸 寺町門 肥後乾門 薩州 下立売門 仙台今出川門 備前 中立売門 因州石薬師門 阿州昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻 京都御所の建春門前にある学習院跡から苑路に沿って北に進むと、京都迎賓館の入口脇に橋本邸跡の木標が建つ。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると御所東側の公家町に南北通が3本存在したことが分かる。つまり御所の外周と現在の寺町通との間には西側から中筋、二階通、梨木通があった。さらに中筋と御所との間には北側から、野々宮と清閑寺、姉小路、持明院、日野西、橋本、七条、修学所、白川、正親町の邸宅が並ぶ。京都御所 その5で少し触… ►続きを読む
京都御苑 学習院跡
京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 学習院跡 京都御所の建春門(日御門)の東側に学習院跡の木標が建っている。江戸時代末期に公家の子弟のための教育機関として開設された学習院学問所がかつてこの地にあったことを示している。7世紀後半の律令制のもとに大学寮が作られたている。しかし治承元年(1177)の安元の大火(太郎焼)で焼失すると以降再建されることは無かった。江戸時代後期に閑院宮出身の光格天皇が即位すると、朝廷の儀式の復旧に取り組み石清水社や賀茂社の臨時祭の復活を果たしている。さらに天皇は平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の… ►続きを読む