梨木神社 その2
梨木神社(なしのきじんじゃ)その2 2010年1月17日訪問
大久保利通旧邸でも少し触れたが、昨年末に今まで撮影してきた全ての画像データとブログを書くために参考にした文献のスキャニングデータを格納していた外付ハードディスクが破損してしまった。幸いバックアップを取ってあったため、かなりの時間を要したもののほぼデータを復元することができた。年末にそんな不幸があった上、年が明けた1月にはPCの起動ディスクに不具合が生じ、PCを起動させることもできなくなった。僅か2か月間の間に二度もハードディスクを壊してしまうという事態に陥り、どうも今年の運勢の良くない現われかとも考えてしまった。もともとリカバリディスクが付属していないPCを購入したにも拘らずディスクの作成を行わないで来たため、リカバリディスクの購入から始めなければならなかった。これに1週間近くを消費し、さらに内蔵ハードディスクの入れ換え、Windows7の再インストールからアップデート、そして各種アプリケーションソフトのインストールから設定変更までを行うのに2週間もかかってしまった。未だインストールしていないアプリケーションソフトもいくつかあるものの、一応このブログをアップできるところまでは回復できました。
また、この冬は「京の冬の旅」が50回記念で、今まで訪れたことのない非公開寺院が多く公開されます。そのため是非3月の初旬に京都を訪れるべく準備も行ってきました。このことが年明けからPCを壊すまで、なかなかブログのアップができなかった理由でもありました。
2015年の秋に、「京の冬の旅」のための京都訪問を一度検討したものの、休みが取れない等の理由から断念しましたが、やはり今回を外すと何時訪問できるか分からない個所も含まれているので、多少の無理は承知で3月に京都を訪れることにしました。毎回、盛り沢山なスケジュールを組むため準備に多大な時間を費やし、ブログのアップが疎かになってきました。今回は最小限の準備での訪問を心掛けてきましたが、やはり訪問前にブログのアップが停止しましたことをお詫びいたします。
石薬師御門から御苑の外に出て50mも歩くと大久保利通旧邸の碑に辿り着く。ここより再び寺町通に戻り南に下り、本禅寺、清浄華院そして盧山寺を過ぎ、京都府立医科大学まで来ると、清和院御門と梨木神社の一の鳥居が現れる。 梨木神社への訪問は、2008年以来2度目となる。前回の訪問の際に、梨木神社の創建と御祭神である三条実萬と実美父子の経歴、そして現在の梨木神社の所在地が京都御苑に接する梨木通の東側であり、かつての三条邸とは異なることを記してきた。また、京都御苑 賀陽宮邸跡あたりから京都御苑 近衛邸跡 その5にかけて、堀田正睦による条約勅許の交渉から安政の大獄について長々と述べてきた。この中でも三条実萬は孝明天皇の意向を実現するため、朝廷側の難しい交渉役を果たしてきたことがよく分かる。そういうことで、今回は梨木神社の二柱の御祭神の内で三条実萬と将軍継嗣問題について書いてみたい。
三条家の史料としては日本史籍協会叢書に「三條家文書」(東京大学出版会 1916年発行 1972年覆刻)と「三条実万手録」(東京大学出版会 1926年発行 1972年覆刻)がある。前者は三条父子の日記、備忘録、草案、公文そして私翰をまとめたもので700頁を超える史料となっている。この中には安政2年(1855)6月から翌安政3年(1856)年2月頃までの「公武御用備忘」が残されている。前年の嘉永7年(1854)4月6日に内裏が炎上したため安政度内裏の新造についての記述が多い。 また安政の大獄の始まりとなったとされる飯泉喜内の「祈のひとこと」も掲載されている。喜内は元々京都の人で、中年になってから江戸に下り浅草蔵前の豪商の手代となっている。商いのかたわら良く読書を行い、広く当時の名家と交わることが多かったとされている。後に旗本曽我権右衛門の抱医師飯泉春堂に自らの娘を娶らせ、自らも飯泉姓を名乗るようになった。嘉永6年(1853)の米艦隊襲来の際には堂上家の家臣と懇意を結び、三条家の家臣に加わっている。安政元年(1854)6月21日の筆とされる幕府の失政を問いただす「祈のひとこと」を実萬に呈上している。江戸に戻った後も江戸の情勢を京に伝える一方、江戸の同志の連絡役を果たしている。幕府の嫌疑を受け、そのため安政5年(1858)9月17日、江戸にて捕縛されている。