徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:京都府

東福寺 即宗院 その2

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 薩摩藩士東征戦亡之碑  即宗院と島津家の関係で記しておかなければならない出来事が幕末から維新にかけて起きている。  まず幕末の勤王僧・月照について始めなければならないだろう。文化10年(1813)大坂の町医師玉井宗江の子として生まれている。文政10年(1827)清水寺成就院蔵海の室に入り,得度して忍介(忍鎧)と称する。天保6年(1835)蔵海の死去により成就院持住となる。一山の改革に着手するも成功せず、嘉永6年(1853)に出奔する。翌安政元年(1854)境外隠居の処分を受ける。 この頃より… ►続きを読む

 

東福寺 即宗院

 

東福寺 即宗院(とうふくじ そくしゅういん) 2008年11月22日訪問 東福寺 即宗院 庭園  龍吟庵の中門を出て、小振りな表門を背にして偃月橋を眺めると、左手に即宗院の山門が石段の上に見える。即宗院は最勝金剛院とともに東福寺の境内の中でも東端にあるため、東山の峰々の斜面上に位置する。この地形的な特徴は、泉涌寺の塔頭・悲田院から日吉ヶ丘高校の南東を通り、東福寺へと向うと即宗院の高台に突き当たることで良く分かる。つまり即宗院の境内の東半分は、鬱蒼とした樹木に覆われているが、明らかに日吉ヶ丘高校や周囲の民家に比べて小高くなっている。どうも東福寺自体が一様な傾斜面上にあるわけでなく、悲田院・… ►続きを読む

 

東福寺 龍吟庵 その2

 

東福寺 龍吟庵 (とうふくじ りゅうぎんあん) その2 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵  方丈側から偃月橋を渡り切ると、右手の石段の上に即宗院の山門、正面の石段の上には龍吟庵の方丈へと続く表門が現れる。もともと常時公開していないためか、この表門の左手に仮設の券売所が作られている。緩やかな反りを持つ杮葺切妻屋根の表門は、桃山時代に造られ、現在は重要文化財に指定されている。この表門は偃月橋を渡る手前から、方丈の大屋根の手前に美しい姿を現しているが、公開時は券売所が邪魔をしてしまう。ここで拝観券を購入し、斜め右手に続く敷石を進み中門を潜る。右手の庫裏と正面の方丈玄関へ… ►続きを読む

 

東福寺 龍吟庵

 

東福寺 龍吟庵(とうふくじ りゅうぎんあん) 2008年11月22日訪問 東福寺 龍吟庵 龍吟庭  2008年秋の特別拝観を見るため、6時発の新幹線で東京を出て京都を訪れる。京都駅の八条口より徒歩で東福寺に向う。新幹線からJR奈良線に乗り換えて東福寺駅で下車することも可能だが、乗り換えの時間を考えると歩くのとそれ程変わらないので、今回は歩いて東福寺に行くこととした。東洞院通の京都駅から先の部分は竹田街道とされているが、この道を南に下り九条通を東に入る。 東山橋から鴨川を眺める 東福寺駅の踏切 電車が来る直前  鴨川に架かる東山橋を渡ると、JR奈良線と京阪電鉄の東福寺駅の踏み切… ►続きを読む

 

国立京都国際会館

 

国立京都国際会館 (こくりつきょうとこくさいかいかん) 2008年05月20日訪問 国立京都国際会館  宝ヶ池の北側に昭和41年(1966)建設された国立京都国際会館へは、いつかは訪れなければいかないと思いつつ、なんとなく足が向かないまま未訪問のままであった。それは地理的な理由もあったが、むしろどうしても見なければという積極的な気持ちを欠いていたためであろう。今回も近くまで来たついでに遠くからだけでも眺めておこうという気楽な気分になれたためである。 国立京都国際会館  戦後の建築設計競技は、昭和23年(1948)の世界平和記念聖堂と広島平和記念公園、昭和27年(1952)丸の内の東… ►続きを読む

 

宝ヶ池

 

