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鞍馬寺 その8



鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その8 2010年9月18日訪問

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鞍馬寺 鞍馬寺駅前の天狗像

鞍馬寺 その7では、中国と日本の天狗のイメージ形成について調べ、「今昔物語」の巻20第2話の「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」まで見てきた。ここからはさらに進めて鞍馬山の天狗伝説と牛若丸について書いてみる。

「震旦天狗智羅永寿渡此朝語 第二」では叡山の高僧にあっけなく調伏されてしまう中国天狗が出てきた。怪異に対する仏法の優位性を示す構成となっているので、やや気弱でコミカルな天狗となっている。しかし同じ「今昔物語」でも巻20の第7話「染殿后為天狗被嬈乱語 第七」には、おどろおどろしい天狗=鬼が現れる。染殿后とは文徳天皇の女御で清和天皇の母となった藤原明子である。父は太政大臣藤原良房で、病持ちあったものの当時としては長命であったため藤原氏による摂関政治が始まる要員ともなった人物であう。染殿后は貞観7年(865)頃より物の怪に悩まされるようになったという記述が諸書に見られる。この「今昔物語」の説話も染殿后の病に基づいたものである。

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鞍馬寺 京都御苑 染殿井 2010年1月17日撮影
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鞍馬寺 京都御苑 染殿井 2010年1月17日撮影

説話は后が物の怪の病があらわれるところから始まる。験ありと世に評判の僧達が召され祈祷しても効果が現れなかった。大和の金剛山に貴い聖人がいるという噂があり、都に招き后の祈祷をさせることとなった。聖人が加持祈祷を行うと、后の物の怪は后から出て侍女に移った。聖人はこれを見逃さず今度は侍女を打ち据え、懐中から出でた老孤を捕えた。これにより后の病は治癒した。
今まで女人を見たことのなかった聖人は后の美しさに心を奪われてしまい、ついに御帳の中に忍び込み后を我が物にしてしまった。聖人は捕えられ獄に繋がれたが、「我れ、忽に死て、鬼と成て、此の后の世に在まさむ時に、本意の如く、后に睦びむ」と言い放った。これを聞いた后の父である太政大臣は驚き、天皇に奏して金剛山に戻した。山に帰った聖人はさらに思いを募らせ、三宝に祈願しても果たせず、遂に当初の願い通り絶食して死んでしまった。
餓死した聖人は鬼になって都に現れた。その形相は、「身裸にして、頭は禿也。長け八尺許にして、肌の黒き事漆を塗れるが如し。眼は鋺を入たるが如くして、口広く開て、釼の如くなる歯生たり。上下に牙を食ひ出したり。赤き裕衣を掻て、槌を腰に差したり。」とある。鬼は后を狂わせ虜にし遂には睦み合うに至った。
鬼が現れてから3か月が過ぎた日、天皇は后の様子を確かめるべく行幸された。すると鬼は再び部屋の角から現れ、御帳の中に入って行った。后もまた御帳の中に入り少し経つと鬼は南面に踊り出てきた。列席していた大臣、公卿は鬼の姿を見て恐れ慄いた。続いて后が出、衆人の目前で鬼と媾った。
説話は「然れば、止事無なからむ女人は、此の事を聞て、専に然るべし有らむ法師をば、近付くべからず。此の事、極て便無く、憚り有る事也と云へども、末の世の人に見しめて、法師に近付かむ事を強に誡めむが為に、此くなむ語り伝へたるとや。」という教訓で結ばれている。「身分の高い女人は、法師を近づけてはいけない。これを語ることは大いに憚られるが、後世の人に伝えていましめとするために、語り伝えられている。」という意である。

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鞍馬寺 京都御苑 染殿井 2010年1月17日撮影
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鞍馬寺 京都御苑 染殿井 2010年1月17日撮影

この説話に現れるのは鬼であったが標題には天狗と記されているように、仏法を捨てた修験者が天狗になったというものである。伊藤信博氏の「天狗のイメージ生成について―十二世紀後半までを中心に―」(「言語文化論集」(名古屋大学大学院国際言語文化研究科 2007年刊))によれば、「仏道などの修行より、天狗の妖術の魅力に取り込まれてしまい、仏道からはみ出てしまった修験者を天狗と呼び始めていることが分かる。」ということである。”修験者でも仏法から道を外すと天狗になる”という天台宗が代表する既成仏教教団の見解を説話にしたものと考えられる。
この天狗と修験者の関係について、知切光歳は「天狗の研究」(大陸書房 1975年刊)の「天狗と山伏(修験道小史)」で下記のように記している。