これは山本貞一郎の兄の近藤茂左衛門が9月5日に大津宿で、梅田雲浜も9月5日、7日、8日あるいは9日の何れかの日に京の自邸で逮捕されたと考えられていることからも、大獄の開始前から喜内は目を付けられていたことが分かる。そして自宅からは多数の関係書類が押収されたことにより反井伊派の謀議の全容が明らかになっている。よってこの後の大獄は飯泉喜内初筆一件と呼ばれるようになった。 翌安政6年(1859)10月7日に判決が下り死罪が申し渡され、即日処刑されている。「維新史料叢書 野史台 雑7」(東京大学出版会 1975年刊)に所収されている「安政義獄」には刑に処せられた人々の罪状が記されている。喜内の文面には多くの同志の名前が現われていることからも彼が江戸における連絡係であり、井伊派にとっては梁川星巌、梅田雲浜と同様の悪の問屋=悪の根源であったと見なされていたことが伝わる。そして喜内が三条家に家臣として出入りしていたという事実が実萬の処罰に大きな影響を与えたとも考えられる。
「三條家文書」には、上記のような飯泉喜内以外にも冨田織部や丹羽正庸などの家臣等の書も掲載されているが、特筆すべきは三条実萬自身が綴った「忠成公御幽居日記」が収められていることであろう。この日記は安政6年(1859)正月より始まり同年9月21日まで続く。日記の題名からも分かるように幕府の嫌疑を受け山城国久世郡上津屋村、そして愛宕郡一乗村に幽居した時の事々を記したものである。
なお「三條家文書」の解題によると、大正5年(1916)に刊行された文書は第一であり続編の発刊が意図されていたようだ。確かに諸言でも、「今公爵三條家ニ請ヒ其一部ヲ印刷ヲ以テ謄写ニ代ヘ会員ニ頒ツ猶謄写校訂ノ完成ヲ俟テ続編ヲ刊行配布セントス」とあるものの、続編が刊行された形跡はない。日本史籍協会叢書に所収されているもう一つの史料「三条実万手録」は大正14年(1925)に第一、さらに同15年(1926)に第二巻が発刊されている。これらは「三條家文書」と同じく三条元公爵家所蔵とされている。10年の年月を経て異なった編者によって刊行された2つの史料について、「三條家文書」の解題は「三条実万手録」の第二巻に所収されている「三条実万意見書」「三条家文書抄録」「富田織部東行雑記」などが「三條家文書」の第二巻であったのではないかと推測している。
上記の三文書以外の「三条実万手録」は、その諸言にも書かれているように元々は「原名忠成公手録書類写」と呼ばれる文書であった。その巻頭には忠成公年譜稿があるが、ここからは実萬の政治活動を読み取ることはできない。例えば最晩年の安政5年(1858)から同6年の記述は下記の通りである。
五年戊午
公年五十七 白馬内弁 三月廿一日辞 両官御監
十二月廿三日移上津谷村
六年己未
公年五十八
五月三日落餝号澹空十月五日叙従一位六日薨号後暁雲院
三月廿七日移一乗寺邨
白馬内弁とは、正月7日に天皇が紫宸殿に出御して邪気を祓うとされる白馬を庭にひき出し群臣らと宴を催す白馬節会で、承明門の内で諸事を司るのが役割を果たしたという意味である。三條実萬が内大臣であったのが安政5年3月21日までであるから、内大臣として内弁を務めていたことが分かる。
安政5年初頭における政局は、京都御苑 九條邸跡 その2あたりから その5にかけてを使い書いてきたように、堀田正睦の上洛による条約奏請問題から始まったが、交渉の終盤になって将軍世子問題が現われてくる。この将軍継嗣については阿部正弘が老中職にあった頃より既に存在している。ここでは将軍継嗣問題の端緒を探り、その推移を見て行きたいと思う。 「徳川慶喜公伝 一」(東洋文庫 1967年刊)によれば、嘉永6年(1853)8月12日に慶喜が父である徳川斉昭に送った書に、世上では自分を御儲君に推す声があるようだが、「父君御登営の節、若し聞き及ばるゝ廉あらば、必ず制止し給はるべし」と強く辞退している。また同書では、同年7月22日に徳川家慶の喪が発せられた際に、営中で松平春嶽と島津斉彬が会見し慶喜推挙の周旋を行うことを約し、さらに翌月には老中の阿部正弘の同意を得たとしている。これは「昨夢紀事」(日本史籍協会叢書「昨夢紀事 一」(東京大学出版会 1920年刊行 1968年覆刻))よりの引用(癸丑七月廿二日建儲思召立薩候へ御密議)だと思われるが、「照国公文書」(島津家臨時編輯所 1910年刊)に所収されている「照国公年譜略」すなわち島津斉彬の年譜によれば、嘉永6年5月2日に江戸を発ち、6月22日に鹿児島に帰っている。つまり斉彬は米国艦隊が浦賀に来航した報を国許で聞いている。