宝ヶ池 (たからがいけ) 2008年05月20日訪問 宝ヶ池  岩倉の実相院門跡の前から京都バス・四条河原町行きに乗車し、最後の訪問地・蓮華寺を目指す。花園橋停留所で下車した後、高野川の上流に向かって歩いていく。叡山電鉄三宅八幡駅の前で高野川の北岸に渡り、大原から若狭へと続く国道367号・鯖街道を東に進む。蓮華寺の駐車場の先を左に入ると蓮華寺の山門が現れる。花園橋から徒歩15分、17時直前に山門を潜ることができたが、残念ながら拝観は既に終了した旨を告げられる。再訪を期して、京都バス・上橋停留所から国際会館駅行きに乗車する。まだ日が高いので宝が池公園を最後の訪問地とする。 宝ヶ池 叡山… ►続きを読む

 

岩倉の町並み

 

岩倉の町並み (いわくらのまちなみ) 2008年05月20日訪問 岩倉の町並み 実相院門跡への道程で見かけた古い道標  岩倉の地名の由来は、山住神社にある巨石が神体となり石座神社と称される古代磐座信仰、あるいは平安京造営時に一切経を納めるために京の四方の山上に設けられた4つの岩蔵の一つとされている。平安時代の文献には石蔵として現れ、現在使用している岩倉となるのは鎌倉時代以降である。5世紀後半以降に開拓が始まる。幡枝地区は早い時期から集落が形成されており、律令制のもとでこれらの集落は山城国愛宕郡栗野郷に属する。特に平安時代以降、岩倉は貴人の別荘地・隠棲地や病者のための静養地とされるとともに… ►続きを読む

 

実相院門跡

 

天台宗単立寺院 岩倉山 実相院門跡 (じっそういんもんぜき) 2008年05月20日訪問 実相院門跡 西庭園  円通寺の山門を出て、京都府道40号線下鴨静原大原線を少し大原方向に下り、民家の中に入っていく。円通寺 その2で触れたように、新しい道路が作られ、まさにこれから住宅街として開発されようとしていた。恐らく現在はさらに進んでいるのだろう。東の方向に進んでいくと10分程度で京都バスの円通寺道停留所に着いた。ここから岩倉の実相院に行くため、岩倉村松行きのバスに乗車し、国際会館駅前、岩倉駅を経由して岩倉中町で下車し、あとは徒歩で向かう。岩倉中道を北上し、途中で西側を並行に南北に走る京都府道… ►続きを読む

 

円通寺 その2

 

臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) その2 2008年05月20日訪問 円通寺 庭園  円通寺の項でも触れたように、後水尾上皇は正保4年(1647)より長谷と岩倉の山荘に行幸を重ねてきた。そして慶安元年(1648)4月にも長谷の山荘に行幸し田植えを見学している。翌慶安2年(1649)9月には東福門院、顕子内親王そして明正上皇を伴い長谷と岩倉を訪れている。上皇はこの行幸において幡枝で観月の宴を開いている。これが最初の幡枝への行幸であり、幡枝御殿の上御茶屋であったと考えられている。 円通寺 比叡山の眺め 正伝寺 比叡山の眺め  小沢朝江氏の論文「後水尾院の幡枝御殿につい… ►続きを読む

 

円通寺

 

臨済宗妙心寺派大悲山 円通寺 (えんつうじ) 2008年05月20日訪問 円通寺 庭園  八大神社の一の鳥居と一乗寺下り松を見た後、曼殊院道を西に進み白川通に出る。そのまま北大路通の交差点辺りまで白川通を南に下る。昼食を摂った後、タクシーに乗車し幡枝の円通寺を目指す。車は白川通を北上し、白川通北山の交差点で左折し、叡山電鉄と高野川を越えて北山通を西に走る。昨日、深泥池から上賀茂神社へ歩いた道と同じように、北山通から鞍馬街道に入り北上する。深泥池畔からさらに鞍馬街道を進む。道は次第に勾配をきつくしていくと共に、民家の数も少なくなっていく。白川通北大路から、およそ20分弱で円通寺の前に着いた… ►続きを読む

 

一乗寺下り松

 

