カテゴリー:訪問地
松尾大社 蓬莱の庭
松尾大社 蓬莱の庭(まつおたいしゃ ほうらいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社の「曲水の庭」と「上古の庭」を拝観した後、磐座登拝入口の前を経て、霊亀の滝と滝御前社に至る。再び御手洗川に沿って神輩所横から出る。一之井川を東側に渡り楼門を潜り出た先には二之鳥居が見える。その手前左手に客殿があり、その脇に蓬莱の庭の入口がある。 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 現在の蓬莱の庭に面した場所に客殿が建設されたのは、それほど古い時代ではなかったようだ。 「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭 その2
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社 曲水の庭では、この庭が完成するまでの時間的な流れを記し、いかに重森三玲が短時間の内に庭を創り上げて行ったかを明らかにした。また中国の風習である曲水の宴が日本に伝わった時期を考えることで、三玲がこの庭に託した歴史的な想いについても記してみた。 曲水の庭の設計図は、もちろん「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に掲載されている。しかし「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には設計図とともに施工以前の庭の様子や施工中の… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 上代の磐座・磐境をモティーフとした「上古の庭」に続いて、「曲水の庭」について見てゆく。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている重森三玲の日記によると、上古の庭を設計した昭和49年(1974)4月28日に大体の設計で終わり、5月10日に門弟の斎藤忠一氏による清書が完成している。これを同月25日に河田宮司に披露し、5月29日の大安の日に松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行っている。この庭の施工は上古の庭が完成してからとなる。昭和49年(1974)8月1日に… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭 その2
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭 松尾大社 上古の庭では磐座と磐境のことでほぼ費やしてしまったが、ここからは話しを上古の庭に戻す。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には大判の松尾大社庭園設計図①と②が付けられている。①は上古の庭と曲水の庭を1枚で著したもの。②は蓬莱の庭のみの設計図である。重森三玲が設計した庭だから実測図ではなく設計図となる。実測図とは異なり、設計意図を表現したものであり、恐らくこれだけを見て施工することは不可能であったと思われる。大社で庭を拝観し… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 上古の庭 松尾大社 松風苑では、作庭家・重森三玲の庭園史家としての業績について書いた。そして松尾大社 松風苑 その2では「松尾大社造園誌」から、松風苑の成立過程について考えてみた。ここからは各庭のデザイン・モティーフとなった時代の順に、先ずは「上古の庭」から記していこうと思う。 上古の庭は宝物殿の北側の斜面に造られた庭園である。社務所から西側には、すぐに山裾が広がるため、南側の曲水の庭も片勾配の敷地に作庭されている。特に上古の庭は丹波笹が敷き詰められているため松尾山と一体となり、あたかも山肌をその… ►続きを読む
松尾大社 松風苑 その2
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社の案内によると重森三玲の作庭した3つの庭を松風苑と呼ぶようである。松尾大社 その3でも記したように、大社の設定した拝観順路に従うと北清門と神饌所を結ぶ回廊の下を潜り、再び社務所と葵殿を結ぶ回廊を潜ると「曲水の庭」が現れる。この庭は葵殿と宝物殿、そして社務所と松興館に囲まれた空間に作られている。そして松興館と宝物殿を結ぶ回廊の先に次の「上古の庭」がある。もうひとつの「蓬莱の庭」へは、「上古の庭」の築地塀の外側の坂道を登り、磐座登山口の前を過ぎる。さらに宝物館と葵殿の裏側… ►続きを読む
松尾大社 松風苑
