カテゴリー:訪問地
京都御所 その13
京都御所(きょうとごしょ)その13 2010年1月17日訪問 京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影 京都御所 その12では長州と因州そして有栖川宮家との関係を見てきた。因州鳥取藩と有栖川宮家の関係は、水戸藩と有栖川宮家の縁戚関係が基となっている。つまり徳川斉昭の五男・慶徳が池田家の養子となったことで、水戸との関係が因州に継承されたと考えてもよいだろう。そして藩内の急進的な尊皇攘夷派が、因習的な藩主側近を武力で排除する本圀寺事件を境にして、事件の実行犯である河田等と宮家が直接結ばれるようになっている。さらに中村武生氏の「寺田屋事件の研究」(講談社現代新書2131 2011年刊)によ… ►続きを読む
京都御所 その12
京都御所(きょうとごしょ)その12 2010年1月17日訪問 京都御所 清涼殿 2014年10月8日撮影 京都御所 その10とその11で7月17日から18日掛けての幕府側と長州の交渉が決裂するまでを見てきた。特に一橋慶喜としては都合7回にわたる説諭も功を奏さず、ついに開戦を迎える。この項では長州と因州そして有栖川宮家との関係がいかに形成されていったかを記す。 長州藩が支援を依頼した因州鳥取藩、津和野藩、備前岡山藩そして対馬藩はいずれも長州と同様の西国の外様大名である。例えば長州と因州の間には石見浜田藩と出雲松江藩が存在するので、必ずしも隣接した藩に対して支援を求めた訳ではない。この二藩… ►続きを読む
京都御所 その11
京都御所(きょうとごしょ)その11 2010年1月17日訪問 京都御所 諸大夫の間 2014年10月8日撮影 京都御所 その10は7月18日までの大まかな長州の進発に至る経緯である。繰り返しにはなるが、桂小五郎は八月十八日の政変以降、京摂に残り政情分析を続けてきた。しかし文久3年(1863)10月3日に帰国し、一時は諸藩に対して長州藩の雪冤を訴える活動に従事している。そして元治元年(1864)正月12日には再び京に戻るべく山口を発ち、18日に入京を果たしている。ここから甲子戦争までの7ヶ月間、京に於いて政情を観察し、長州藩を支援する諸藩及び堂上人の組織化を計る役割に就いている。 これに… ►続きを読む
京都御所 その10
京都御所(きょうとごしょ)その10 2010年1月17日訪問 京都御所 承明門より紫宸殿を臨む 2014年10月8日撮影 京都御所 その8と、その9で、禁裏御守衛総督である一橋慶喜を中心に守衛側の行動について書いてきた。この項より、福原越後軍、国司信濃軍そして真木・久坂軍以外の長州藩と長州支援の諸藩の動きについて書いてみる。 元治元年(1864)7月18日の前日、つまり17日の夜から18日の暁にかけて宮中に於いて評定が行われている。一橋慶喜は、この評定が始まる前に水戸藩士大野謙介をして、長州藩留守居乃美織江を説き、伏見・嵯峨に赴き撤兵の周旋を行わせようとしている。これは慶喜が行った通算… ►続きを読む
京都御所 その9
京都御所(きょうとごしょ)その9 2010年1月17日訪問 京都御所 常御殿 2008年5月13日撮影 京都御所 その8では、禁裏御守衛総督である一橋慶喜に、伏見、山崎に屯集する長州兵への対応が任された後の交渉から元治元年(1864)7月18日深夜の参内、そして共に病にあった松平容保と松平定敬の三大までを見てきた。ここでは参代後の一橋慶喜の行動と十津川郷士による鳳輦奪回の企てについて書いて行く。 戎衣に着替えた一橋慶喜は、手兵を率いて諸門の防御を巡検している。歩兵隊100人余、講武所の小筒組50人、遊撃隊150人、別手組100人、床几隊100人、そして松浦作十郎、原市之進、梅沢孫太郎と… ►続きを読む
京都御所 その8
京都御所(きょうとごしょ)その8 2010年1月17日訪問 京都御所 建春門の内側松平容保は左側の穴門から参内 2008年5月13日撮影 京都御苑 鷹司邸跡 その3の真木・久坂軍の山崎への撤退、そして その4 における久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一の死を以って、長州藩が引き起こした甲子戦争は一応の終結を見た。この項からは、上記中に書き尽すことのできなかった一橋慶喜の7月19日の行動、そして桂小五郎と因州藩等との密約、さらには尊攘派の公家衆の処罰について書いてみる。 元治元年(1864)7月19日に最も華々しく活躍したのは一橋慶喜であった。もしこの日の行動が無ければ、第15代将軍に就任… ►続きを読む
京都御苑 鷹司邸跡 その4
京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡 京都御苑 鷹司邸跡 その2 と その3 では、真木・久坂軍の堺町御門での戦闘とその撤退状況について書いてみた。この項では久坂玄瑞、寺島忠三郎そして入江九一の最期について記す。 中原邦平の「忠正公勤王事蹟」(防長史談会 1911年刊)には、久坂玄瑞は「軍さをする気がなかつた」という記述がある。この見立ては、ある面では正しかったのではないだろうか。鷹司邸に入った久坂は、参内の準備中の鷹司公に御供を願出ている。もし御所内に入り、毛利家に掛けられた疑念について反論する機会が与えられた… ►続きを読む