一乗寺下り松 (いちじょうじさがりまつ) 2008年05月20日訪問 一乗寺下り松  八大神社の二の鳥居を潜り、詩仙堂を左手に見ながら坂を下っていくと、正面に大樹と共に八大神社の一の鳥居が見える。その横を過ぎると左手に松の木が植えられた石段が現れる。これが宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な一乗寺下り松である。 一乗寺下り松 八大神社の一の鳥居  今日、我々が知る宮本武蔵像は吉川英治によるところが大きい。その元となったのが、承応3年(1654)宮本武蔵の養子・宮本伊織が父武蔵の菩提を弔うために、豊前国小倉藩手向山山頂に建立した自然石に刻まれた顕彰碑文・小倉碑文である。高さ4.5メートル… ►続きを読む

 

八大神社

 

八大神社(はちだいじんじゃ) 2008年05月20日訪問 八大神社 拝殿前の石段  詩仙堂丈山寺の小有洞から前面道路に出る。川端通から東に延びる曼殊院道は白川通を越えて、一乗寺下り松で北に折れるが、この下がり松から東に続く道は詩仙堂の小有洞の前を通り、八大神社そしてさらに東の高台にある狸谷山不動院へと続く。 八大神社 一の鳥居 八大神社 二の鳥居  八大神社は、永仁2年(1294)祇園八坂神社から勧請し、祭神は素盞鳴命、稲田姫命、八王子命となっている。そのため八大神社と八坂神社の祭神は同じと考えられている。ちなみに八坂神社は、慶応4年(1868)の神仏分離令により、下記のよう… ►続きを読む

 

詩仙堂丈山寺 その2

 

曹洞宗大本山永平寺派 詩仙堂丈山寺 (しせんどうじょうざんじ) その2 2008年05月20日訪問 詩仙堂 書院庭園  山茶花の樹の元に小有洞の扁額が掛かる表門がある。これを潜り境内に入っていくと、両側の竹林の中を石段と真直ぐ伸びる参道が見える。突き当りの石垣を左に曲がると老梅関という中門が建物の前に現れる。雲形の2つの窓の左側は、蜂腰の額の架かる玄関である。この玄関はやや低く、蜂のように腰をかがめて出入りしたため名付けられている。残念ながら現在の拝観順路から外されているため、この玄関から入ることは出来ないが、この玄関越しに詩仙堂の有名な庭園が開けている。 建物の内部に入る。西側の8畳と… ►続きを読む

 

詩仙堂丈山寺

 

曹洞宗大本山永平寺派 詩仙堂丈山寺 (しせんどうじょうざんじ) 2008年05月20日訪問 詩仙堂 嘯月楼  曼殊院道を西に下り、小川に架かる橋まで進む。ここで南に折れ、清賢院、西圓寺そして圓光寺の前を通り南に下ると、一乗寺下り松と八大神社を結ぶ道に行き当たる。詩仙堂はこの八大神社の西隣である。  詩仙堂は、曹洞宗大本山永平寺派の寺院で、六六山詩仙堂丈山寺 凹凸窠が正式な名称となっている。凹凸窠とは、でこぼこの土地に建てられた住居の意味である。実際に詩仙堂の建物や庭園は、山の斜面に沿って段状に作られている。開基である石川丈山は詩仙の間を含め、建物や庭の10の要… ►続きを読む

 

曼殊院門跡 その2

 

天台宗 曼殊院門跡 (まんしゅいんもんぜき) その2 2008年05月20日訪問 曼殊院門跡 鶴島の五葉松  北通用門から庫裡を通り、大玄関に入る。勅使門を潜った賓客は大玄関で迎えられ、唐門を通り書院庭園に入って行ったと思われる。現在の拝観順路は、大玄関から大書院に向けて斜めに架けられた廊下を進むこととなるが、このあたりの印象は弱く、なぜか記憶に残っていない。それだけ、この先に待っている大書院、小書院そして庭園の印象が強かったからであろう。 曼殊院門跡 花の間のある一文字手水鉢 曼殊院門跡 曼殊院門跡  大書院は杮葺寄棟造で、むくりのある屋根を載せた建物。… ►続きを読む

 

曼殊院門跡

 

