カテゴリー:訪問地
晃庵
晃庵(こうあん) 2008年11月22日訪問 晃庵 店頭に建つ「坂本龍馬妻お龍実家楢崎家跡」の碑 建仁寺 両足院の拝観を終え、ライトアップによる夜間拝観が始まるまでの間に、少し早いが夕食をとることとした。建仁寺の北門を出ると祇園の最も華やかな花見小路通に出る。毎回同じことを感じるが、なんとも不思議な空間である。聖と俗は表裏一体ということは、まさにここで実感できる。人通りの多い四条通を避け、四条通の南の道を西に向かい、四条大橋の一本下流の橋を渡る。そして、木屋町通から分かれる西石垣通に入ると四条通の南側に延びる先斗町に入る。わずか100メートルもしないうちに四条通に出てしまう。四条通に出… ►続きを読む
建仁寺 両足院
建仁寺 両足院(けんにんじ りょうそくいん) 2008年11月22日訪問 建仁寺 両足院 書院前庭 金戒光明寺大方丈の東庭 紫雲の庭を後にして、次に予定していた清水寺成就院を目指す。本来ならば山門を潜り春日北通に面した高麗門を通るところだが、放生池の南側から真宗大谷派岡崎別院と岡崎神社の間の坂道を下る。突き当たった丸太町通を東に進み、天王町の交差点辺りでタクシーを見つけ乗車する。予め運転手さんより、清水寺の周辺は人混みが凄く近くまでは行けないとの断りがあったが、ともかく五条大橋をわたり進めるところまでお願いした。車は東大路通を通り過ぎ、鴨川沿いの川端通を南下する。五条通に入ると、車はな… ►続きを読む
金戒光明寺 紫雲の庭
浄土宗大本山 紫雲山 金戒光明寺 紫雲山の庭(こんかいこうみょうじ しうんのにわ) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺 紫雲の庭 真如堂から金戒光明寺へと続く道の東側には会津藩殉難者墓地、そして西側にはその墓地を管理している西雲院がある。これを過ぎると金戒光明寺の巨大な墓地の中に入っていく。東側の高台の上には三重の文殊塔が聳える。 金戒光明寺 墓地の中の参道 金戒光明寺 紅葉の墓地 現在は宅地化が進み判然としない状態となっているが、吉田神社のある吉田山から真如堂を経由して金戒光明寺に至る一帯は、白川通を挟んでいる西側の東山系の先端が、平坦な吉田、岡崎に延びてきたように… ►続きを読む
金戒光明寺 西雲院
金戒光明寺 西雲院 (こんかいこうみょじさいうんいん) 2008年11月22日訪問 金戒光明寺西雲院 真如堂から金戒光明寺の境内に入り、御影堂へと続く道の途中に会津藩殉難者墓地がある。道の東側に墓地、そして西側の塀の中が金戒光明寺の塔頭である西雲院の境内となっている。また会津藩殉難者墓地自体も西雲院の墓地の一部である。 西雲院の開山である宗厳は天正3年頃(1575)朝鮮に生まれたとされている。文禄・慶長の役の時に秀吉の家来小野木重勝に捕らえられ、日本に渡っている。その後、蜂須賀正勝(小六)の長男である家政が宗厳を北政所に献上し、北政所の命により滝川雄利の娘の使用人となっている。大変器量… ►続きを読む
会津藩殉難者墓地 その2
会津藩殉難者墓地 (あいづはんじゅんなんしゃぼち) その2 2008年11月22日訪問 会津藩殉難者墓地 真如堂から金戒光明寺の境内につながる道の左側に会津藩殉難者墓地がある。 金戒光明寺にある会津藩殉難者墓地は、坂本龍馬や天誅組の祀られている霊山墓地と違い、訪れる人も疎らで永久の眠りを護る静寂さを常に保っている。前の道は真如堂から金戒光明寺へ抜ける裏道になっているので、ある程度の数の人が行き交っているが、この墓地内で人に出会うことは少ない。恐らく明治維新史に名を留めることのない無名の人々の墓であること、そして旧幕府軍として鳥羽伏見で戦い、敗れ去った人々の慰霊の場であるからかもしれない… ►続きを読む
真正極楽寺 その2