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭全景 昭和を代表する作庭家の重森三玲は、庭園史家として、初期と最晩年の2度にわたり研究成果を著している。最初は昭和11年(1936)より刊行開始した日本庭園史図鑑(有光社)である。未だ科学的分析手法を用いた日本庭園研究がなかった時代に、日本庭園史図鑑は画期的な研究書であった。この執筆のために重森は実に日本全国350の庭を訪れ調査を行い、その内から243庭を選出し、全26巻に纏めた。刊行を終えた昭和14年(1939)は第二次世界大戦を間近に控えた混乱した時期でもあった。 東福寺方丈… ►続きを読む
松尾大社 その3
松尾大社(まつおたいしゃ)その3 2009年12月9日訪問 松尾大社 本殿 大宝元年(701)秦都理は松尾社の社殿を営んでいる。その後数度の火事にあっているが、弘安8年(1285)3月の火事により、社中ことごとく焼亡している。現在、重要文化財に指定されている現在の本殿は天文11年(1542)の建造で、桁行三間、梁行四間の一重檜皮葺の両流造である。箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝の斗組や蟇股、手挟などの優れた彫刻意匠に室町期の特色を見ることができる。なお松尾大社… ►続きを読む
松尾大社 その2
松尾大社(まつおたいしゃ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 楼門 松尾大社では、祭神の大山咋神を中心に、この地や秦氏との関係について書いてきた。これが伝説上の松尾社の起源となっているが、伊呂波字類抄には下記のように記されている。 本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、 立阿礼居斎子供奉 飛鳥時代の最末期となる大宝元年(701)に秦都理が社殿を営み、山頂附近の磐座から神霊を移している。すなわち現在の松尾大社の創建より以前から松尾山の頂上近くの、秦氏本系帳では日崎の峰とよばれる場所に磐座があり、ここが松尾社の旧鎮座地であった。この遷宮は持統天皇8年(694)の藤… ►続きを読む
松尾大社
松尾大社(まつおたいしゃ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 二之鳥居 阪急電鉄嵐山線を松尾駅で下車する。松尾の町並みで記したように、南北に走る京都府道29号宇多野嵐山山田線に東側から四条通が突き当たる。四条通は八坂神社を始点としこの松尾大社を終点とする。いずれにも共通するのは楼門と鳥居に用いられた朱色と背景地としての山であろうか。 松尾大社 一之鳥居脇の石碑 一之鳥居の脇には松尾大社と記された社号標とともに大きな一組の瓶子が置かれている。さすがにお酒の神様の社前であることを想わせるのに十分な大きさである。鳥居を潜ると左手に交番と2つの大きな石碑が見える。その傍らに忘れ去られ… ►続きを読む
松尾の町並み
松尾の町並み(まつおのまちなみ) 2009年12月9日訪問 松尾の町並み 松尾大社の一之鳥居 八条ヶ池の南半分に面する錦水亭の外観を眺めた後、長岡天満宮の中堤の入口に建つ大鳥居を潜り、天神通を東に進む。阪急京都本線の長岡天神駅までは200メートル程度である。ここより京都本線に乗車し、嵐山線の松尾駅を目指す。京都本線から直接嵐山に向う直通列車は行楽時期だけの臨時列車だけで、通常は桂・嵐山間の折り返し運行となっているため、桂駅で嵐山線に乗り換えると、上桂の次が松尾駅となる。 松尾大社のある場所は桂川の右岸でも、西側から松尾山・嵐山が迫り出しているため、平地の部分が最も少なくなっている。松尾… ►続きを読む
錦水亭
錦水亭(きんすいてい) 2009年12月9日訪問 錦水亭 八条ヶ池の南半分に面して錦水亭の建物が建てられている。もともと、筍料理で有名内老舗であることは承知していたので、その風情を楽しむだけで食事を頂く予定は立ててなかった。それでも帰宅後に錦水亭の公式HPを確認するとランチタイムに訪れない限り、夜の会席料理にはとても手を出せないことが分かった。 錦水亭 錦水亭 長岡京市の公式HPには「竹とたけのこ」というページが掲載されている。いまや筍は長岡京市の名産品のひとつとなっているため、市のHPに掲載されていてもおかしくはない。現在、日本で食用にされる筍の代表的なものは、中国から… ►続きを読む
長岡天満宮 その2
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)その2 2009年12月9日訪問 長岡天満宮 拝殿 菅原道真の配流に同行した中小路宗則は、道真の没後に再び開田に戻り聖廟を建てている。これが現在の長岡天満宮につながっていったと考えられている。宗則の末裔は、長岡天満宮の神官を務める一方、土豪として勢力を拡大し応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場するに至る。中小路氏が城主を務めた開田城については、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)4月27日条に以下のような記述がある。 この山名是豊による攻撃が開田城の初見とされている。このことより、これ以前より開田城は存在しており、興福寺大乗院の門… ►続きを読む
長岡天満宮
