カテゴリー:訪問年月
妙覺寺
日蓮宗本山 具足山 妙覺寺(みょうかくじ)2010年1月17日訪問 妙覚寺 大門 是より洛中碑の室町小学校の校門より北西の下清蔵口町に向う。この辺りには日蓮宗の寺院がいくつかあるが、その内の妙覺寺を先ず訪れる。 妙覺寺は日蓮宗の本山、山号は具足山で通称北竜華。妙顕寺、立本寺とともに日蓮宗の名刹三具足山の一つ。日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は鎌倉時代の日蓮宗の僧で生没年不詳。紀州に生まれ、妙顕寺の大覚に師事。備前及び備中に布教を行う。永和4年(1378)1月18日、弟日成とともに妙顕寺を出て、同年中に四条大宮に妙覺寺を開く。なお寺伝では日像を開山、日実を第4世としている。外護者は日像… ►続きを読む
是より洛中碑
是より洛中碑(これよりらくちゅうひ)2010年1月17日訪問 是より洛中碑 光照院門跡の山門右脇にある持明院仙洞御所跡の石碑を確認した後、室町通に戻り、室町頭町にある室町小学校を目指す。 室町頭町は室町通の両側町。町名の頭町は室町通の北端という意味を持っている。現在の室町通は、途中東本願寺と京都駅で分断されているものの、北は北山通から南は久世橋通まで通じる南北路である。しかし寺之内通で凡そ30mほど東側に移っている。この寺之内通を北端として、南は上立売通までが室町頭町とされている。なお「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、天文15年(1546)11月1… ►続きを読む
持明院仙洞御所跡
持明院仙洞御所跡(じみょういんせんとうごしょあと)2010年1月17日訪問 持明院仙洞御所跡 光照院門跡の山門右脇に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。後伏見上皇の皇女・進子内親王が泉涌寺の無人如導によって落飾し、自本覚公尼となったのは、延文元年(1356)のこととされている。この時に室町一条北に光明院が創建されたと考えられている。その後、応仁の乱によって光明院が焼失すると、文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。光明院の開山となった自本覚公尼の父である後伏見天皇が持明院統であったことから、この所縁のある土地を賜ったのであろう。 もともと持明院は藤原基頼の邸宅で… ►続きを読む
光照院門跡
光照院門跡(こうしょういんもんぜき)2010年1月17日訪問 光照院門跡(常磐御所) 高松伸設計の織陣Ⅲの斜め前に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。1998年と比較的新しい碑の建立者は光照院門跡 田中澄俊と恵聖院門主 中島真栄となっている。持明院仙洞御所については後ほど記すとし、先ずは現在存在している光照院門跡の歴史について書いてみる。 光照院門跡は浄土宗知恩院派の門跡寺院で常盤御所と称する。開山は後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇・光明天皇の妹宮にあたる。寺伝によれば、宮は建武2年(1335)に生まれたとされている。父である後伏見上皇が崩御されたのが建武3年(1336)とされているの… ►続きを読む
織陣
織陣(おりじん)2010年1月17日訪問 織陣Ⅰ 昭和56年(1981)竣工 宝暦・明和事件の背景とその影響を記すために、藤井右門邸跡から始まり、その2、その3、その4、その5までと、思ってもいなかった程の長文になってしまった。この明和事件の発生した明和4年(1767)は、幕末維新の100年前に当たる。まだ幕府の基盤も安定していた時期であり、尊王の意識はあったものの、実際に倒幕が可能だという見通しは藤井らにとっても無かったと思われる。現在から250年前に発生した小さな事件が、幕末維新の大きなうねりに繋がっていくためには、まだまだ多くの人々の登場を待たねばならなかった。 明田鉄男氏の「幕… ►続きを読む
藤井右門邸跡 その5
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その5 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 藤井右門邸跡 その3及び、その4で明和事件の主犯とされる山縣大弐と藤井右門の宣告とその最期を見てきた。この項では宝暦事件の主犯で明和事件にも連座した竹内式部の最期と事件終結後の藤井右門の末裔とその自邸の変遷について書いてみる。 山縣大弐、藤井右門に続き竹内式部にも刑が与えられた。その宣告は以下の通りである。 勢州宇治今在家町御師鵜飼又太夫方に居候 式部事 竹内正庵 五十六歳其方儀、永澤町浪人山縣大弐、並同人方に居候京… ►続きを読む
藤井右門邸跡 その4
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その4 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影 藤井右門邸跡 その3では明和事件において山縣大弐捕縛となった経緯と処罰がいかに決定し、刑に処せられたかについて書いてきた。ここでは藤井右門の宝暦・明和の二事件にどのように関与し、その最期を明らかにする。 今回、藤井右門を書くに辺り、その事跡を記した書籍を探したが、殆どないことが分った。そのため唯一の伝記となる佐藤種治著「勤王家藤井右門」(中田書店 1936年刊)を参照する機会が多くなる。このようなこととなったのには、本書の序文で触れているように、藤井右門に関する史料・資料が圧倒的… ►続きを読む