天狗と山伏との結びつきは、こうし第一級の咒験者の天狗転身と、最下級のあぶれ山伏と町の外法使い達の、天狗的行状の両面が次第に結合して成ったもので、それが世人の声から兆した風潮に山伏側が乗じたものか、あるいは山伏側の声に、世人が乗せられたものかは解明できないが、『今昔物語』などに見える、平安中期頃からの、町の下法使いや、あぶれ山伏たちの行状に、すでにその徴候が見られるところから見て、どちらからともなくそうした天狗の認識が醸成されていったのであろう。

知切はこの前の章で法験によって声名を謳われた清僧から化った天狗として、道昭上人の笠置山大僧正、神護寺真済上人の高雄内供奉、第13世天台座主尊意の比叡山法性坊、壹演権僧正の鞍馬山僧正坊、金光院院主実盛上人の象頭山金剛坊、木練坊上人の彦山木練坊をあげている。天台座主や権僧正までではないものの、仏教僧が転生して大天狗となるという説話は数多くあるようだ。これらは天狗のイメージ形成に修験者=山伏が大きな影響を与えた結果であり、装束も山伏に近づいたのは必然と考えてもよいだろう。ちなみに諸国の山々に棲む天狗に名前を与え広めたのも山伏であったと知切は述べている。「今昔物語」では仏法を捨てた修験者が天狗になって世に災いを齎すと諭す一方で、優れた修験者が更なる霊力を得て天狗に転生するという説も世に広まっていたようだ。これは既成仏教教団側と修験道との異なった両者の見解が存在したためと思える。いずれにしても、修験者=山伏と天狗は非常に近しい関係にあったことは確かである。
また上記引用中の「最下級のあぶれ山伏と町の外法使い達」とは、山から下りて市井に身を投じた山伏崩れのことを言っている。平安時代の末期に修験道が興隆すると、行力を備えた山伏は客僧として優遇されたが、そこまで達することができなかった山伏は待遇もよくなく山を下りざるを得なかった。それらは里に現れ、村人に怪しげな加持祈祷を行ったり、導引(揉療治、按摩)、薬草の施与、御符配り、占易とあらゆることを行い、病気治療、方位、御祓い、豊作祈願、狐憑き落とし、鼠駆除、悪魔退散、火伏せ、虫おくり、悪疫除けから無病息災、家内繁盛までの祈願に応じている。そして饗応や金品の施与を求めたり、恐喝、押し売り、女犯から殺傷沙汰を犯す悪質な山伏も存在したようだ。現実には、これら修験道から外れた人々は「今昔物語」の謂うように物の怪の天狗へ堕ちて行ったのではない。ただ人間のまま傍若無人の働きを行ったのであり、それが天狗の所業のように見えたということであろう。だから超人的な霊力を持つ者から、里に多大な災いを齎す最下級のあぶれ山伏までを含めての全てが、日本の天狗のイメージを創り出しと知切は述べている。

ここからは鞍馬山の天狗について調べてみる。知切光歳は上記の「天狗の研究」で、鞍馬山には鞍馬山魔王大僧正と鞍馬山僧正坊が存在すると記している。いくつかの天狗について書かれた書物を調べたが、僧正ヶ谷に住むと伝えられる大天狗は鞍馬山僧正坊のみを記述するものが多かった。上記のように僧正坊は壹演権僧正の転生とも謂われる大天狗で、愛宕山太郎坊(山城)、鞍馬山僧正坊(山城)、比良山次郎坊(近江)、飯綱三郎(信濃)、大山伯耆坊(相模)、彦山豊前坊(豊前)、大峯前鬼坊(大和)、白峰相模坊(讃岐)と八天狗の第二座にあげられている。「天狗考 上巻」によれば八天狗は徳川中期の明和元年(1764)に上梓された林自見の「雑説嚢話」に掲載されている。引用した「雑説嚢話」も出典不詳としているが、知切は戦国時代あるいは室町時代後期には世に広まっていたとしている。また、「真言在家万徳集」には鞍馬大魔王尊和讃が所収されているが、この後半に四十八狗の連名を見ることができる。これも知切は八天狗とほぼ同時期に成立したとみている。このいずれにも鞍馬山僧正坊を見つけることができるが、鞍馬山魔王大僧正は存在していない。

鞍馬山魔王大僧正については、喜田貞吉が大正11年(1922)に発表した「憑き物系統に関する民族的研究」(「民族と歴史 第八巻第一号」(日本學術普及會 1922年刊行))に下記のような記述が見られる。

所謂魔王大僧正を始めとして、霊山坊・帝金坊・多聞坊・日輪坊・月輪坊・天実坊・静弁坊・道恵坊・蓮知坊・行珍坊以下、名もない木の葉天狗・烏天狗の末に至るまで、御眷属の護法が甚だ多いので、一とたび足を鞍馬の境内に入れたものは、何人もたちまち天狗気分の濃厚なるを感ぜぬものはなかろう。寺伝によると所謂魔王大僧正は、当寺の本尊毘沙門天の化現だともある。しかし天狗はひとり毘沙門天を祭った鞍馬のみのことでなく、他の名山霊嶽にも、同類の護法の信仰は甚だ多い。そしてこれらはやはりその地の地主神すなわち先住民の現れと見るべきものであろうと解せられる。

