徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:訪問年月

高台寺 その3

 

臨済宗建仁寺派 鷲峰山 高台寺(こうだいじ)その3 2009年11月29日訪問 高台寺 遺芳庵  圓徳院庭園を観賞しているうちに、ライトアップの時間になっていたようだ。本日最後の訪問地として高台寺に向かう。圓徳院の境内からねねの道に出ると、高台寺の夜間拝観を目的として集まった人々で膨れ上がっていた。幸いに圓徳院を拝観する際に共通券を購入しておいたので、入場券を購入するために列に並ぶ必要はなかったが、それでも多くの人の後ろに並ぶ事となった。 高台寺 台所坂  圓徳院の項でも参照したように重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)には、「豊臣… ►続きを読む

 

高台寺 圓徳院 その2

 

高台寺 圓徳院(えんとくいん)その2 2009年11月29日訪問 圓徳院 北書院北庭  高台寺 圓徳院では、圓徳院が建立されるまでの歴史を高台院とそれを取り巻く木下家の人々を中心に記してきた。この項では圓徳院庭園を中心に書いていきたい。 碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)では、「庭園は今に存す。所謂石庭式なり。空池に石橋を架し奇石を安徘す。傅て小堀政一の作と云ふ。手水鉢あり檜垣と名く世に著名なり。」と記されているのに対して、重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)では、その可能性… ►続きを読む

 

高台寺 圓徳院

 

高台寺 圓徳院(えんとくいん) 2009年11月29日訪問 圓徳院 方丈南庭  朝、天龍寺を訪れた時には非常に良い天気であったが、大徳寺を廻るあたりから曇りがちとなり、一番気になっていた祇園閣からの眺望を楽しむ段になって、厚い雲に覆われた鈍よりとした空になってしまった。最後に最上層より四方の眺望を確認した後、大雲院の南門を潜りねねの道に出ると、たちまち東山の喧騒に戻る。次に訪れる圓徳院は高台寺の塔頭の一つである。高台寺には何回か訪問しているが、今まで一度も訪れたことがなかった。前回も高台寺と圓徳院の共通券を購入したにも関わらず、時間がなかったのか圓徳院に入ることが適わなかったように思う。… ►続きを読む

 

祇園閣 その4

 

祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問 祇園閣 八坂塔方面  祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。 伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に… ►続きを読む

 

祇園閣 その3

 

祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問 祇園閣  明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかっ… ►続きを読む

 

祇園閣 その2

 

祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問 祇園閣 本堂西面からの眺め  大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねね… ►続きを読む

 

大雲院 その2

 

浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ)その2 2009年11月29日訪問 大雲院 佐土原藩戦没招魂塚と豊烈曜後之碑  大雲院で記したように、天正18年(1590)大雲院は豊臣秀吉によって二条新御所から四条河原町の貞安前之町に移されている。そして昭和48年(1973)再び東山真葛ヶ原に移されている。四条寺町界隈の喧騒とした雰囲気の中で布教教化を行なうことが不適切であることは明白である。このような判断から移建されている。 現在、大雲院の旧地である貞安前之町には火除天満宮が残る。この天満宮は天正7年(1579)に六条街に開創されている。天正15年(1587)の大雲院の創建の際、鎮守社として… ►続きを読む

 

大雲院

 

浄土宗系単立 龍池山 大雲院(だいうんじ) 2009年11月29日訪問 大雲院 本堂  大徳寺で訪問した総見院、芳春院、興臨院、黄梅院の4つの塔頭は、通常は拝観謝絶の寺院である。今回、幸いにも秋の特別公開によって拝観が可能になっている。天龍寺から、京福電気鉄道嵐山本線と北野線さらに市営バスを乗り継いで大徳寺に着いたのが12時少し前であったから、上記の塔頭の拝観と山内を歩いている間に、すでに3時間も経っていたことに気がつく。天龍寺の宝厳院と弘源寺も特別公開であったことから、本日7番目の特別公開寺院として大雲院へ向かうこととする。15時少し前に、勅使門の西側にある門を潜り、大徳寺の団体バスの… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その13

