カテゴリー:訪問年月
薩摩藩戦死者の墓 その2
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その2 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 薩摩藩戦死者の墓では、薩摩藩と墓地を管理している相国寺塔頭・林光院の関係から甲子戦争の戦闘直前までの状況を書いてきた。この項では甲子戦争の戦闘状況を見て行く。 甲子戦争は、伏見より進撃した長州藩福原軍が藤森で大垣藩と遭遇することにより始まっている。元々、伏見、天龍寺、山崎の三箇所から御所にほぼ同時刻に到達するように出陣している。しかし伏見を子の刻(午前0時頃)に発進した福原軍は、御所に達する前に大垣兵と遭遇したため想定より早く戦闘が始まってしまった。伏見から御所への進撃経路はほぼ伏見… ►続きを読む
薩摩藩戦死者の墓
薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか) 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓 上御霊神社の西の鳥居にある応仁の乱勃発地の石碑を確認した後、薩摩藩戦死者の墓に向う。相国寺の墓地ではあるものの境内の外に位置する。塔頭の林光院の東側にある東門を潜った外側、上立売通の北側にある幼稚園の西側に墓は建立されている。この場所は林光院の墓地にあたる。 相国寺 薩摩藩戦死者墓 林光院 2016年3月5日撮影 林光院は足利幕府3代将軍足利義満の第二子、足利義嗣を弔うために建立された寺院である。義嗣は4代将軍足利義持の弟であったが、応永25年(1418)25歳の若さで早世している… ►続きを読む
応仁の乱勃発地
応仁の乱勃発地(おうにんのらんぼっぱつち) 2010年1月17日訪問 応仁の乱勃発地 上御霊神社の西の楼門と鳥居を潜り、上御霊前通に出ると鳥居の右手側に応仁の乱勃発地の石碑がある。これは京都市が昭和45年(1970)に建てた碑である。 応仁の乱とは、室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた内乱である。そもそも室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、やがて細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、さらに室町幕府8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、ほぼ全国に紛争が拡大していった。この応仁の乱とその後の明応2年(1493)に起きた明応の政変によって、戦国時代に… ►続きを読む
上御霊神社
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ) 2010年1月17日訪問 上御霊神社 本殿 閑臥庵の山門前を過ぎてすぐに鞍馬口通を南に折れる。閑臥庵を含めてこの辺りは北区新御霊口町で、寺町通より西側の鞍馬口通の両側町である。複雑なことに、この北区新御霊口町の南東、西園寺の寺町通を挟んで西側には上京区新御霊口町がある。その西側の上京区上御霊馬場町は上御霊前通の両側町、そして現在の上御霊神社の境内を含む上京区上御霊竪町、さらに西側の上京区上御霊前町と上京区上御霊中町、北区上御霊上江町と御霊を冠する町名が複雑に入り組んでいる。この内、新御霊口町と上御霊上江町の2つの町が北区に属し、それ以外の5町が上京区… ►続きを読む
閑臥庵
黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵(かんがあん) 2010年1月17日訪問 閑臥庵 竜宮門 西園寺の山門を出て天寧寺の前を過ぎ、再び寺町通と鞍馬口通が交わるところまで戻る。鞍馬口通を東に曲がれば上善寺そして出雲路鞍馬口に至るが、今度は西に曲がる。通りの北側に閑臥庵の竜宮門が現われる。 閑臥庵は黄檗宗の禅寺で山号は瑞芝山。黄檗宗は日本における三禅宗のうちの一宗派で、隠元隆琦が江戸時代に開いた宇治市の黄檗山萬福寺を本山とする。隠元禅師は中国明朝時代の臨済宗を代表する僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺の住持を務めていた。当時の中国は明末清初の混乱の真っ只中にあった。禅師は日本からの度重なる招請… ►続きを読む
西園寺
浄土宗 宝樹山竹林院 西園寺(さいおんじ) 2010年1月17日訪問 西園寺 山門 天寧寺の山門を出て寺町通を南に下ると、すぐに次の西園寺の山門が現われる。西園寺は寺名から分かるように清華家・西園寺家に所縁がある。 西園寺 本堂 西園寺 地蔵堂 左は稲荷社 西園寺家は藤原公実の四男・藤原通季を祖とする。父の公実は平安時代の藤原北家閑院流の公卿で、正二位権大納言に至り三条大納言と称された人物である。また、通季の異母兄である実行が三条家、実弟の実能は徳大寺の祖となるなど、公実の子達から清華家七家の内、実に三家が生まれている。西園寺家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)… ►続きを読む
天寧寺