藤井右門邸跡 その3
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その3 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2011年6月18日撮影 藤井右門邸跡 その2では、明和事件の主犯とされる山縣大弐の経歴と事件の遠因となった柳子新論、そして事件の発端となった小幡藩での吉田玄蕃監禁について書いて来た。この項では山縣大弐逮捕に至った経緯と関係者に対する処分について書いてみる。 吉田玄蕃監禁事件の関係者に対する処分を明らかにするために、明和4年(1767)8月21日の小幡藩の国替、藩主の交代と隠居蟄居が行われたことまで記した。再び監禁事件が発生した明和3年(1766)12月まで時間を戻す。上記のように小幡藩内で監禁事件が発… ►続きを読む
藤井右門邸跡 その2
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その2 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 藤井右門邸跡では、藤井右門が関与した明和事件を説明する前に、宝暦事件の経緯を竹内式部中心に見て来た。この項では明和事件の思想的な核となる柳子新論とその著者である山縣大弐について書いて行く。宝暦事件の舞台が京都であるのに対して、この明和事件は江戸で発生している。山縣大弐は江戸で塾を開き江戸で捕縛されているため、この機会に説明しなければ他に書く所が無くなるためである。そのため、またもや藤井右門邸跡の説明からは離れてしまうことを容赦願いたい。 竹内式部に感化された中流の公家が、垂加流神道を桃園天皇に進講しよう… ►続きを読む
藤井右門邸跡
藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影 相国寺墓地の禁門変長州藩殉難者塔より、再び方丈の横に戻る。境内を南に歩き経蔵の角を右に曲がると塔頭の瑞春院と西門が見えてくる。この門は上立売通に建てられているので、境内を出るとすぐに烏丸上立売の交差点となる。横断歩道を西側に渡ると目の前に大きな藤井右門邸跡の石碑が現れる。尊王論者であった藤井右門が京都に構えた邸宅の跡である。 藤井右門について書く前に、宝暦事件と明和事件の経緯を確認する。既に一度、宝暦事件については慶光天皇廬山寺陵で触れているが、明和事件に至る過程を説明する上でも重要な事… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔 その3
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その3 2010年1月17日訪問 相国寺禁門変長州藩殉難者塔 禁門変長州藩殉難者塔 その2では、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)を中心に長州兵の戦闘状況を見てきた。いよいよ、この項では相国寺の首塚に葬られたと思われる人物について書いてみる。 薩摩藩戦死者の墓 その3でも書いたように、ここに祀られている人々が明治16年(1883)6月の第13回合祀祭から始まる幕末の志士達の合祀活動から外れているとは考えにくい。 旧長州藩としては、明治21年(1888)5月の第16回合祀祭で長州藩士… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔 その2
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔 禁門変長州藩殉難者塔では、幕末維新について記された書籍が上善寺とこの相国寺の首塚をどのように紹介しているかを見た後、副碑の文面を読んだ。そして薩摩側の史料として伊知地貞馨が記した「紹述編年」(「史籍雑纂 苐四」(国書刊行会 1912年刊))と山崎忠和が明治29年(1896)に出版した「柴山景綱事歴」(非売品 1896年刊)を取り上げ、薩摩藩兵の当日の行動を確認した。この項では長州兵の戦闘状況と、その後の悲惨な敗走の現実について光を当てて… ►続きを読む
禁門変長州藩殉難者塔
禁門変長州藩殉難者塔(きんもんのへんちょうしゅうはんじゅんなんしゃのとう) 2010年1月17日訪問 相国寺 禁門変長州藩殉難者塔 相国寺の境内にある後水尾天皇髪歯塚と宗旦稲荷に続き、墓地内の禁門変長州藩殉難者塔を参拝する。 浴室と塔頭・大光明寺の間の道を西に進んだ先に相国寺の墓地が現れる。入口の左脇には、禁門変長州藩殉難者墓所の石碑が建つ。これは昭和43年(1968)11月に京都市が建立した道標である。墓地に入るとその広さに圧倒される。この地には、かつて足利幕府第12代将軍・足利義晴の戒名を冠した塔頭・万松院があった。しかし万松院が無くなり、その境内は相国寺の巨大墓地となった。 入っ… ►続きを読む
宗旦稲荷