喜田は”寺伝によると”と断った上で魔王大僧正が本尊毘沙門天の化現であるとしている。これは大正15年(1926)に刊行された「鞍馬寺史」より前に書かれた文書である。また知切光歳も上記の「天狗の研究」で鞍馬山魔王大僧正が鞍馬山僧正坊の上位に位置すると述べている。しかしその他は鞍馬山僧正坊だけ、あるいは知切の影響を受けてか鞍馬山魔王大僧正と鞍馬山僧正坊は同一と記しているように見える。ちなみに「天狗の研究」より2年前に刊行された「天狗考 上巻」(濤書房 1973年刊)の「僧正坊像のモデルは誰か?」で以下のように記されている。

磊々たる巨石に囲まれた形の魔王堂、鞍馬の大天狗魔王大僧正を祀る小祠である。魔王大僧正は鞍馬寺の本尊毘沙門天の魔界での御姿で、これこそ鞍馬山の大天狗であると鞍馬側は称している。さすれば元信の描いた天狗像は、僧正坊ではなく魔王大僧正でなければならず、僧正坊という天狗が実在したとしても、魔王大僧正の眷属、あるいは相当の優遇を受けたとしても、副将格の天狗と見るほかあるまい。

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鞍馬寺 僧正が谷不動堂
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鞍馬寺 僧正が谷不動堂

この「天狗考 上巻」では狩野元信が描いた大天狗像を「鞍馬山僧正坊の像」と記している。また挿画にも「鞍馬大僧正坊図(伝元信筆・鞍馬寺像)」としている。つまり「天狗考 上巻」を執筆した時点で、矢切は鞍馬山の大天狗は認知度の高い鞍馬山僧正坊と考えていたように思える。しかし”魔王堂は僧正坊ではなく魔王大僧正を祀るものである”と鞍馬弘教を開宗した鞍馬寺が説明している。そのため矢切は、鞍馬寺の主張に従うならば魔王大僧正と僧正坊は両者ともに存在し、魔王大僧正が上位であると認めたようにも見える。それでも宝暦4年(1754)刊行の「山城名跡巡行志」より下記の記述を拾い上げている。

不動堂、僧正谷ニ在リ、太郎坊社、同所北一丁計リ、此所ヲ牛若丸剣術琢磨ノ所ト言フナリ。石ノ面尋常ニ非ズ。

つまり、現在魔王堂が祀られているところは牛若丸が剣術の稽古した所とされているが、ここには愛宕山太郎坊を祀る太郎坊社があったということである。これは「太平記」には牛若丸の剣術指南は愛宕と高雄の天狗だったことと一致するためである。さらに、「とにかく鞍馬山が魔王大僧正を表に立てて、僧正坊の伝承に冷淡なことは確かなのに、一方狂言綺語の世界では僧正坊一辺倒で、徳川期の人気では、兄貴分の太郎坊をはるかに凌駕するものである。」と書き足している。これは「世は僧正坊一辺倒なのに、なぜ”鞍馬寺”は魔王大僧正を前面に出し僧正坊に冷淡なんだろう」という疑問をわざと逆に書いているようにも読める。そして3年後に刊行された「天狗の研究」では、元信の描いた天狗像を「鞍馬大僧正坊図」と記しているものの、鞍馬山魔王大僧正については、八天狗を上回る超大物とし、「余りに大物過ぎて天狗の枠から喰み出して、神様以上の扱いを受け、権現あるいは仏菩薩として崇められ、信者の中には天狗であることを知らなかったり、忘れたりしている者が多い。」と褒めちぎり、自らが選んだ日本大天狗番付では横綱、大関ではなく取締役という役職に棚上げしている。この知切の記述を額面通り受け取ってもよいのか悩むところである。

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鞍馬寺 奥の院 息つぎの水
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鞍馬寺 奥の院 義経公背比石

南北朝時代から室町時代初期には、牛若丸伝説の基となる「義経記」が成立したと考えられている。しかし「義経記」には「人住み荒し、偏に天狗の棲処」となっている僧正が谷で剣の稽古を行っただけで天狗は出てこない。上記のように、この時期にはまだ八天狗も四十八狗などの天狗の名前は定まっていなかったと考えられている。牛若丸が鞍馬山中で天狗相手に武芸の修行を行ったと巷間に広まるのは、室町時代中期から戦国時代初期に成立したと考えられる謡曲「鞍馬天狗」から後のことである。牛若丸の前に山伏に扮した大天狗が現れ、自らを鞍馬の奥僧正が谷に棲む大天狗と称する。そして彦山から高雄、愛宕までの各地の天狗を引き連れ、兵法の奥義を相伝し戦場での守護を約束した後に去って行く。さらに江戸時代に入ると各地誌が牛若丸を取り上げ、鞍馬寺あるいは鞍馬山といえば牛若丸ということになる。この傾向は現在もまだ続いてると見てよいだろう。
例えば安永9年(1780)に刊行された「都名所図会」では次のように記している。