京都御苑 鷹司邸跡 その3
京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡 堺町御門での戦闘を決したのは、やはり火力であった。山川浩の「京都守護職始末」(「東洋文庫 京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1965年刊))には下記の様に記している。 凝華洞には、当時の巨砲、十五ドエム砲が一門備えてあった。わが人砲の打手らは、これを西殿町の賀陽殿の前に据え、生駒隊と手はずをきめて、鷹司邸の西北角から攻め入ることを約束した。十五ドエム砲数発を放つと、はたして塀がくずれた。九条邸内のわが兵は邸の門を開き、鷹司邸に攻めかかった。わが甲士渡辺弥右衛門が門… ►続きを読む
京都御苑 鷹司邸跡 その2
京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 鷹司邸跡 京都御苑 鷹司邸跡では、真木・久坂軍の進撃経路について推定した。この項では堺町御門での戦闘状況と山崎への撤退について記して行く。 山崎の軍の大将は家老の益田右衛門介であったが、進軍には加わっていない。「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))には、石清水山上に滞在していた益田隊は社頭に貝曲を奉納すると称して申刻(16時半)後一曲を奉し一同平服にて橋本より山崎に渡り山上に陣し、双方に手配り軍令を発したとしている。真木直人の「天王山義挙日記… ►続きを読む
京都御苑 鷹司邸跡
京都御苑 鷹司邸跡(きょうとぎょえん たかつかさていあと)2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 門内から堺町通を眺める真木・久坂軍が進行した柳馬場通は一本東側 京都御苑 清水谷家の椋 その4では、来嶋又兵衛の蛤御門内での奮戦とその最期を見てきた。闘将来嶋の討死により、国司軍は崩れ落ちて行った。烏丸通を北から攻めてきた薩摩藩の圧倒的な砲撃に遭い、多大な損害を被った国司信濃は遂に支えることができず、中立売通を西に天龍寺を目指し敗走していった。その際に放置された国司信濃の具足櫃から黒印の軍令書が発見されている。野宮定功日記、7月22日の条に下記のように記されている。 一 十九日於中… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋 その4
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 2014年10月8日撮影 京都御苑 清水谷家の椋 その3では、公家門前の戦いに薩摩藩が参戦したことにより形勢が一変し、御所内から長州兵を追い出した上で、圧倒的な火力を以って中立売烏丸通に詰めていた国司軍の後備を掃討している。この項では来嶋又兵衛の戦いぶりとその最期について書いてみる。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製 先ずは末松謙澄著の「防長回天史」(「修訂 防長回天史 第四編上 五」(マツノ書店 1994年覆刻))から見て行く。末松は既に何回か触れ… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋 その3
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 京都御苑 清水谷家の椋 その2で記したように、北から公家門の支援に駆け付けたのは乾御門の守衛についていた薩摩兵であった。この模様は桑名藩の加太邦憲が「維新史料編纂会講演速記録」(「続日本史籍協会叢書 維新史料編纂会講演速記録 一」(東京大学出版会 1911年発行 1977年覆刻))で以下のように述べている。 此時南方三丁程離れて蛤門の戦争が始まりましたので、其砲撃が頻に聞えました。さうしますと公卿門前に居りました諸藩の兵が其音に驚いて皆崩れ立ち、北へ遁れて一橋兵を圧迫… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋 その2
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 駒札 京都御苑 清水谷家の椋では、清水谷家がこの地に移った時期の推定と椋の木の位置に付いて考えてみた。清水谷家が賀陽宮邸跡から御所の築地南西角に引っ越してきたのは、およそ宝暦13年(1763)から明和6年(1769)の頃と考えた。元の邸宅の敷地に姉小路定子の准后御殿が造営されたための配置替えであったと思われる。この後、天明8年1月30日(1788)に団栗焼けとも呼ばれる天明の大火が発生している。鴨川東側の宮川町団栗辻子で発生した火災は鴨川を越えて河原町、木屋町を焼き、… ►続きを読む
京都御苑 清水谷家の椋
