徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:史跡

是より洛中碑

 

是より洛中碑(これよりらくちゅうひ)2010年1月17日訪問 是より洛中碑  光照院門跡の山門右脇にある持明院仙洞御所跡の石碑を確認した後、室町通に戻り、室町頭町にある室町小学校を目指す。 室町頭町は室町通の両側町。町名の頭町は室町通の北端という意味を持っている。現在の室町通は、途中東本願寺と京都駅で分断されているものの、北は北山通から南は久世橋通まで通じる南北路である。しかし寺之内通で凡そ30mほど東側に移っている。この寺之内通を北端として、南は上立売通までが室町頭町とされている。なお「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、天文15年(1546)11月1… ►続きを読む

 

持明院仙洞御所跡

 

持明院仙洞御所跡(じみょういんせんとうごしょあと)2010年1月17日訪問 持明院仙洞御所跡  光照院門跡の山門右脇に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。後伏見上皇の皇女・進子内親王が泉涌寺の無人如導によって落飾し、自本覚公尼となったのは、延文元年(1356)のこととされている。この時に室町一条北に光明院が創建されたと考えられている。その後、応仁の乱によって光明院が焼失すると、文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。光明院の開山となった自本覚公尼の父である後伏見天皇が持明院統であったことから、この所縁のある土地を賜ったのであろう。 もともと持明院は藤原基頼の邸宅で… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その5

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その5 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡  藤井右門邸跡 その3及び、その4で明和事件の主犯とされる山縣大弐と藤井右門の宣告とその最期を見てきた。この項では宝暦事件の主犯で明和事件にも連座した竹内式部の最期と事件終結後の藤井右門の末裔とその自邸の変遷について書いてみる。 山縣大弐、藤井右門に続き竹内式部にも刑が与えられた。その宣告は以下の通りである。     勢州宇治今在家町御師鵜飼又太夫方に居候                   式部事 竹内正庵                       五十六歳其方儀、永澤町浪人山縣大弐、並同人方に居候京… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その4

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その4 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影  藤井右門邸跡 その3では明和事件において山縣大弐捕縛となった経緯と処罰がいかに決定し、刑に処せられたかについて書いてきた。ここでは藤井右門の宝暦・明和の二事件にどのように関与し、その最期を明らかにする。 今回、藤井右門を書くに辺り、その事跡を記した書籍を探したが、殆どないことが分った。そのため唯一の伝記となる佐藤種治著「勤王家藤井右門」(中田書店 1936年刊)を参照する機会が多くなる。このようなこととなったのには、本書の序文で触れているように、藤井右門に関する史料・資料が圧倒的… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その3

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その3 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2011年6月18日撮影  藤井右門邸跡 その2では、明和事件の主犯とされる山縣大弐の経歴と事件の遠因となった柳子新論、そして事件の発端となった小幡藩での吉田玄蕃監禁について書いて来た。この項では山縣大弐逮捕に至った経緯と関係者に対する処分について書いてみる。 吉田玄蕃監禁事件の関係者に対する処分を明らかにするために、明和4年(1767)8月21日の小幡藩の国替、藩主の交代と隠居蟄居が行われたことまで記した。再び監禁事件が発生した明和3年(1766)12月まで時間を戻す。上記のように小幡藩内で監禁事件が発… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡 その2

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)その2 2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡  藤井右門邸跡では、藤井右門が関与した明和事件を説明する前に、宝暦事件の経緯を竹内式部中心に見て来た。この項では明和事件の思想的な核となる柳子新論とその著者である山縣大弐について書いて行く。宝暦事件の舞台が京都であるのに対して、この明和事件は江戸で発生している。山縣大弐は江戸で塾を開き江戸で捕縛されているため、この機会に説明しなければ他に書く所が無くなるためである。そのため、またもや藤井右門邸跡の説明からは離れてしまうことを容赦願いたい。 竹内式部に感化された中流の公家が、垂加流神道を桃園天皇に進講しよう… ►続きを読む

 