曹洞宗 万松山 天寧寺(てんねいじ) 2010年1月17日訪問 天寧寺 山門の奥に比叡山が見える 上善寺の墓地への入り方が分からなかったため、残念ながら長州人首塚を果たせず、鞍馬口通に面した上善寺の山門前から寺町通を下った。 御土居建設時、寺町通に沿って寺院が移築されたため、この場所の寺院は寺町通の東側に一列に並ぶ。寺町頭から最初の寺院は曹洞宗の天寧寺である。この寺院は上善寺と同じく、天寧寺門前町として町名となっている。寛永14年(1637)の洛中絵図には既に「天寧前丁」の名を見ることが出来る。さらに宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」では鞍馬口通側を「天寧寺門前町」、寺町通側を「天… ►続きを読む
贈 正四位入江九一外七名首塚 その2
贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか)その2 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚 贈 正四位入江九一外七名首塚では首塚の主である入江九一の略歴、甲子戦争での最期の状況について越前側の視点も含めて見て来た。ここでは首塚が発見されて碑が建立された経緯を書いてみたい。 長人首塚についての記述は、昭和初年に出版された「京都維新史蹟」と「京都史蹟めぐり」に見ることができるものの、昭和後期の竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5洛中」(駸々堂出版 1984年刊)には「長州藩士入江九一外九名の墓がある」という紹介のみである。 「京都維新史蹟」は… ►続きを読む
贈 正四位入江九一外七名首塚
贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか) 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚 上善寺山門前の碑 上善寺の山門前には3つの碑がある。先ず一番大きな「第一番六地蔵寺」、六地蔵巡りのためのものであろうが鞍馬口通に面する碑文には上善寺の文字が見えない。次に山門の右手の金属製の柵と築地塀の間に建てられている「七番 地蔵尊」。何の七番なのかは不明である。そして左手の柵の手前に建てられた「贈 正四位入江九一外七名首塚」の石碑である。この石碑はフィールド・ミュージアム京都に掲載されていない。この項を書くために調べていて、初めて未掲載石碑であっ… ►続きを読む
上善寺
浄土宗 千松山遍照院 上善寺(じょうぜんじ) 2010年1月17日訪問 上善寺 出雲路橋の西詰北側の公園にある出雲路鞍馬口の石碑と師範桜碑を確認した後、鞍馬口通を西に進むと、寺町通が鞍馬口通に突き当る先に上善寺の山門が現れる。鞍馬口通から今出川通にかけての寺町通に面した一帯を寺町頭とも呼ぶらしい。これからこの寺町頭の寺院を北側から順番に見てゆくこととなるが、まずは一番北側にある上善寺から訪問する。 上善寺 境内 右手に地蔵堂 寺伝によると、上善寺は貞観5年(863)円仁大師により草創されている。円仁大師は最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡とともに入唐八家の一人に数えられる… ►続きを読む
師範桜碑
師範桜碑(しはんさくらひ) 2010年1月17日訪問 師範桜碑 出雲路橋の西詰北側の公園の一角に出雲路鞍馬口の石碑が建つ。この地はかつて、出雲より都に来た人々が多く住む集落があったため出雲郷と呼ばれていた。賀茂川の西岸に現在でも出雲路を冠する町名が残る。出雲路は洛北にあって鞍馬に至る鞍馬街道の出発点でもあり、出雲路橋を東に渡り下鴨村の集落から北に進む。さらに上賀茂、深泥池、幡枝、市原、二瀬を経由して鞍馬に至る道が鞍馬街道とされていた。すなわち出雲路は平安京の東北に位置したため、鞍馬方面からの物資の入口でもあった。時代が下り豊臣秀吉によって都市再整備の一環として御土居が建設される。出雲路… ►続きを読む
出雲路鞍馬口
出雲路鞍馬口(いずもじくらまぐち) 2010年1月17日訪問 出雲路鞍馬口 光格天皇御胞塚の石碑の建つ護浄院の境内から河原町通に出る。ここより市バスを使い出雲路橋に向う。鴨川の西岸に沿った道の内、葵橋西詰から京都産業大学総合グランドの北にある高橋の西詰までを加茂街道と名付けている記事を見かけたことがある。ただし「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)に掲載されていないので、どこまで一般化した名称なのか分からない。高橋より先、加茂街道は東西に分かれる。西は雲ヶ畑へ向う府道61号京都京北線、東は鞍馬を通る府道38号京都広河原美山線である。なお葵橋西詰から始まり鞍馬へ至… ►続きを読む
光格天皇御胞塚
光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか) 2010年1月17日訪問 光格天皇胞衣塚 護浄院の境内に、五輪塔とともに光格天皇御胞塚の石碑が建つ。碑文は光格天皇御胞塚とあるだけで建立年や建立者も記されていない。碑文も摩滅し読み辛くなっているため、「第百十九代光格天皇御胞塚」という駒札が新たに建てられている。さらに読み方が示すために「おんえなづか」とふり仮名も付けられている。 胞衣とは胎児が生まれた後の胎盤などを表わす言葉である。胞衣は生命の誕生に関連するものであり、昔から神聖なものとして扱われてきた。妊娠し出産した後も子供が成人するまでは、胞衣は子供の分身として扱われていたようで、子… ►続きを読む