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その13 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 正受院  大徳寺の発展の歴史に沿って、その塔頭の成立について、大徳寺の塔頭 その2から大徳寺の塔頭 その12まで、長々と書いてきた。最後に、江戸時代から明治初年にかけて大徳寺塔頭の変遷について纏めてみる。 江戸時代に入り、元和元年(1615)大徳寺は徳川家康より2011石の御朱印を得ている。この石高は南禅寺、相国寺、東福寺、妙心寺などの京都の本山寺院の中でも最高額であった。この年の7月に大徳寺領諸塔頭配分支配目録を金地院以心崇伝及び京都所司代板倉勝重に提出している。これによると大徳寺領が1268石7… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その12

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その12 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 雲林院 2011年6月18日撮影  大徳寺の歴史は、開祖宗峰妙超が洛北の紫野に大徳庵を結び移り住んだことに始まるとされている。沢庵和尚が慶長年間(1596~1615)に編集した「大燈国師年譜」によると、これは34歳の正和4年(1315)のことであったとされている。また臨済禅 黄檗禅 公式サイトも、この正和4年(1315)を開創の年次としている。宗峰自筆の敷地証文案より元亨4年(1324)5月には大徳寺敷地として「雲林院辺菩提講東塔中北寄弐拾丈」の地の寄付を得ていたことが確認されている。またWikip… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その11

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その11 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 龍翔寺  総見院の東を南北に船岡東通が通る。この船岡東通の西側にはかつて天瑞寺があったことは、大徳寺の塔頭 その5でも触れている。この場所には現在、龍翔寺が建てられている。 明治11年(1878)3月11日に、第471世牧宗宗壽と塔頭総代の玉林院住職能見山宗竺が京都府知事槇村正直宛に「合併切縮之儀ニ付御伺」を提出している。大徳寺塔頭の推移については改めて項を起こして記すつもりだが、この時に塔頭13ヶ寺の合併、4ヶ寺の切縮、残りの20ヶ寺を永続塔頭としている。「合併切縮之儀ニ付御伺」に附けられた「別紙… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その10

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その10 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 孤篷庵  北派の塔頭その4に引き続き、北派の最後の塔頭までを記してゆく。 龍光院は筑前福岡藩主黒田長政が父黒田孝高の菩提を弔うために、玉林院の南に創建した塔頭。開山は第156世江月宗玩であるが、師である三玄院の春屋宗園を開祖に勧請し、自らは第2世となっている。創建年次は慶長11年(1606)と慶長13年(1608)の2つの説がある。  黒田孝高は通称の官兵衛あるいは出家後の号である如水の方が有名な豊臣秀吉の側近として仕えた戦国武将である。関ケ原の戦いにおいては、当主の長政が豊臣恩顧の大名を多く家康方… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その9

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その9 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 芳春院  北派の塔頭その3に引き続き、北派の2つの塔頭を記す。 第142世月岑宗印は慶長8年(1603)に高桐院の南隣に正琳院を創建している。月岑宗印は、高桐院の開祖である玉甫紹琮と同じく、総見院を開創し天正寺の建立を手がけた古渓宗陳の法嗣である。第111世で三玄院の開祖である春屋宗園は、玉林院の塔頭開きを祝って贈った賀頌に、      「正琳禅院は養安老人が創建の地であり、多くの年月を経ずして立派な建築が竣工した」 と意味が記されている。 この養安老人は曲直瀬養安院法印正琳であり、正親町天皇、後陽成… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その8

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その8 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 三玄院  北派の塔頭その2に引き続き、さらに北派の塔頭について記してゆく。 大徳寺 塔頭 三玄院  三玄院は第111世春屋宗園を開祖とし、石田三成、浅野幸長、森忠政等が檀越となり創建されている。創建年次については、天正14年(1586)や天正年間(1573~92)とする説もあるようだが、京都市の駒札に明記されている天正17年(1589)が一般的な説となっている。創建時の位置は龍翔寺の西隣で大徳寺と龍翔寺の買い取ったことが「大徳寺西之林充状」と「龍翔寺西之林充状」が高桐院文書として残っている。これ… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その7

