アーカイブ:2021年
鞍馬寺 その11
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その11 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 魔王殿 鞍馬寺 その10では、鞍馬弘教と魔王尊について書いてきた。ここからは鞍馬寺最後の項として奥の院の景色を見ていきたい。 先ず与謝野晶子の荻窪での書斎・冬柏亭の裏側に息つぎの水と呼ばれる湧き水がある。僧正谷での武芸修行のため、由岐神社の上にあった東光坊から毎夜抜け出した牛若丸が途中で喉を潤したところとされている。この近くの屏風坂には革堂地蔵尊がある。一枚岩の屏風を立てたような急坂があったことから名付けられている。鞍馬山の頂上付近には義経公背比石と呼ばれる1.2m程度の石英閃光緑岩が立てられて… ►続きを読む
鞍馬寺 その10
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その10 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 大杉権現社 鞍馬寺 その9では、大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と天台宗からの分離独立の背景について書いてきた。この項では戦後すぐに開宗した鞍馬弘教の教えについて見ていく。 鞍馬弘教の中でも特に初期の教えについて学ぶには、色々探してみたが信楽香雲貫主が記した「鞍馬山歳時記」(鞍馬弘教総本山 1988年刊)を参照するのがよさそうである。これは鞍馬寺が1988年に「くらま山叢書 4」として発刊したものでる。一見、その書名からすると鞍馬寺の年中行事を紹介する随筆集のようにも見える。確かに季節毎の行事を紹介… ►続きを読む
鞍馬寺 その9
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その9 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金堂 鞍馬寺 その8では、日本独自の天狗の進化を中心に義経伝説の発生まで見てきた。この項では大正以降の鞍馬寺が行ってきた整備事業と戦後すぐに開宗した鞍馬弘教について書いみる。 鞍馬寺 山門 鞍馬弘教の説明に入る前に、信楽香雲貫主の生い立ちから整備事業を見ていく。前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜に従うと、香雲貫主は明治28年(1895)10月20日、岐阜県郡上郡八幡町の服部真静とかつの三男・誠三として生まれている。同40年(1907)地元の八幡尋常小学校… ►続きを読む
鞍馬寺 その8
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その8 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 鞍馬寺駅前の天狗像 鞍馬寺 その7では、中国と日本の天狗のイメージ形成について調べ、「今昔物語」の巻20第2話の「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」まで見てきた。ここからはさらに進めて鞍馬山の天狗伝説と牛若丸について書いてみる。 「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」では叡山の高僧にあっけなく調伏されてしまう中国天狗が出てきた。怪異に対する仏法の優位性を示す構成となっているので、やや気弱でコミカルな天狗となっている。しかし同じ「今昔物語」でも巻20の第7話「染殿后為天狗被嬈乱語 第七」には、おどろおどろしい天狗… ►続きを読む
鞍馬寺 その7
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その7 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院 鞍馬寺 その6では、鞍馬寺の教義の推移と修験者について、そして僧正が谷の由来となった権僧正壹演まで見てきた。ここではさらに一歩進めて中国と日本の天狗の違いについて書いてみる。 鞍馬山の天狗はどこから来たのであろうか?元々天狗は中国から日本に入ってきたものであるが、その姿やイメージは現在の日本の天狗とはかなり異なっていた。司馬遷の「史記」天官書87に以下のような記述が見られる。?最初の「天狗,狀如大奔星,有聲」は、「天狗(てんこう)、その姿は大流星で音がする」という意味である。つまり大気圏に突入した… ►続きを読む
鞍馬寺 その6
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その6 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 奥の院の入口 鞍馬寺 その5では、鞍馬寺と与謝野鉄幹・晶子夫妻の関係から2人が創設に関わった文化学院の挫折、そして2人の歌碑と冬柏亭を見てきた。ここからは鞍馬寺の教義の推移、鞍馬山と修験者について書いてみたい。鞍馬寺の成り立ちを知る上で、第一に挙げねばならない書物は「鞍馬蓋寺縁起」であろう。これは室町時代に纏められたもので、大日本仏教全集に収録されている。「鞍馬蓋寺縁起」はその名称通り鞍馬寺開創の歴史を綴ったものである。上一と二段に鑑禎上人が鬼女と毘沙門天王に出会った説話が残されているが、この説話は「鞍馬… ►続きを読む