天台宗鈴聲山 真正極楽寺 (しんしょうごくらくじ) その2 2008年11月22日訪問 真正極楽寺 櫻本陵から、再び哲学の道に戻り、そのまま東に進む。鹿ケ谷通と白川通を横断すると次第に上り坂になってくる。そのまま進むと、北側から真如堂の境内に入っている。紅葉の名所だけに、やや盛りを過ぎているものの人出は多い。今回は金戒光明寺へ急ぎ、本堂の前を通り西雲院へ出ることとする。 真正極楽寺 白川通からの坂道 真如堂は本堂を意味する言葉で、本来の名称は、鈴聲山 真正極楽寺という天台宗の寺院である。永観2年(984)比叡山の僧である戒算が比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を一条天皇生母である東三… ►続きを読む
櫻本陵 その2
櫻本陵 (さくらもとのみささぎ) その2 2008年11月22日訪問 櫻本陵 安楽寺の石段を下りた先に、東西50メートル南北100メートル位の大きな緑地が残っている。既に周囲は宅地化された中に、矩形の敷地が手付かずに残されている。この冷泉天皇の櫻本陵の正面は、哲学の道をよーじや銀閣寺店の角から東に入った先にある。 冷泉天皇は天暦4年(950)村上天皇の第2皇子・憲平親王として生まれる。生後間もなくして、第1皇子の広平親王を押しのけて立太子となる。これは時の権力者である藤原実頼・師輔兄弟の力が働いていたと考えられている。広平親王の母は大納言藤原元方の娘・祐姫であり、憲平親は藤原師輔の娘・… ►続きを読む
安楽寺 その2
浄土宗住蓮山 安楽寺 (あんらくじ) その2 2008年11月22日訪問 安楽寺 方丈の東庭 霊鑑寺門跡の石段を下り、道を北に進むと右手に安楽寺の大樹と石段、その上に建つ萱葺きの山門が現れる。 安楽寺 山門前 拝観者の途切れることがない 安楽寺は2008年5月に訪れたが、霊鑑寺と同様に非公開のため山門の写真を撮影し、中の様子を伺うだけであった。こちらの寺院も春と秋に特別公開が行われる。春は桜、躑躅、皐の美しい時期に土日と祝日のみ公開される。夏は7月25日に行われる鹿ケ谷カボチャ供養の日、そして秋は紅葉の11月から12月初旬の土日、祝日に公開される。前回の5月の訪問は丁度、躑躅と… ►続きを読む
霊鑑寺門跡 その2
臨済宗南禅寺派円成山 霊鑑寺門跡 (れいかんじもんぜき) その2 2008年11月22日訪問 霊鑑寺門跡 中門から庭園を眺める 大徳寺の塔頭 総見院を出て再び東門を出てタクシーを捜す。大徳寺を訪問する観光客は、この東門の前にある駐車場で下車するため、乗車客待ちのタクシーが停まっている確率が高い。 タクシーは霊鑑寺門跡と法然院を目指して北大路通を東に進む。賀茂川と高野川を越えると一乗寺町に入る。白川通で右折し南に下り、今出川通の交差点から鹿ケ谷通に入る。鹿ケ谷通は観光客の多い哲学の道の西側を平行に走る道である。そして市立第三錦林小学校の角を東に入り、霊鑑寺門跡の石段の前に約30分で到着す… ►続きを読む
大徳寺 総見院
大徳寺 総見院 (だいとくじ そうけんいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 総見院 興臨院を出て、三門、仏殿そして法堂を左手に見ながら北に進む。孤篷庵へと続く東西路を西に曲がると右手に総見院の山門が見える。通常非公開の塔頭であるが、何かの催しが行われているのか、門が開いているので少し中を覗いてみる。 総見院は、大徳寺117世住持古渓宗陳と開山として、天正11年(1583)織田信長の一周忌の追善のために秀吉によって創建されている。そのため寺名は信長の戒名 総見院殿贈大相国一品泰厳大居士に由来している。しかし天正16年(1588)後で触れるように古渓は秀吉の怒りに触れ九州に配流される… ►続きを読む
大徳寺 興臨院 その2