清三宝大荒神尊
清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問 清三宝大荒神尊 護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭… ►続きを読む
護浄院
天台宗 護浄院(ごじょういん) 2010年1月17日訪問 護浄院 清荒神 京都府立鴨沂高等学校の校門脇に建てられた明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の石碑を確認した後、寺町通を北上して荒神口通を右に曲がる。法成寺址の前を過ぎてさらに東に進むと、新烏丸通の東南角に護浄院が現われる。この寺院のある荒神町は寺町通から河原町通を越え三本木通までの荒神口通に面した南北町である。鴨沂高等学校のグランドは荒神町であるが、荒神口通の南側にある校舎は松蔭町に含まれている。また護浄院を過ぎると荒神口通の南側は上生洲町になる。南北町であるにも関わらず荒神口通の南側は護浄院と河原町通より先の数軒のみが荒神町であ… ►続きを読む
明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2
明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと)その2 2010年1月17日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 2009年12月10日撮影 2010年1月に京都府立鴨沂高等学校を訪れた際はまだ高校として使われていたが、2014年には既に建替工事が始まっていた。そして2016年には校舎も無くなっていたので非常に驚いた。当初は平成28年(2016)末には完成する予定だったが、土壌汚染が判明し竣工が平成30年(2018)夏に延びてしまったようだ。この土壌汚染の原因が過去の土地利用に関係するものなのか気になるところではあるが、この項では… ►続きを読む
京都府立鴨沂高等学校 その2
京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問 鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築 京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も… ►続きを読む
昭和京都名所圖會 その4
昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その4 昭和京都名所圖會 地図上へのプロット 昭和京都名所圖會から その2、その3と3回にわたり竹村俊則の経歴と共に「新撰京都名所圖會」全七巻(白川書院 1965年完結)から「昭和京都名所圖會」全七巻(駸々堂出版 1989年完結)までの執筆の経緯を書いてきました。本来、「新撰京都名所圖會」を完結した時点で当初の竹村の目的が完了していたはずでしたが、彼が予想していた以上に社会の変化が激しかったこと、そして自らの手による挿画が時代から取り残されて行ったことが、二度目の執筆に向わせたと思います。その反省があったため、「昭和京都名所圖會」は「新撰… ►続きを読む
昭和京都名所圖會 その3
昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その3 昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上 今熊野図 竹村俊則画 昭和54年9月このような広域の鳥瞰図も描いている 昭和京都名所圖會 その2では、「新撰京都名所圖會」の完結と白川書院の廃業までを書いてきました。この項では「昭和京都名所圖會」の執筆以降を書いて行こうと思います。 「新撰京都名所圖會」が完結してから6年経た昭和46年(1971)に巻四の第五版が発行されています。この版は第四巻としては新字に改訂してからの最初の刷り増しとなりました。竹村はこの巻のあとがきも全面的に書き換えています。 この巻は巻三の洛中の部の… ►続きを読む
昭和京都名所圖會 その2
昭和京都名所圖會(しょうわきょうとめいしょずえ)その2 昭和京都名所圖會 「昭和京都名所圖會 巻一」 洛東-上 昭和京都名所圖會では、1965年に全7巻で完結した「新撰京都名所圖會」とその後に時代の変化に合わせて改訂出版された「昭和京都名所圖會」を紹介するに留まってしまいました。この項では竹村俊則の経歴を中心に書いて行こうと考えています。 竹村俊則については、なかなか纏まった資料がないように思われる。いろいろな所で見る経歴やエピソードは、自らの著書のあとがきや新聞等のインタビューによるものが多いようです。このあたりを手際良くまとめたのが、板井博彦氏の「竹村俊則と新撰京都名所圖會」(京都… ►続きを読む