鞍馬寺 その5
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その5 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 冬柏亭 由岐神社の拝殿を潜り、鬼一法眼社、魔王の滝、吉鞍稲荷社、そして放生池を過ぎると再び普明院に戻る。ここから再びケーブルを使い本殿金堂を目指す。そこから今度は奥の院参道に入って行く。 鞍馬寺 奥の院入口 本殿左側の参道を進むと霊宝殿の手前に與謝野晶子・寛歌碑と冬柏亭がある。先代管長の信楽香雲が與謝野晶子・寛に師事したことからこの鞍馬寺に造られた。香雲管長の前半生の自叙伝「独り居るを慎む」(鞍馬弘教総本山鞍馬寺 2004年刊行)の略年譜によれば明治28年(1895)に岐阜県郡上郡八幡町の服部真静… ►続きを読む
由岐神社
由岐神社(ゆきじんじゃ) 2010年9月18日訪問 由岐神社 本殿 鞍馬寺 その4で、九十九折の参道を下っていくと、川上地蔵堂と義経公供養塔を越えた先に由岐神社の割拝殿が見えてくる。由岐神社は鞍馬寺の鎮守社であり靭明神とも呼ばれる。大己貴命と少彦名命を主祭神として由岐大明神と総称する。また八所大明神を相殿に祀る。もともと八所神社は鞍馬山山頂にあったが文化年間(1804~18)に由岐神社に合祀されている。恐らく文化11年(1814)鞍馬寺は全山炎上の大火災を被っているので、それ以降のことと考えられる。 由岐神社 本殿 縁の上に石造狛犬が見える 大己貴命は大国主神で国津神の主宰神とされ… ►続きを読む
鞍馬寺 その4
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その4 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 金剛床と本殿金堂 寝殿と転法輪堂の間の石段を登っていくと本殿金堂が建つ地盤面に到達する。仁王門前からここまでの間でこれだけ広い平坦な土地はなかった。ここに鞍馬寺の主要な堂宇が建設されるのは必然の事であろう。本殿金堂は文化11年(1814)3月29日に焼失し、明治5年(1872)秋に再建されている。しかし昭和20年(1945)にまたも全焼したため、昭和46年(1971)にRC造で再建したものである。この年の6月7日に落慶供養が執り行われている。七間七間で一重入母屋造。内部は外陣、内陣、内内陣に分かれ、内内陣… ►続きを読む
鞍馬寺 その3
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その3 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 多宝塔 鞍馬寺では鞍馬の地名について、そして鞍馬寺 その2では鞍馬寺の開創から現在の鞍馬弘教総本山までの歴史を見てきた。ここでは境内について書いていくこととする。仁王門へと続く石段の左手には歓喜院修養道場がある。既に廃絶した山内の十院九坊を結集するために昭和39年(1964)に建立されている。聖観音像を奉安し写経・法話ならびに書道・華道・茶道・水 墨画によって心を磨く修養道場となっている。石段の上に建てられた仁王門を潜るとすぐに普明殿と呼ばれる堂宇に参拝者のためのケーブル駅が設けられている。この鞍馬山ケー… ►続きを読む
鞍馬寺 その2
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その2 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 仁王門 叡山電鉄の鞍馬駅から大天狗を左手に眺めながら進んでいくとすぐに鞍馬街道に合流する。道なりに歩を進めると鞍馬寺の石段とその上の仁王門が見えてくる。石段の右手には赤褐色の鞍馬石で造られた寺号標が建つ。仁王門は柱間が正面三つで中央の一間が戸口になっている三間一戸の丹塗の楼門様式。元からあった古い楼門が明治24年(1891)11月に焼失している。今の仁王門は20年後の明治44年(1911)4月に復興竣工したものとされている。この仁王門の脇には勅使門があったことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブ… ►続きを読む
鞍馬寺
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら) 2010年9月18日訪問 鞍馬寺 寺号標と仁王門 貴船での最後の訪問地・貴船神社結社の参詣を終え、京都府道361号上黒田貴船線を南に戻る。再び叡山電鉄貴船口駅より電車に乗り一つ先の終着駅・鞍馬駅で降りる。 駅の改札口を抜けると大天狗のモニュメントが観光客を迎える。鞍馬の自治会が平安建都1200年を記念して1994年に製作、2002年より鞍馬駅前に設置されている。鼻の長さ2.3mの大天狗の面は発泡スチロール製であったことから劣化が進み、ついに2017年1月17日の朝、積雪の重み耐えられず鼻から先が折れてしまった。この事故とともに補修されるまでの間… ►続きを読む
貴船神社 結社
貴船神社 結社(きぶねじんじゃ ゆいのやしろ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 結社 本殿 貴船神社の本宮を始めとして、その2、その3、その4、その5、そして貴船神社 本宮 庭園、その2、その3。さらに、相生の大杉と貴船神社 林田社・私市社、そしてつつみが岩と思ひ川を見た後に、貴船神社 奥宮に至った。その2、その3に次いで貴船神社 奥宮 船形石についても記してきた。ここから再び府道361号上黒田貴船線を貴船口方向に戻り、結社を貴船神社として最後に詣でる。 貴船神社 結社 参道入口の由緒書 貴船神社 結社 由緒書 貴船神社の本社(本宮)と奥宮のほぼ中間地点に結社がある。神社… ►続きを読む
