大応寺
臨済宗相国寺派 金剛山 大応寺(だいおうじ)2010年1月17日訪問
妙覺寺の大門を出て上御霊前通を西に進むと堀川通に出る前に扇町児童公園が現れる。次の訪問地の大応寺は、この児童公園の北側に位置する。
大応寺は臨済宗相国寺派、山号は金剛山。正保2年(1645)悲田院が泉涌寺内に移転した跡地に建立されている。悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。日本においては、聖徳太子が大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てたのを最初とする伝承がある。ちなみに四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの施設で構成されている。敬田院は寺院そのものであり、施薬院と療病院は現代の薬草園及び薬局や病院に近い。
聖徳太子以降、記録に残る最古の悲田院は、養老7年(723)皇太子妃時代の光明皇后が設置したものがある。平安時代に入ると、平安京の左京九条三坊と右京九条三坊の二カ所に造営され、左京は東悲田院、右京は西悲田院と呼ばれていた。悲田院は、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下に置かれた。しかし「平安京提要」(角川書店 1994年刊)を調べても悲田院の存在を裏付ける考古学的な発見は現れていない。また京都市埋蔵文化財研究所が2014年1月から3月かけて行った平安京左京九条三坊十町跡・烏丸町遺跡の発掘調査報告には、「悲田院解 申請□□」と判読できる木簡が出土するなど、悲田院と施薬院の関係を表す出土品が見られたものの、未だ存在を明らかするには至っていない。11世紀になり右京の荒廃が進むと先ず西悲田院が廃絶している。残された東悲田院も幾度か焼失し、そのたびに再建されてきたが衰退していく。「続日本後紀」の承和12年(845)11月14日の条に「鴨河悲田」と記されていることから、九条南の東端付近の鴨川に近い場所にあったと思われる。これは悲田院に義倉物や料物を給って鴨川に散乱する骸骨を集めて埋葬させるなど行っていたからで、東悲田院は11世紀初には三条京極、16世紀初は下京五条に移転したと考えられている。
泉涌寺の公式HPには、鎌倉時代に入った正応6年(1293)無人如導は、一条安居院に悲田院を移転させ、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の寺として再興したとしている。安居院は比叡山東塔竹林院の里坊で、大宮通上立売北にあったとされている大寺院であった。平安時代の末期以来、安居院には名僧が住み、中でも藤原信の子である澄憲僧正、信西の孫に当たる聖覚法印らが唱導の技術に優れ、以後、代々受け継いで安居院流の唱導を作り出している。この無人如導が再興した悲田院は西悲田院であると考えられる。安居院悲田院あるいは上悲田院と呼ばれ、14世紀に現在の大応寺の所在する地、すなわち上京区扇町に再建されたのであろう。なお「坊目誌」では無人如導が再建したのを円慶元年(1308)と記している。 永享7年(1435)には悲田院で延暦寺の使者の金輪院弁澄ら三人が処刑されていることから、刑場の役割を果たしていたのかもしれない。また文明3年(1471)1月3日には後花園院の葬礼が行われている。今も大応寺の裏には後花園天皇火葬塚がある。同5年(1473)5月22日には細川勝元の葬礼が悲田院内の地蔵院で行われている。しかし同11年(1479)8月12日に放火により悲田院仏殿とその周辺の在家数十間が焼失している。なお文明18年(1456)以降、泉涌寺の住持が悲田院の住持も兼ねている。既に扇町の悲田院が喪失しているので東悲田院を継承した下京五条の悲田院のことかもしれない。
いずれにしても正保2年(1645)に泉涌寺内に悲田院が移転し、その跡地に大応寺が建立された。開山は興聖寺の虚応で、当初は比叡山延暦寺に属し、天台、真言、禅の兼学であった。天明8年(1788)の天明の大火で類焼するも再建される。境内の織部稲荷は茶人で武将であった古田織部が祭祀したと伝わるが、律令制において大蔵省に属する機関の織部司を祀るという説もある。織部司は織染の高度な技術をもち、高級織物の生産に従事するもので西陣織に関連すると見ている。 安永9年(1780)に刊行された都名所図会には本法寺、報恩寺、妙蓮寺そして千宗佐宅とともに描かれている。
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