徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:訪問年月

御髪神社

 

御髪神社(みかみじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御髪神社  大河内山荘から北に向かって進む。JR西日本山陰本線のトンネル上を越え、トロッコ嵐山駅に出るところで道が分岐する。左手に小倉池が広がる。既に3時近くになり日が傾き、池面に山の影が落ち始めていた。人出はあるもののなんとなく薄寒い感じのする場所である。御髪神社はこの小倉池の西岸にある。トロッコ嵐山駅から落柿舎や常寂光寺、二尊院に向かう観光客は池の東岸を進むため、比較的人通りの多い場所の近くにあるにも係わらず訪れる人があまり多くないのかもしれない。そのため参道の入口には「奉納 御髪神社」の幟が何旒も立てられ、御髪神社の謂れを記し… ►続きを読む

 

大河内山荘

 

大河内山荘(おおこうちさんそう) 2009年12月20日訪問 大河内山荘 大乗閣と京の眺め  既に嵯峨野の町並み その5でも記述したように嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられている。ここより北側に入ると野宮神社の黒木鳥居がある。再び分岐点まで戻り、西へと続く道を進む。左手に現れる天龍寺の北門を過ぎてさらに進む。このあたりが嵯峨野の竹林の中で最も美しい場所ではないかと思う。やがてこの道は突き当たり南北に分かれる。南は嵐山公園亀山地区につながり、北はJR西日本山陰本線のトロッコ嵐山駅を越えると小倉池と御髪神社へと続く。大河内山荘… ►続きを読む

 

京都・山城 寺院神社大事典

 

京都・山城 寺院神社大事典(きょうと・やましろ じいいんじんじゃだいじてん) 京都・山城 寺院神社大事典  ゴールデンウィークの課題として、日頃お世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)について書いてみる。今では京都の寺院や神社の謂れを調べる上で欠かすことの出来な存在となっている。既に刊行して15年近い年数を経っているものの、取り扱っている内容からして記述が古くなる心配も余りない。恐らく新たな歴史上の発見が成されるまでは、その記述を改める必要はないだろう。  凡例でも触れているように、この事典の基は、「日本歴史地名大系」の26巻「京都府の地名」と同27巻「京… ►続きを読む

 

野宮神社 その2

 

野宮神社(ののみやじんじゃ)その2 2009年12月20日訪問 野宮神社  嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられていることは、既に嵯峨野の町並み その5で記述した。この分岐点の北側には野宮神社の黒木鳥居がある。この道は三宅安兵衛遺志の道標にもあるように、野々宮、常寂光寺、落柿舎、二尊院に至る道であるため、嵯峨野を散策する観光客の大部分が通る路となっている。薄暗い竹林の中の細い小路であるため、いつも渋滞している印象が強い。 嵯峨野の町並み その3でも記したように、この路はかつての亀山殿の野宮大路にあたる。財団法人京都市埋蔵文化… ►続きを読む

 

嵯峨野の町並み その5

 

嵯峨野の町並み(さがののまちなみ)その5 2009年12月20日訪問 嵯峨野の町並み 三宅安兵衛遺志の道標 豆腐茶屋の看板の方が大きい  千光寺の石段を下り、大堰川沿いを再び櫟谷宗像神社まで戻る。 渡月橋を渡り嵯峨野に入る。嵯峨野については、嵯峨野の町並み、その2、その3、その4と書いてきたので、新たに書き足すこともないが、美しい竹林の写真が撮影できたので、ここに残しておく。 嵯峨野の町並み 嵯峨野の町並み 小倉百人一首文芸苑 建石町広場 2008年12月21日撮影  渡月橋から丸太町通をつなぐ京都府道29号線宇多野嵐山山田線は、いつ訪れても人通りが途切れることが無い。また訪… ►続きを読む

 

大悲閣千光寺 その2

 

黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ)その2 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 了以像  大悲閣千光寺では、その位置と角倉了以よる中興までの歴史について記した。ここでは了以が大悲閣千光寺を創建することとなった河川開削事業について書いてみる。 大悲閣千光寺 大悲閣 大悲閣千光寺 大悲閣内部  角倉家の本姓は吉田氏で、近江国犬上郡吉田村出身とされている。初代となる吉田徳春が室町時代中期に上洛し、足利義満、義持に仕え、晩年に医術を習得している。その子の宗臨の代には足利義政に医術で仕えるようになる。そして三代目の宗忠がその後の角倉家の財を築き、土倉を営むようになる… ►続きを読む

 

大悲閣千光寺

 

黄檗宗 嵐山 大悲閣千光寺(だいひかくせんこうじ) 2009年12月20日訪問 大悲閣千光寺 大河内山荘からの眺め  渡月橋より大堰川右岸の大悲閣道を凡そ1キロメートル上流に歩くと、大悲閣千光寺へと続く石段が現れる。この石段の始まる左手には、松尾芭蕉の「花の山 二町のぼれば 大悲閣」句碑と称するものがある。確かに芭蕉は弟子の去来が買い求めた落柿舎に元禄4年(1691)4月18日から17日間滞在し、嵯峨の山川名跡を訪れ「嵯峨日記」を残している。しかし前記の句は「嵯峨日記」にも掲載されていない、出典不詳の句とされている。 大悲閣千光寺 参道の入口 大悲閣千光寺 参道の入口に建つ芭蕉… ►続きを読む

 

大堰川

 

大堰川(おおいがわ) 2009年12月20日訪問 大堰川  櫟谷宗像神社を出て、大悲閣を訪問するため大堰川の右岸を上流に向かって歩いて行く。この道は自動車の通行も無く、ほぼ歩行者のための道となっている。 大堰川 渡月橋を眺める 大堰川  既に嵐山の町並みで大堰川と秦氏による開発、渡月橋でも大堰川あるいは大井川について、葛野大堰で秦氏の末裔の道昌僧正による大堰の修復と一之井堰と書いてきたので、これ以上大堰川について語ることはないが、大悲閣への途上で見かけた美しい景色を写真に収めることができたので、さらに少し大堰川について書いてみる。 大堰川 左岸の亀山 大堰川 右岸の… ►続きを読む

 

櫟谷宗像神社

 

櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ) 2009年12月20日訪問 櫟谷宗像神社  梅宮大社の石造の一之鳥居を潜り、四条通に戻る。梅宮大社前の停留所より京都市バス28系統大覚寺行に乗車する。バスは松尾橋で大堰川を渡り、阪急嵐山線松尾駅で右折し京都府道29号宇多野嵐山山田線に入る。そのまま北上し、法輪寺の門前を経て、渡月橋の始まる嵐山公園の停留所に着く。ここで下車して中ノ島から嵐山側に戻ると、西芳寺南へ二十町の三宅安兵衛遺志の道標に出会う。大正13年(1924)の建立で、碑文には開山夢窓国師造築、内務省指定庭園の文字が見られる。櫟谷宗像神社は、嵐山モンキーパークの看板の奥にある読み難い神… ►続きを読む

 

梅宮大社 その2

 

梅宮大社(うめみやたいしゃ)その2 2009年12月20日訪問 梅宮大社 東神苑の池中亭  梅宮大社で記したように、梅宮大社の公式HPに掲載されている御由緒でも、檀林皇后が橘氏の祖神を祀るためにこの地に遷座させたとしている。しかしその創建の年代は明らかにしていない。「伊呂波字類抄」(風間書房 1965年刊)の梅宮によると、天子の「外家神」にもかかわらず大幣に与らなかったことに怒り、仁明天皇に祟りを成したとある。これにより葛野川頭に遷座している。この記述に従うならば、弘仁元年(810)の仁明天皇誕生以降、嘉祥3年(850)の崩御までの間、さらに仁明天皇と太后ということならば、天長10年(8… ►続きを読む

 

梅宮大社

 