大徳寺 興臨院 (だいとくじ こうりんいん) その2 2008年11月22日訪問 大徳寺 興臨院 南庭 黄梅院を出て、次の訪問予定の塔頭興臨院を目指して、龍源院の前を過ぎ勅使門と三門の金毛閣に向かう。勅使門の西側に位置する興臨院には、既に2008年5月に訪問しているので、このブログを書き始めてから二度目となる。通常非公開の塔頭であるが春と秋に特別公開が行われる。前回は春で今回は秋の拝観となるので、季節の違いが感じられるのではないだろうか。 大徳寺 黄梅院 新しい庫裏 大徳寺 興臨院 方丈玄関の唐門 興臨院は天文年間(1521~1533)に、能登の守護・畠山義総が大徳寺86… ►続きを読む
大徳寺 黄梅院
大徳寺 黄梅院 (だいとくじ おうばいいん) 2008年11月22日訪問 大徳寺 黄梅院 庫裏前の庭 東光寺の山門を出て、次の訪問地である大徳寺を目指す。天得院の角を西に曲がり、中門を潜り本町通に出る。本町通を北に進み、九条通の高架下にある伏水街道第二橋の親柱を見ながら歩くと、左手に京阪電鉄東福寺駅が現れる。電車はJR東海道本線の下を潜り、塩小路通の手前から地下に入っていく。鴨川の東岸川端通の下を北に進み、終着駅の出町柳駅で下車する。地上に出てタクシーに乗車し、賀茂川の西岸の出雲路を北上し北大路通を左折すると、およそ15分で大徳寺の東門に到着する。 黄梅院は永禄5年(1562)織田信長… ►続きを読む
東福寺 東光寺
東福寺 東光寺 (とうふくじ とうこうじ) 2008年11月22日訪問 東福寺 東光寺 天得院の山門を出て臥雲橋から続く南北路を南に下ると、六波羅門と勅使門の手前の右手に東光寺の山門が見える。通常は非公開の塔頭であるが、この11月は公開しているという噂を聞いて訪れたが、どうも公開していないようだったので、庫裏前の路地のみを拝見させていただいた。 東福寺 東光寺 山門 東福寺 東光寺 庫裏へ続く路地 東光寺は、鎌倉時代末期の応長元年(1311)東福寺第7世無為昭元(大智海禅師)によって創建された。無為昭元は、寛元3年(1245)生まれ、東福寺の開山聖一国師(円爾)の法を嗣ぎ… ►続きを読む
東福寺 天得院
東福寺 天得院(とうふくじ てんとくいん) 2008年11月22日訪問 東福寺 天得院 方丈南庭 手前にチャボヒバの木が見える 即宗院の山門を出て、偃月橋を渡り、方丈と本堂の間を西に進む。日下門を出て右側に天得院の山門が見える。 前回東福寺を訪れた際は公開されていなかったため、山内の塔頭のひとつとして紹介はしたが、今回は龍吟庵や即宗院とともに、秋の特別公開が行われているので訪問する。 東福寺 天得院 山門 天得院の公式HPによると正平年間(1346~70)玉渓慧格をとして、東福寺第30世無夢一清によって開創された道場とされている。無夢一清は永仁2年(1294)に生まれ、玉渓慧&… ►続きを読む
東福寺 即宗院 その3
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その3 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 公開されていないが、即宗院墓地には、道島五郎兵衛、奈良原喜左衛門、田中新兵衛そして中井弘(桜洲)の墓が残されている。 文久2年(1862)4月23日伏見の旅館・寺田屋に集まった薩摩藩尊攘派を鎮撫するため、道島五郎兵衛は大山綱良や奈良原繁と共に島津久光によって使わされた。急進派の有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介、西田直五郎、弟子丸龍助、橋口伝蔵の6名が死亡、重傷を負った田中謙助と森山新五左衛門の2名も切腹、さらに大阪藩邸で療養していたため寺田屋に参加できなかった山本四郎も藩命に背き抵抗した後… ►続きを読む
東福寺 即宗院 その2