そして安政元年(1854)正月21日に鹿児島を発し、京都を経由して3月6日に江戸に入るまでの半年間は鹿児島に留まっていた。当然のことながら営中で松平春嶽との密談を行うことはできないので、「昨夢紀事」の誤りだと思われる。恐らく斉彬が帰国する以前の嘉永6年前半、あるいは江戸に戻る安政元年の初頭には既に意を通じ合っていたと思われる。 嘉永6年(1853)6月3日のペリー来航と合わせるように、同月23日に第12代将軍徳川家慶が薨去している。さらに8月16日には将軍家定の末弟長吉郎が病死している。長吉郎は家定に万一のことが生じた際の世子と目されていたが、その可能性が失われたことにより、急遽将軍家定の婚姻話が浮上することとなった。
内憂外患は合わせて訪れると謂ったのは徳富蘇峰であった。錯綜した事態を解決するためには、統率力の持つ新たなる人物の登場が必要だと誰もが思わざるを得なかった。その中で親藩の春嶽と外様の斉彬が、老中であった阿部正弘を陣営に引き込み一橋派を作り上げ継嗣問題に着手したのは、米国艦隊が浦賀に来航し国内の緊張感が一気に高まった頃と考えられる。
安政3年(1855)11月、後に天璋院となる篤姫が近衛忠煕の養女となり、第13代将軍徳川家定の正室となっている。この婚儀は徳川慶喜の西城入り、すなわち慶喜が世子となることを夫人から将軍に説くための政略と一般には謂われているが、継嗣問題とどちらが後か先かは判別が難しい。既に嘉永6年(1853)8月に鹿児島を出発し、大阪京都に立ち寄り近衛家を訪問した後の10月23日に、篤姫は芝三田にある薩摩藩江戸藩邸に入っている。阿部正弘を介して入輿の儀が進められてきた。しかし安政元年4月の皇居炎上、翌2年も11月の安政大地震すなわち4日の安政東海地震と5日の安政南海地震の二大地震に見舞われ、日本国内は混乱を極めていた。これらの復興に注力するため入輿は延期された。しかし、この婚儀の延期こそが後となって一橋派にとっての最大の痛手となったと考えても良いだろう。後先は別としても、薩摩藩による幕府内への裏面工作への着手が凡そ2年遅れたことになる。
篤姫の輿入れ後、斉彬は安政4年(1856)4月3日に江戸を発ち、京の近衛邸で左大臣父子、三條実萬、中山忠能と時事についての意見を交換し、5月24日に鹿児島に帰っている。これが斉彬にとって最後の京都滞在となった。つまり安政5年(1857)7月8日、天保山で諸隊連合大操練を行い、率兵上京の準備中に発病し同月16日に急逝したからである。
外交問題の混迷が極まるに従い、開国派と攘夷派といった政策の対立が一橋派対南紀派へと変わって行く。ある意味で敵対勢力の姿が双方にとっても明らかになってきた時期とも謂える。一橋派の推進役であった松平春嶽は、安政4年(1857)8月20日に橋本左内を江戸に召し、即日侍読兼内用掛に命じている。また同年12月6日、国許にあった島津斉彬は春嶽の将軍継嗣の斡旋の支援として、西郷吉之助を江戸に送っている。
これ以前に西郷は安政元年(1853)正月に中御小姓、定御供、江戸詰を仰せ付けられ、3月の斉彬の上京に同行している。そして同年4月より庭方役となり各藩の有志との交際が始まる。これと全く同じ時期、橋本左内も江戸遊学を願い出ている。そして安政元年2月22日に福井を出て3月5日には江戸に着している。これは家業の医術の習得を目的としていたが学業が大いに進んだため、左内もまた藤田東湖を始めとした当時の名士に接する機会を得ていた。左内は安政2年(1854)7月末に藩命により帰国する。そして医員を免ぜられ御書院番に任じられる。このことは左内が国事に携わる第一歩となった。
左内は11月28日再び福井を発し、12月9日に江戸に入り、17日より常盤橋藩邸内の鈴木主税の長屋で過ごす。これは11月の安政東海地震後の入府となり、既に藤田東湖は地震により圧死していた。ここに於いて水戸藩は精神的な支柱を失い、安政年間以降の迷走に拍車をかけることとなる。安政2年12月27日、左内は初めて西郷吉之助と安藤帯刀に対面する。安政の大獄における三藩の主役が、ここに揃う。
翌3年(1855)4月21日に藩命で帰国を命じられるが5月28日頃まで江戸に留まっていたようだ。6月14日に福井に戻った後、藩校明道館講究師、幹事に補せられる。そして上記の通り安政4年8月に江戸へ出府する。ここが左内による将軍継嗣運動の本格的な始まりと見てよいだろう。
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