梅宮大社(うめみやたいしゃ) 2009年12月20日訪問 梅宮大社 楼門  梅宮大社は西梅津村が東梅津村に接する辺りにある。「延喜式」神名帳の葛野郡二十座の内、「梅宮坐神 並名大。月次 新嘗」とあり、酒解神、大若子神、小若子神、酒解子神の四神を祀る。相殿の祭神は橘諸兄の孫の橘清友、その子の嘉智子すなわち嵯峨天皇皇后の檀林皇后、嵯峨天皇、その子の仁明天皇の四柱。旧官幣中社。 梅宮大社 一之鳥居 梅宮大社 二ノ鳥居  平安時代末期に成立した古辞書「伊呂波字類抄」によると、梅宮大社は檀林皇后が橘氏の氏神を円堤寺に祀ったことを起源としている。初代橘氏長者である橘諸兄を始めとするならば… ►続きを読む

 

梅津の町並み

 

梅津の町並み(うめづのまちなみ) 2009年12月20日訪問 梅津の町並み 四条通から松尾山を眺める  華厳寺から再び西芳寺川を渡り、地蔵院の石段へと戻る。ここからタクシーで次の訪問地・梅宮大社に向かう。車は東に走り、松尾の交差点で北に折れる。そのまま直進し物集女街道に入り、松尾大社と阪急嵐山線の松尾駅を過ぎ、松尾橋を渡り四条通を東に進む。程なくして左手に朱塗りの鳥居が現れる。乗車時間にしておよそ5分であった。 梅宮大社は、上記の経路からも分かるように桂川の東岸に鎮座している。現在の住居表示では右京区梅津フケノ川町となる。梅津は古くより水陸交通上の要地で、桂川によって丹波よりもたらされる… ►続きを読む

 

華厳寺

 

臨済宗永源寺派 妙徳山 華厳寺(けごんじ) 2009年12月20日訪問 華厳寺  衣笠山にある地蔵堂から再び華厳寺橋で西芳寺川を渡り、松尾山側に戻る。先ほど通過した華厳寺を訪問する。山門へと続く石段の右手には「鈴蟲の寺 華厳禅寺」の寺号標石がある。現在は臨済宗永源寺派の寺院で山号を妙徳山とする。 華厳寺の開山は江戸中期の学僧・鳳潭とされている。鳳潭は華厳・天台・禅・倶舎・真言・浄土などの諸宗にわたり膨大な著述を残し、仏教文献の流伝と保存に大きな功績を残している。それにも関わらず、鳳潭の生誕年や出身地に諸説があるように、史伝資料が非常に少ない人物でもある。王芳氏の「鳳潭の生没年及び出身地に… ►続きを読む

 

地蔵院 その2

 

臨済宗系単立 衣笠山 地蔵院(じぞういん)その2 2009年12月20日訪問 地蔵院 碧潭周皎と細川頼之の墓  地蔵院では、開山の碧潭周皎とこの地を買い取り地蔵院を建立した細川頼之について書いてみた。明徳3年(1392)頼之が64歳で没すると、その遺志よって周皎の墓の傍らに葬られ、将軍義満を始めとし、公卿、諸大名が会葬したとされている。平形の自然石が用いられた周皎の墓に対して、頼之の墓は山形の自然石で細川石と呼ばれている。 地蔵院 開福稲荷大明神  碧潭周皎が逝去した応安7年(1374)の2年後の永和2年(1376)には、朝廷より地蔵院の寺領である荘園に対して、伊勢神宮課役夫工米、… ►続きを読む

 

地蔵院

 

臨済宗系単立 衣笠山 地蔵院(じぞういん) 2009年12月20日訪問 地蔵院 総門  西芳寺総門と西芳寺川に架かる大歇橋から再び池大雅美術館の近くの駐車場に戻る。先ほど歩いてきた華厳寺橋とは逆方向となる南側の石段を上る。この石段の脇には、「細川頼之公建立 一休禅師修養の寺 竹の寺 地蔵院庭園」という盛り沢山な道標が建つ。その足元にも「地蔵院 左一丁 細川頼之史蹟」の石造の道標が残されている。前者は西芳寺が観光地となってから建てられたものであろう。石段を上り、西芳寺川を挟んで北側の西芳寺に相対する衣笠山の丘陵に入る。最福寺跡その2でも触れたように、松尾山に連なる山々と衣笠山に挟まれた西芳… ►続きを読む

 

西芳寺

 