貴船神社 奥宮 船形石
貴船神社 船形石(きぶねじんじゃ ふながたいわ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 奥宮 船形石 貴船神社 奥宮 その2では奥宮の境内ついて、そして貴船神社 奥宮 その3では奥宮の本殿の遷宮について書いてきた。この項では奥宮の境内にある船形石を中心に貴船神社の遡源伝説について記す。 船形石は貴船神社奥宮の本殿・拝殿の南西に築かれている。この奥宮の船形石以外に船を連想させるものとして、本宮の重森三玲作庭による天津磐境(昭和40年(1965)作庭)と結社の天乃磐船(平成8年(1996)奉納)がある。しかし本宮と結社は近年に整備されたものである。一方、奥宮の船形石は既に昭和34年(1959)… ►続きを読む
貴船神社 奥宮 その3
貴船神社 奥宮(きぶねじんじゃ おくのみや)その3 2010年9月18日訪問 貴船神社 奥宮 拝殿と石造の狛犬 貴船神社 奥宮 その2では奥宮の境内ついて書いてきた。この項では奥宮の本殿について記述する。この2010年に訪問では古い本殿を撮影したが、2012年には新しい本殿が竣工したようだ。このことは貴船神社のFacebookに貴船神社 【奥宮本殿解体修理と「附曳神事」】 ~150年ぶりに行われた特殊神事~として記述されている。これによると完全な新築ではなく、一度本殿を解体し、「使える古材は出来るだけ保存」したとあるので、部分的に新材を加えた改修工事だったようだ。2011年12月3日に御… ►続きを読む
貴船神社 奥宮 その2
貴船神社 奥宮(きぶねじんじゃ おくのみや)その2 2010年9月18日訪問 貴船神社 奥宮 連理の杉と摂社・日吉社 貴船神社 奥宮では御祭神の変遷について書いてきた。この項では奥宮の境内について記述する。 思ひ川に架かる小さな橋を渡り参道を進むと、右手につつみが岩が見える。さらに進むと、小さな朱塗りの神門が現れる。この美しい神門より中が貴船神社の奥宮となる。神門の左手前には石組で作られた手水が設けられている。現在では思ひ川で禊を行うこともないので、ここで身を清めて参拝するという意味であろう。 貴船神社 奥宮 神門 貴船神社 奥宮 神門手前の手水 神門を潜ると、細い参道からは… ►続きを読む
貴船神社 奥宮
貴船神社 奥宮(きぶねじんじゃ おくのみや) 2010年9月18日訪問 貴船神社 奥宮 神門 相生の大杉とと林田社と私市社の二座を祀る祠を過ぎると、府道361号上黒田貴船線から離れ奥宮の参道に入っていく。朱塗りの鳥居の先の思ひ川に架かる小さな橋を渡る。途中のつつみが岩を越えると、府道から並木1本隔てただけにもかかわらず山奥の神社を参詣する雰囲気が高まってくる。ほどなくして濃い緑の中に朱塗りの神門が現れる。この門を潜ると貴船神社の奥宮である。細い参道からは想像できないほど広い空間が目の前に広がる。貴船川のすぐ畔に広がる平坦な地で、ここが貴船神社の創建の地であったことが頷けるような立地である… ►続きを読む
貴船神社 思ひ川
思ひ川(おもひがわ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 思ひ川 奥宮一之鳥居 紹介の順番が前後したので少し補足する。有名な川床旅館・左源太を過ぎると府道361号上黒田貴船線の左手に相生の大杉が現れる。この御神木の先に林田社と私市社の二座を祀る祠へと続く石段がある。丁度ここから府道361号線から別れ、貴船神社奥宮へと続く参道が始まる。参道の始まりには朱塗りの鳥居がある。これを奥宮の一之鳥居と呼んでもよいのか分からないが、この鳥居を潜るとすぐに小さな橋を渡ることとなる。この橋の架かった小川が思ひ川である。西側の貴船山から発し貴船川に注ぐ、本当に小さな流れである。この思ひ川を渡った先にある奥… ►続きを読む
貴船神社 つつみが岩
つつみが岩(つつみがいわ) 2010年9月18日訪問 貴船神社 つつみが岩奥宮参道入口にある駐車場の一角スクーターが写真に入ってしまった 相生の大杉、その傍らのその傍らの貴船神社末社の林田社と私市社からさらに奥宮に向かって進むと、左側につつみが岩と呼ばれる巨石が現れる。 貴船石特有の紫色で、古代の火山灰堆積の模様を表している。重さは約43t、高さ4.5m、周囲9mの巨石である。いわゆる貴船石とは、賀茂川の上流貴船付近で採れる川石の総称である。石種は輝緑凝灰岩ともいわれるが、さらに上流から流れてきたものもあるため1種に限定されるものでは無いようだ。従って貴船石と呼ばれる石には黒紫色、柴色、… ►続きを読む
貴船神社 林田社・私市社
林田社・私市社(はやしだしゃ・きさいちしゃ) 2010年9月18日訪問 林田社・私市社 相生の大杉の傍らに赤い玉垣を巡らした二座を祀る祠がある。これは貴船神社末社の林田社と同末社の私市社である。向かって右側の私市社の御祭神は大国主命、左側の林田社は少彦名命でである。 私市社の大国主命は国津神の代表的な神で、因幡の白兎の話によって誰でもその名前は聞いたことがあるだろう。素戔嗚尊の子、または六世の孫とされ、出雲大社の御祭神でもある。林田社の少彦名神とともに、中つ国すなわち葦原中国の国造りを行った神である。天津神である天照大神の使者が葦原中国に来ると国土を献上し(国譲り)て自らは隠退したとされ… ►続きを読む