宗旦稲荷(そうたんいなり) 2010年1月17日訪問 相国寺 宗旦稲荷社 相国寺の経蔵北側の後水尾天皇髪歯塚に続き宗旦稲荷に参拝する。 法堂の東側、塔頭・光源院の向かいに洪音楼とよばれる大きな鐘楼がある。元の鐘楼は天明8年(1788)1月30日の大火で焼失している。「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば寛政元年(1789)4月24日に鐘楼を仮設し鐘を架けたとある。大火から3ヵ月後のことである。相国寺の公式HPに掲載されている鐘楼の説明では、「古鐘を買って仮楼にかけ」とあるので、新しい鐘を鋳造する余裕がなかったのかもしれない。この鐘には「干時寛永六己已季卯月七日… ►続きを読む
後水尾天皇髪歯塚
後水尾天皇髪歯塚(ごみずのおてんのうはつしづか) 2010年1月17日訪問 後水尾天皇髪歯塚 東門から相国寺の境内に入り禁門変長州藩殉職者塔に向う途中、経蔵の北側で後水尾天皇の髪歯塚を発見した。。相国寺の公式HPに掲載されている境内図には下記のような説明がある。 後水尾帝歯髪塚後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。 「相国寺史稿」(「相国寺史料」(思文閣 1984年刊))によれば承応2年(1653)8月18日… ►続きを読む
相国寺 その4
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その4 2010年1月17日訪問 相国寺 相国寺 その3では、その規模と創建当時の伽藍を中心に書いてきた。この項では江戸中期に発生した天明の大火以降の再建の状況と明治維新の上知令が与えた影響について見て行く。 相国寺は創建以来、数度の火災に見舞われ、その度に再興がなされてきた。特に天明8年(1788)1月30日未明、鴨川東側の宮川町団栗辻子の町家から出火した天明の大火の被災は深刻なものであった。御所を始め仙洞御所、摂関家の邸宅から京都所司代そして東西両奉行所までもが悉く焼失した上、当時の京都市街の8割以上が灰燼に帰し… ►続きを読む
相国寺 その3
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 法堂 相国寺 その2では創建前後の政治的状況を中心に、若き将軍・足利義満と春屋妙葩、義堂周信の関係について見てきた。この項では、相国寺の位置と規模について書いてみる。 まず「古寺巡礼 京都 2 相国寺」(淡交社 1976年刊)の有馬頼底氏著「相国寺とその歴史」を参照する。有馬は久留米藩主有馬家の分家・有馬正頼男爵の次男として昭和8年(1933)東京で生まれている。昭和16年(1941)8歳の時に大分県日田市の岳林寺で得度。昭和30年(1955)相国寺僧堂に入門し、大津櫪堂老師… ►続きを読む
相国寺 その2
臨済宗相国寺派大本山萬年山 相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 相国寺の塔頭・林光院の墓地にある薩摩藩戦死者の墓について調べたら、その2、その3、その4と続き、思った以上の長編になってしまった。次の目的地も相国寺墓地内にある禁門変長州藩殉難者塔であるので、上立売通から相国寺の境内に入る。相国寺は2008年5月の最初の京都訪問以来となる。もともと観光客に対しての公開が少なく、法堂と方丈が春秋の特別公開時、開山堂及び庭園は秋期、浴室も春期のみの拝観となっている。その春秋の特別公開期間も、それぞれ凡そ2ヶ月間程度なので、1年の内の半分以上は非公… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓 その4
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その4 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 相国寺の東門と墓地との位置関係 薩摩藩戦死者の墓 その3では、薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の中で、甲子戦争戦死者の行動と靖国神社への合祀について書いてきた。この項ではもうひとつの戦いである鳥羽伏見の戦いでの戦死者について記す。 上立売通北側の林光院墓地にある薩摩藩戦死者の墓の正面は南である。墓に記された「甲子役 戊辰役 薩軍戦没者墓」も南を向いている。南側正面の墓石下の基壇部分に3枚の陶板が埋められていることは既に薩摩藩戦死者の墓で記述した通りである。3枚の内正面の1枚が甲子… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓 その3
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 薩摩藩戦死者の墓 その2では、甲子戦争での薩摩藩の戦闘状況を書いてきた。この項では薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の行動を墓に埋められた陶板と幕末維新全殉難者名鑑を比較しながら明らかにすると共に、靖国神社への合祀までの道程について記す。 先ず幕末維新に斃れた人々の事跡の調べた明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参照する。元治元年(1964)7月19日の甲子戦争の薩摩藩の戦死者は8名。その内5名が当日死亡、残りの3名は傷が元で… ►続きを読む