京都御苑 清水谷家の椋(きょうとぎょえん しみずだにけのむく) 2010年1月17日訪問 京都御苑 清水谷家の椋 京都御苑 蛤御門で来嶋隊の築地内闖入までを見てきた。この清水谷家の椋の項では守衛側の反撃から国司軍の崩壊までを追って行く。 国司軍の攻撃箇所 地図:京都 1889年製 現在、蛤御門より御苑内に入り御所方向を眺めると御所の先に仙洞御所の築地の北西角と東山の山並みが見える。この眺めを遮るものは御所の南西角にある巨木のみである。文久3年(1863)に作られた「内裏図」を見ると、このあたりに清水谷家邸があったことが分かる。樹齢300年と云われる椋の木は、幕末でも150年近く… ►続きを読む
京都御苑 蛤御門
京都御苑 蛤御門(きょうとぎょえん はまぐりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 蛤御門 京都御苑 下立売御門と その2を使って、国司隊と児玉隊の戦闘を見てきた。中立売御門を攻めた国司隊については、山川浩の「京都守護職始末」(東洋文庫 「京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記」(平凡社 1966年刊))でも「中立売門の筑前兵を撃ち破り、門内に闖入してきた。また、ほかの一手は、中立売門の南にある烏丸邸の裡門から邸内に闖入し、それから日野邸の正門を押しひらき、唐門を守衛していたわが藩の内藤信節の軍に砲撃をしかけてきた。」という記述があることから、中立売御門を破って門内に侵入したと考… ►続きを読む
京都御苑 下立売御門 その2
京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 下立売御門 京都御苑 下立売御門で「京都守護職始末」の一文を引用したが、その中に出てくる「新在家の砲声」を明らかにするため、次に下立売門周辺での戦闘状況に目を移す。「元治夢物語」では長州兵を待ち受ける守衛とこれに攻撃をかける児玉・来嶋隊を以下の用に描写している。 然る所に長州方、次第々々に御所近く進み来るよし、頻りに註進有ければ、「心得たり」と下立売御門までの間、築地の陰に鉄炮打手の者二、三十人宛まばらに埋伏させ、長州賊をそしと待かけたり。長州方には斯とも知らず、近々と寄かかれば、中… ►続きを読む
京都御苑 下立売御門
京都御苑 下立売御門(きょうとぎょえん しもだちうりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 下立売御門 京都御苑 中立売御門で書いたように、元治元年7月19日丑の刻(午前2時頃)に陣触れが出され、国司軍は1時間後の午前3時頃から進軍を開始したと考えられている。どの道を使用して洛中に入ったかは明らかでないが、現在のところ一条戻橋で国司信濃と来嶋又兵衛の隊が分かれたとする説を採用する書籍がやや多いように思える。天龍寺の総門から御所の蛤御門まで直線距離で凡そ7.5kmなので2時間程度の行軍で到着したと考えてよいだろう。 堀川通以東の国司軍の御所に至る進軍経路について見て行く。馬屋原二郎… ►続きを読む
京都御苑 中立売御門
京都御苑 中立売御門(きょうとぎょえん なかだちうりごもん) 2010年1月17日訪問 京都御苑 中立売御門 京都御苑 凝華洞跡 その5では朝議が長州藩討伐に決するまでの過程と甲子戦争の開戦となった福原越後軍の伏見街道での交戦状況を見てきた。福原軍は長州藩正規兵が主力であるため、開戦前から戦闘能力に疑問が持たれていた。そのため天龍寺に駐屯していた太田市之進、松本鼎三、阿武彦助等を急遽福原軍の梃入れとして加えている。その不安は見事に的中し、伏見から進撃を始めた福原軍はついに洛中に入ることもできずに包囲され消耗し、そして京外に追い落とされている。主将の福原越後は緒戦で狙撃に遭い、伏見へ下が… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その5
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 2014年10月8日撮影 京都御苑 凝華洞跡 その4では甲子戦争前夜の薩摩藩の動向について見て来た。既に薩摩にとって幕府の存在は無きも同然であり、朝廷を守護することこそが大義であり行動原則でもあった。このあたりが幕府と対立構造の上に存在意義を求めた長州藩とは思考自体が異なっていたと云ってもよいだろう。この項では朝議が長州藩討伐に決する過程から甲子戦争の開戦となった福原越後軍の交戦状況までを見ていく。 「朝彦親王日記」(「日本史籍協会叢書 朝彦親王日記 一」(東京大学出版会 19… ►続きを読む
京都御苑 凝華洞跡 その4
京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡 建礼門側からの眺め 京都御苑 凝華洞跡 その3では元治元年(1864)7月17日までの緊迫した状況を書いてきた。この項では薩摩藩の動向について見て行く。 朝廷内の動きは既に書いてきたように、長州藩を同情する者、あるいは武力衝突回避を望む者が下級公家を中心に増えてきた。これに対して諸藩はどのように捉えていただろうか?まず京都守護職の会津藩と京都所司代の桑名藩は長州藩討伐すべしとの強硬論派であった。これは八月十八日以降の政治情勢を継続し、なおかつ京都の治安を維持する役割を担っている… ►続きを読む