天台宗 曼殊院門跡 (まんしゅいんもんぜき) 2008年05月20日訪問 曼殊院門跡 勅使門  音羽川を挟んで、林丘寺の対岸の道を東に進むと、畑の中に歴史的風土特別保存地区を示す碑が建つ。そのまま坂を登っていくと、関西セミナーハウスとの表示がある。ここを右に折れると、曼殊院天満宮の池泉と曼殊院門跡の間に出る。本来の曼殊院道はさらに一本南を通り、鷺森神社の南側の道となる。 曼殊院門跡 曼殊院天満宮と弁天堂の鳥居 曼殊院門跡 曼殊院天満宮の弁天池  曼殊院の歴史は、延暦年間(728~806)まで遡る。宗祖最澄(伝教大師)は鎮護国家の道場を比叡山に創建している。その後、天暦年間(9… ►続きを読む

 

修学院・一乗寺の町並み

 

修学院・一乗寺の町並み (しゅがくいん・いちじょうじのまちなみ) 2008年05月20日訪問 修学院・一乗寺の町並み 畑の中に歴史的風土特別保存地区の石碑が建つ  赤山禅院の鳥居を出て、再び修学院離宮の表総門前、禅華院そして林丘寺の森を見ながら音羽川を南に渡る。そのまま鷺森神社へ向い、境内に入る手前を東に折れ、曼殊院を目指して畑の中の坂道を登って行く。途中で歴史的風土特別保存地区を示す碑を見かける。白川通からわずか500メートル入っただけにも関わらず、長閑な田園風景である。赤山禅院、修学院から曼殊院、詩仙堂がある辺りの地名は修学院と一乗寺となる。 修学院・一乗寺の町並み 修学院離宮と… ►続きを読む

 

赤山禅院

 

天台宗比叡山延暦寺別院 赤山禅院 (せきざんぜんいん) 2008年05月20日訪問 赤山禅院 拝殿屋根上にある神使いの猿  修学院離宮の参観を終え、表総門から出て修学院離宮道を西に進む。鷺森神社御旅所の角を右に曲がり、200メートル北に進む赤山大明神の額の掛かる鳥居が現れる。これが天台宗 比叡山延暦寺別院 赤山禅院の境内の入口である。緑が濃く薄暗い参道を歩くと今度は山門が建つ。秋の紅葉の時期には、この参道は真紅に変わる。そのまま東に続く参道を進むと左手が一段高くなり、赤山禅院の諸堂が建つ。 赤山禅院 赤山大明神の扁額のかかる鳥居 赤山禅院 山門 赤山禅院 赤山禅院… ►続きを読む

 

修学院離宮 その5

 

修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう) その5 2008年05月20日訪問 修学院離宮 上離宮 西浜から千歳橋方向の眺め 背後は比叡山  修学院離宮で撮影した写真が、まだ少し残っていますので掲載します。 修学院離宮 上離宮 西浜から京都の市街地の眺め 修学院離宮 上離宮 中島に架けられた土橋 修学院離宮 上離宮 舟屋と土橋 修学院離宮 上離宮 窮邃亭と千歳橋 修学院離宮 上離宮 隣雲亭 修学院離宮 上離宮 隣雲亭と雄滝からの流れ 修学院離宮 上離宮 浴龍池と万松塢 修学院離宮 上離宮 浴龍池の水門 修学院離宮 修学院離宮… ►続きを読む

 

修学院離宮 その4

 

修学院離宮 (しゅがくいんりきゅう) その4 2008年05月20日訪問 修学院離宮 上離宮 千歳橋  一番高台にある隣雲亭の見学の後は、雄滝の方向に下っていく。緑の濃いこの時期、木立の奥にある雄滝の姿ははっきりとは見えないが、轟々とした水音が静かな離宮の中に響く。 そのまま浴龍池の東側を進む。中島と万松塢の間に架かる千歳橋が再び見えてくる。隣雲亭から見える千歳橋は非常に象徴的ではあるが、余りにも中国風なため周りとの調和が成されていないようにも見えた。社団法人土木学会関西支部の公式HP内には橋梁として千歳橋(http://www.civilnet.or.jp/gallery/bridge… ►続きを読む

 
 

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