貴船神社 思ひ川
思ひ川(おもひがわ) 2010年9月18日訪問
紹介の順番が前後したので少し補足する。有名な川床旅館・左源太を過ぎると府道361号上黒田貴船線の左手に相生の大杉が現れる。この御神木の先に林田社と私市社の二座を祀る祠へと続く石段がある。丁度ここから府道361号線から別れ、貴船神社奥宮へと続く参道が始まる。参道の始まりには朱塗りの鳥居がある。これを奥宮の一之鳥居と呼んでもよいのか分からないが、この鳥居を潜るとすぐに小さな橋を渡ることとなる。この橋の架かった小川が思ひ川である。西側の貴船山から発し貴船川に注ぐ、本当に小さな流れである。この思ひ川を渡った先にある奥宮の小さな駐車場の一角に、先に説明してしまった つつみが岩が据えられている。
思ひ川の橋を渡る手前左手に下記のような駒札が建てられている。
思ひ川
夫の愛を取り戻そうと思い悩んでいた和泉式部は貴布禰詣でを思い立ちました。当時は奥宮が本社で参拝者はこの谷川で手を洗い口をすすぎ、身を清めてから参拝しました。
この谷は禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川だったのです。和泉式部もここで身を清めて恋の成就を祈ったのでしょう。
禊の川だった「おものいみ川」が、和泉式部の恋の話と重なり、いつの頃からか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。遅桜なほもたづねて奥宮
思ひ川渡ればまたも花の雨
虚子
既に貴船神社 本宮で触れたように、本来の貴船神社は、この思ひ川の先にある奥宮の地に創建された。しかし度重なる貴船川の氾濫により、天喜3年(1055)に現在の高台に本宮が再建されている。天元元年(978)頃に生まれたとされる和泉式部が貴布禰詣を行ったのならば、この思ひ川で身を清めたという駒札の記述は多分正しいのであろう。
思ひ川の語源となった物忌みには穢れを避けるという意味があり、斎戒沐浴の斎戒と同じ言葉である。接頭辞である御をつけた御物忌川は、長い間貴船神社を支配してきた賀茂別雷神社(上賀茂神社)にも存在する。
芹生峠南麓に発する貴船川は府道361号線に沿って南流し、貴船口で鞍馬川と合流し鞍馬川となる。鞍馬川は二ノ瀬を南下し左京区静市野中町で静原川と合流する。静市市原町で流路を西に転じ、北西から下ってきた賀茂川に合流する。十三石橋、高橋、柊野堰堤、庄田橋と志久呂橋を過ぎたところにある明神井関で分流して明神川となる。この後、京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース内にある蟻が池、小池から発した御手洗川とゴルフ場内で合流し上賀茂神社の西北から境内に流入し楼門前に至る。ゴルフ場内で発した別の流れは東北側から境内に入り、本殿の東側から南側に回り込み楼門前で西北から入ってきた御手洗川(明神川)と合流する。この後者の流れが御物忌川と呼ばれている。つまり楼門前に架けられた朱塗りの玉橋は御物忌川の橋である。玉橋は反りのある高欄付きの橋で、神事の際に神官が使用する。そのため普段は注連縄が張られて渡れない橋でもある。
上賀茂神社の楼門前で合流した御手洗川(明神川)と御物忌川は「ならの小川」と名前を変えて橋殿の下を注ぎ、捗渓園の中に入り南下していく。北区上賀茂池殿町の境外に出たところで菖蒲園川と明神川に分かれる。菖蒲園川は西南に進み再び賀茂川に合流する。明神川は東に進み社家の町並みの堀となる。クスノキの巨木の下にある藤木社を過ぎ、生活用水あるいは農業用水に利用されていく。林倫子氏等は「明治以降の上賀茂社家町における池と水路の水システムの変遷」(土木史研究論文集 2009年刊)で、上賀茂神社以東の町々の水路網について記している。本論文によれば、社家の系譜へつながる賀茂県主は、天平 6年(734)には既に現在の社家町岡本あたり(上賀茂岡本町、同岡本口町)に居住していたとされる。しかし社家町内の水路網の成立に関する資料は確認されていない。さらに下って中世の頃(15世紀)には岡本郷と中村郷に農地が広がっていたことより、既に水路網が発達し農業用水が確保されていたことが推定される。
明神川は現在の流路と同じく東に進んだ後、下鴨中通あたりで南に下りながらさらに東に流れ高野川から取水した泉川に合流する。泉川の一部は下鴨神社に入り、御手洗川、ならの小川、そして瀬見の小川として南に注ぎ再び高野川に戻る。泉川の本流も境内の東端を流れ、やがて高野川に合流している。また上賀茂神社の南端で明神川と分流した菖蒲園川(乙井川)も現在のように直接賀茂川に接続されることはなく、岡本郷の南端から中村郷の中央部を通り、先の泉川に合流している。この賀茂川から取水した明神川、菖蒲園川、そして高野川から取水した泉川を設けることによって賀茂川デルタの開拓が可能になったのである。そして社家町内には明神川より水を引き込むことによって、多くの池が築かれ生活で使用された水を下流の農地で再利用したようだ。
この貴船山に発した思ひ川の水は、貴船川、鞍馬川そして明神川を経て上賀茂神社の御手洗川に注ぎ再び明神川に戻り、現在私たちが見る社家町の景観を創り出したことが分かる。
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