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑 即宗院と島津家の関係で記しておかなければならない出来事が幕末から維新にかけて起きている。 まず幕末の勤王僧・月照について始めなければならないだろう。文化10年(1813)大坂の町医師玉井宗江の子として生まれている。文政10年(1827)清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)と称する。天保6年(1835)蔵海の死去により成就院持住となる。一山の改革に着手するも成功せず、嘉永6年(1853)に出奔する。翌安政元年(1854)境外隠居の処分を受ける。 この頃より… ►続きを読む
東福寺 即宗院
東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 庭園 龍吟庵の中門を出て、小振りな表門を背にして偃月橋を眺めると、左手に即宗院の山門が石段の上に見える。即宗院は最勝金剛院とともに東福寺の境内の中でも東端にあるため、東山の峰々の斜面上に位置する。この地形的な特徴は、泉涌寺の塔頭・悲田院から日吉ヶ丘高校の南東を通り、東福寺へと向うと即宗院の高台に突き当たることで良く分かる。つまり即宗院の境内の東半分は、鬱蒼とした樹木に覆われているが、明らかに日吉ヶ丘高校や周囲の民家に比べて小高くなっている。どうも東福寺自体が一様な傾斜面上にあるわけでなく、悲田院・… ►続きを読む
東福寺 龍吟庵 その2
東福寺 龍吟庵 (とうふくじ りゅうぎんあん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵 方丈側から偃月橋を渡り切ると、右手の石段の上に即宗院の山門、正面の石段の上には龍吟庵の方丈へと続く表門が現れる。もともと常時公開していないためか、この表門の左手に仮設の券売所が作られている。緩やかな反りを持つ杮葺切妻屋根の表門は、桃山時代に造られ、現在は重要文化財に指定されている。この表門は偃月橋を渡る手前から、方丈の大屋根の手前に美しい姿を現しているが、公開時は券売所が邪魔をしてしまう。ここで拝観券を購入し、斜め右手に続く敷石を進み中門を潜る。右手の庫裏と正面の方丈玄関へ… ►続きを読む
東福寺 龍吟庵
東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん) 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵 龍吟庭 2008年秋の特別拝観を見るため、6時発の新幹線で東京を出て京都を訪れる。京都駅の八条口より徒歩で東福寺に向う。新幹線からJR奈良線に乗り換えて東福寺駅で下車することも可能だが、乗り換えの時間を考えると歩くのとそれ程変わらないので、今回は歩いて東福寺に行くこととした。東洞院通の京都駅から先の部分は竹田街道とされているが、この道を南に下り九条通を東に入る。 東山橋から鴨川を眺める 東福寺駅の踏切 電車が来る直前 鴨川に架かる東山橋を渡ると、JR奈良線と京阪電鉄の東福寺駅の踏み切… ►続きを読む
国立京都国際会館
国立京都国際会館 (こくりつきょうとこくさいかいかん) 2008年05月20日訪問 国立京都国際会館 宝ヶ池の北側に昭和41年(1966)建設された国立京都国際会館へは、いつかは訪れなければいかないと思いつつ、なんとなく足が向かないまま未訪問のままであった。それは地理的な理由もあったが、むしろどうしても見なければという積極的な気持ちを欠いていたためであろう。今回も近くまで来たついでに遠くからだけでも眺めておこうという気楽な気分になれたためである。 国立京都国際会館 戦後の建築設計競技は、昭和23年(1948)の世界平和記念聖堂と広島平和記念公園、昭和27年(1952)丸の内の東… ►続きを読む