臨済宗系単立 洪隠山 西芳寺(さいほうじ) 2009年12月20日訪問 西芳寺 邀月橋と衆妙門  池大雅美術館より30メートル西に進むと西芳寺川に架かる橋と共に西芳寺の総門が現れる。今回は事前の拝観申請を出していないため、西芳寺の佇まいを眺めるだけとなる。天下の名園だけに、ゆっくり時間のとれる時に改めて訪問したいと思う。ここでは西芳寺の歴史を記すに留めておく。 西芳寺 衆妙門  西芳寺創建の歴史は、応永7年(1400)に住持の急渓中韋が著した「西芳寺縁起」によるところが大きく、その創立は聖徳太子の別墅に遡る。「雍州府志」(新修 京都叢書 第3巻 近畿歴覧記 雍州府志(光彩社 196… ►続きを読む

 

池大雅美術館 その2

 

池大雅美術館(いけのたいがびじゅつかん)その2 2009年12月20日訪問 池大雅美術館  池大雅美術館で記したように、池大雅の未亡人・玉瀾が没した天明4年(1784)に、大雅の門弟達が集まって大雅堂を東山の真葛ヶ原に建設している。その後、大雅堂は餘凪夜、月峰、清亮、定亮等によって護られてきた。しかし佐々木丞平氏が寄稿した「京を歩けば 祇園下河原〜雙林寺 ―大雅堂旧跡(https://vinfo06.at.webry.info/201403/article_1.html : リンク先が無くなりました )」(三洋化成ニュース 2011年春号)によると、明治30年代に京都府によ… ►続きを読む

 

池大雅美術館

 

池大雅美術館(いけのたいがびじゅつかん) 2009年12月20日訪問 池大雅美術館 最福寺からの道  最福寺跡から、山端の細い道を進むと妙徳山華厳寺、いわゆる鈴虫寺への入口が現れる。ここは後回しとして、先ずは西芳寺に向かう。右手に「老人園芸ひろば」という看板がある。更に進むと西芳寺川に架かる橋に出会う。この橋は華厳寺の参道に架かるため華厳寺橋と名付けられている。さらに道を南に進むと左に比較的まとまった面積の駐車場が現れる。鈴虫寺への方向が示された看板があるので、鈴虫寺目当てに訪れた観光客用駐車場であろう。最福寺から華厳寺までの閑静な道筋を考えると、これほど大きな駐車場は必要ないようにも思… ►続きを読む

 

最福寺跡 その2

 

最福寺跡(さいふくじあと)その2 2009年12月20日訪問 最福寺跡 平治元弘応仁元亀の乱 戦火ゆかりの地  最福寺は延朗の死後、伽藍を整備し、南北朝期には峰ヶ堂(現在の西京区御陵峰ヶ堂)にあった法華山寺とともに西岡屈指の大名刹となっている。「太平記」巻八の「谷の堂炎上の事」には、延朗の出自から最福寺の興隆について記されている。元弘3年(1333)4月8日の千種忠顕による六波羅探題攻略が失敗に終わり、翌9日に六波羅軍が、谷の堂や峰の堂から浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱れ入ったことを記した段である。六波羅軍は千種軍を掃討するという名目で、仏閣神殿を打ち破り僧坊民屋を追捕し財宝略奪… ►続きを読む

 

最福寺跡

 

最福寺跡(さいふくじあと) 2009年12月20日訪問 最福寺跡  月読神社とその鳥居の右手にある押見宿祢霊社遺跡碑の前から、浄土宗西山禅林寺派 帰峰山 西光寺に出る。同じ浄土宗でも右京区太秦多藪町の来迎山 西光寺は嘉禄の法難で有名である。光明寺の項で、来迎坊圓空と太秦の西光寺に少しふれているので興味のある方はご参照を。 最福寺跡 帰峰山 西光寺  この松室山添町の西光寺から華厳寺に向かう途中に「谷の堂最福寺 開山延朗上人旧蹟地」の碑と小さな堂宇を見かけた。 最福寺跡は松尾山南麓を流れる西芳寺川の谷の入口北岸にある。延朗上人の木像を安置する延朗堂の他には、いくつかの碑と石造の観音立… ►続きを読む

 
 

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