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その7 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 聚光院  北派の塔頭その1に引き続き北派の塔頭について記してゆく。 大徳寺 塔頭 聚光院  聚光院は第107世笑嶺宗訢を開山として永禄9年(1566)三好長慶(法号 聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門)の墓所として創建されている。弘治3年(1557)三好元長の菩提を弔うために、第90世大林宗套を開山として迎えて南宗寺を開創した三好長慶は永禄7年(1564)7月4日居城の飯盛山城で病死している。享年43。聚光院の開基は長慶の甥で養子の義継であった。長慶の死後を継いだ義継が若年であったため… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その6

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その6 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 大仙院  ここより北派の塔頭について記してゆく。  先にも触れたように、第56世實傳宗眞のもとからは、南派の開祖となる第72世東溪宗牧とともに、北派の古嶽宗亘を輩出している。古嶽宗亘は寛正6年(1456)近江蒲生郡の佐々木氏に生まれている。初めは近江岩間寺(真言宗醍醐派の正法寺)の義済に投じ、ついで建仁寺の塔頭瑞光庵の喜足和尚に師事する。しかし23歳の時、喜足和尚より大灯国師の存在を教わり、五山を出て大徳寺第40世春浦宗熈に参ずる。しかし久しく悟りに至らず、宗熈寂後は如意庵の實傳宗眞に謁し、20年に及… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その5

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その5 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 黄梅院 撮影2008年11月22日  東溪宗牧の法孫である第91世徹岫宗九の龍峯院、第93世清菴宗胃の正受院そして第94世天啓宗歅の玉雲軒以降の南派を見てゆく。 大徳寺 塔頭 黄梅院  黄梅院は、第91世で瑞峯院の開祖となった徹岫宗九の法嗣である第98世春林宗俶が創立した庵居の黄梅庵が前身となっている。黄梅庵の地には、第87世休翁宗萬の塔頭龍福院があったが、宗萬の法嗣の第92世玉堂宗條が寂した永禄4年(1561)以降に後継者を欠いたため、本院である龍源院に寄進されていた。宗俶がこの… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その4

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その4 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 龍源院 撮影2008年5月19日 22世     26世    40世     56世   華叟宗曇 -- 養叟宗頤 - 春浦宗熈 -- 實傳宗眞 ※      |              |             |              |            |              |             |              | 70世      | 47世         72世      |      | 76世  龍泉庵が第40世春浦宗熈の法嗣である第70世陽… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その3

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その3 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 真珠庵  享徳2年(1453)8月4日夜、大徳寺山内の諸堂が焼失している。「東海一休和尚年譜」によると大徳寺第38世惟三宗叔の開堂を記した後、下記のように書き残している。      七月、鬱攸崇を為す、鐘魚索然、惟だ浴堂、門廡及び如意大用僅かに存す。  このように浴堂と山門の庇、妙意庵と大用庵以外はことごとくを失っている。第26世で大用庵を開創した養叟宗頤は、大徳寺再興に着手している。まもなくして法堂と方丈がなる。そして大用庵の建物を移し、雲門庵を再建している。被災5年後の康正3年(1457)宗頤は、… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭 その2

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう)その2 2009年11月29日訪問 大徳寺 塔頭 寸松庵・梅巌庵趾の建つ参道  大徳寺の塔頭 孤篷庵の前の道を東に進み、大徳寺の主要伽藍のある場所に向かう。この道沿いには、かつて大徳寺に存在していたが、現在失われた5つの塔頭の址を示す碑が建つ。寸松庵・梅巌庵趾の碑は、孤篷庵の向かいにある京都府立盲学校幼少中等部の敷地の東南隅に建てられている。寸松庵は、元和7年(1621)龍光院の江月宗玩を開祖に佐久間実勝が創建した塔頭である。梅巌庵は大徳寺第169世天祐紹杲を開祖とした塔頭。寛永20年(1643)友松宗祐が父梅巌紹薫のために寸松庵の西に創建。大光院趾… ►続きを読む

 
 

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