僧正谷は源牛若丸異人に遇会ひ、刺撃の法さまぐならへるとなり。

ここでいう異人とは天狗の事であろう。これらの経緯を見ていくと、謡曲「鞍馬天狗」が世に広まった室町時代中期以降に、鞍馬寺は牛若丸伝説を補強するように義経と鞍馬山大天狗についての祠や古蹟を整備してきたように思える。さらに壹演権僧正の古蹟も鞍馬山僧正坊へと置き換えたのかもしれない。勿論、それは壹演権僧正が鞍馬山僧正坊へ転生したというストーリーの上でのことと思われる。そして江戸時代には鞍馬寺は牛若丸の古蹟という新たな人気名所を得た、あるいは創り出したと言ってもよいだろう。名所の多くは後世になって創り出されたものであり、その名所によって新しい歴史も造り出されることは結構頻繁に行われてきた。
そして鞍馬弘教が開宗すると、鞍馬山の大天狗はただの天狗ではなく信仰の対象へと昇格していく。そのため壹演権僧正が転生した鞍馬山僧正坊ではなく、魔王尊の化身が必要となる。そのため八天狗に含まれていない鞍馬山魔王大僧正が表舞台に現れてくる。例えば大正15年(1926)に刊行された「鞍馬寺史」を”魔王”で検索すると”魔王大僧正坊”、”奥の院魔王堂”、”魔王大僧正”の3件がヒットする。最初の”魔王大僧正坊”は江戸時代初期の寛文12年(1672)に書かれた書状の由緒書の中に牛若丸とともに現れるので鞍馬山の大天狗のことを示している。2番目の”奥の院魔王堂”は現在の魔王殿のことであろう。大正13年(1924)の貞明皇后行啓の際の日記に現れている。3番目の”魔王大僧正”は大正15年(1926)に行われた本尊開扉の説明に現れる。「本地千手観音菩薩並びに魔王大僧正の開扉」とあるので、護法魔王尊か元信の描いた鞍馬大僧正坊図と思われる。いずれにしても鞍馬弘教が開宗する以前から、毘沙門天の化現とされる魔王大僧正は鞍馬寺の寺伝に存在していたようだ。それがいつからのことであったかは残念ながら分からなかった。
それでも既に八天狗や四十八狗に名を連ねていた往年のスター天狗・鞍馬山僧正坊を消し去ることはできない。そのため鞍馬山魔王大僧正を上位に配した。あるいは魔王大僧正と僧正坊は同一天狗ということになったと推測する。

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鞍馬寺 僧正が谷不動堂

「鞍馬寺 その8」 の地図





鞍馬寺 その8 のMarker List

No.名称緯度経度
赤●  鞍馬寺 金堂 35.1181135.7708
01   鞍馬寺 歓喜院・修養道場 35.1139135.7728
02  鞍馬寺 仁王門 35.1143135.7729
03   鞍馬寺 普明殿(ケーブル山門駅) 35.1147135.7726
04  鞍馬寺 多宝塔駅(ケーブル山上駅) 35.1164135.7727
05  鞍馬寺 多宝塔 35.1167135.7728
06  鞍馬寺 寝殿 35.1176135.7708
07  鞍馬寺 金剛床 35.1179135.7709
08  鞍馬寺 閼伽井護法善神社 35.1183135.7711
09  鞍馬寺 光明心殿 35.1181135.7705
10  鞍馬寺 金剛寿命院 35.1179135.7702
11  鞍馬寺 翔雲臺 35.1179135.771
12  鞍馬寺 與謝野晶子・寛歌碑 35.1181135.7696
13  鞍馬寺 冬柏亭 35.118135.7694
14  鞍馬寺 牛若丸息つぎの水 35.1177135.7691
15  鞍馬寺 革堂地蔵尊 35.1167135.7728
16  鞍馬寺 義経公背比石 35.1185135.7678
17  鞍馬寺 大杉権現社 35.1175135.7669
18  鞍馬寺 僧正ガ谷不動堂 35.12135.7673
19   鞍馬寺 義経堂 35.1201135.7673
20  鞍馬寺 奥の院魔王殿 35.1211135.7658
21  鞍馬寺 西門 35.1207135.7629

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