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう) 2009年12月9日訪問 長岡天満宮 正面鳥居 八条ヶ池中央の中堤を渡り、長岡天満宮の境内へと入っていく。この中堤の両側には樹齢100年を超えるキリシマツツジが植えられているが、生憎訪問したのが冬であったため丈の高い生垣としか見えなかった。樹齢百数十年ということは明治以前に植えたものかもしれない。 長岡天満宮 キリシマツツジと正面鳥居 長岡天満宮 中堤の石橋 長岡天満宮の公式HPによると、御祭神は菅原道真公で御例祭は10月9日となっている。もともと菅原道真を祭神とする神社を天満宮あるいは天神社と呼び、大宰府天満宮、北野天満宮そして防府天… ►続きを読む
八条ヶ池 その2
八条ヶ池(はちじょうがいけ)その2 2009年12月9日訪問 八条ヶ池 水上橋 寛永15年(1638)長岡天満宮の境内東に池を開削した八条宮智仁親王は、正親町天皇第5皇子である誠仁親王の第6皇子として天正7年(1579)に生まれている。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)で、同母兄に後陽成天皇や定輔親王・勝輔親王・邦慶親王らがいる。父の誠仁親王については、大雲院の項で記したように、天正10年(1582)6月2日、すなわち本能寺の変が起きた日、二条新御所には皇太子であった誠仁親王が在宅していた。 もともと二条晴良・昭実父子の邸宅であったが、織田信長が上洛時の宿舎とするため、京都所司… ►続きを読む
八条ヶ池
八条ヶ池(はちじょうがいけ) 2009年12月9日訪問 八条ヶ池 乙訓寺より再び文化センター通りを南に歩き、八条ヶ池に至る。長岡天満宮の歴史については次の訪問地であるため、そこで記すこととする。しかし創設時期を特定できる明らかな記録は、どうも残っていないようだ。それに対してこの八条ヶ池の開削については以下のようなことが残されている。 八条ヶ池 中堤の北側 八条ヶ池 中堤の南側は錦水亭 明治3年(1870)にまとめられた長岡天満宮の由緒書上によると、元和9年(1623)境内一帯は八条宮智仁親王の家領となっている。この家領は後に京極宮に継がれていく。長岡京市観光協会のブログ … ►続きを読む
乙訓寺 その2
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら)その2 2009年12月9日訪問 乙訓寺 本堂 乙訓寺では、既に古い時代より多くの人々が乙訓寺の周囲に住んでいたことについて記してきた。縄文時代から古墳時代にかけての今里遺跡、5世紀前半の今里車塚古墳や6世紀後半から7世紀初頭にかけて造営された今里大塚古墳などからも人々の営みが良くうかがえる。また現在の乙訓寺本堂の北側から長岡第三小学校にかけての乙訓寺遺跡から、長岡京造営以前よりこの地に寺院が存在していたことも分かっている。昭和41年(1966)から始められた発掘調査により、講堂と推定される大規模(桁行九間27メートル、梁行四間12メートル)… ►続きを読む
乙訓寺
真言宗豊山派 大慈山 乙訓寺(おとくにでら) 2009年12月9日訪問 乙訓寺 山門 光明寺より光明寺道を東に進み、光明寺道の交差点で右折し文化センター通りに入る。そのまま300メートルほど南に下り、今里大通りを左折し東に進む。200メートルくらい歩くと、歩道上に小さな道標が建てられている。これに従い左手の細い道に入って行くと正面に乙訓寺の赤い山門が現れる。 乙訓寺 本堂 乙訓寺 本堂裏 延暦3年(784)の長岡京造営以前より、すでに乙訓の地には、多くの人々が住んでいた。乙訓寺のある台地およびその東側の台地下の傾斜面には、縄文時代から古墳時代にかけての集落跡を見ることが出… ►続きを読む
乙訓の町並み
乙訓の町並み(おとくにのまちなみ) 2009年12月9日訪問 乙訓の町並み 光明寺道 粟生のあたり 光明寺の総門を潜り、光明寺道を東に進む。次の訪問地の乙訓寺までは1.6Km程度なので歩いて移動する。JR長岡京駅からバスに乗車して光明寺まで来たが、その道を途中まで戻ることになる。この光明寺道は西国街道の五辻から光明寺へと続く道である。現在では光明寺前と光明寺道の間は京都府道10号大山崎大枝線に含まれているようだ。そのため光明寺の総門を出て府道10号を東に進むという言い方になるのかもしれない。 乙訓の町並み 文化センター通り 今里のあたり 府道10号大山崎大枝線は、文字通り大山崎… ►続きを読む
京都の名庭巡り その6
京都の名庭巡り その6 龍安寺 京都の名庭巡り その1 から 京都の名庭巡り その6 までお読み頂きありがとうございました。今回のランキング作成するために参照した資料等を表にまとめておきました。もし庭園とか建築に御興味があれば、ご参照下さい。京都の名庭巡り作成資料。。 126 浄瑠璃寺庭園 127 裏千家庭園 128 官休庵庭園 129 酬恩庵(一休寺)方丈庭園 130 酬恩庵廟前庭園 131 小松亭址積翠園庭園 132 真如院庭園 133 表千家庭園 134 霊雲院庭園 135 勧持院庭園 136 西翁院庭園 137 泉涌寺練成道場前庭園 138 藪内宗家… ►続きを読む