藤井右門邸跡

 

藤井右門邸跡(ふじいうもんていあと)2010年1月17日訪問 藤井右門宅跡 2016年3月5日撮影  相国寺墓地の禁門変長州藩殉難者塔より、再び方丈の横に戻る。境内を南に歩き経蔵の角を右に曲がると塔頭の瑞春院と西門が見えてくる。この門は上立売通に建てられているので、境内を出るとすぐに烏丸上立売の交差点となる。横断歩道を西側に渡ると目の前に大きな藤井右門邸跡の石碑が現れる。尊王論者であった藤井右門が京都に構えた邸宅の跡である。 藤井右門について書く前に、宝暦事件と明和事件の経緯を確認する。既に一度、宝暦事件については慶光天皇廬山寺陵で触れているが、明和事件に至る過程を説明する上でも重要な事… ►続きを読む

 

薩摩藩戦死者の墓 その3

 

薩摩藩戦死者の墓(さつまはんせんししゃのはか)その3 2010年1月17日訪問 相国寺 薩摩藩戦死者墓  薩摩藩戦死者の墓 その2では、甲子戦争での薩摩藩の戦闘状況を書いてきた。この項では薩摩藩戦死者の墓に祀られている人々の行動を墓に埋められた陶板と幕末維新全殉難者名鑑を比較しながら明らかにすると共に、靖国神社への合祀までの道程について記す。 先ず幕末維新に斃れた人々の事跡の調べた明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊 以降、全殉難者名鑑とする)を参照する。元治元年(1964)7月19日の甲子戦争の薩摩藩の戦死者は8名。その内5名が当日死亡、残りの3名は傷が元で… ►続きを読む

 

応仁の乱勃発地

 

応仁の乱勃発地(おうにんのらんぼっぱつち) 2010年1月17日訪問 応仁の乱勃発地  上御霊神社の西の楼門と鳥居を潜り、上御霊前通に出ると鳥居の右手側に応仁の乱勃発地の石碑がある。これは京都市が昭和45年(1970)に建てた碑である。 応仁の乱とは、室町時代の応仁元年(1467)から文明9年(1477)まで続いた内乱である。そもそも室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏の家督争いから始まり、やがて細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、さらに室町幕府8代将軍足利義政の継嗣問題も加わり、ほぼ全国に紛争が拡大していった。この応仁の乱とその後の明応2年(1493)に起きた明応の政変によって、戦国時代に… ►続きを読む

 

贈 正四位入江九一外七名首塚 その2

 

贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか)その2 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚  贈 正四位入江九一外七名首塚では首塚の主である入江九一の略歴、甲子戦争での最期の状況について越前側の視点も含めて見て来た。ここでは首塚が発見されて碑が建立された経緯を書いてみたい。 長人首塚についての記述は、昭和初年に出版された「京都維新史蹟」と「京都史蹟めぐり」に見ることができるものの、昭和後期の竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5洛中」(駸々堂出版 1984年刊)には「長州藩士入江九一外九名の墓がある」という紹介のみである。 「京都維新史蹟」は… ►続きを読む

 

贈 正四位入江九一外七名首塚

 

贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか) 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚 上善寺山門前の碑  上善寺の山門前には3つの碑がある。先ず一番大きな「第一番六地蔵寺」、六地蔵巡りのためのものであろうが鞍馬口通に面する碑文には上善寺の文字が見えない。次に山門の右手の金属製の柵と築地塀の間に建てられている「七番 地蔵尊」。何の七番なのかは不明である。そして左手の柵の手前に建てられた「贈 正四位入江九一外七名首塚」の石碑である。この石碑はフィールド・ミュージアム京都に掲載されていない。この項を書くために調べていて、初めて未掲載石碑であっ… ►続きを読む

 

師範桜碑

 

師範桜碑(しはんさくらひ) 2010年1月17日訪問 師範桜碑  出雲路橋の西詰北側の公園の一角に出雲路鞍馬口の石碑が建つ。この地はかつて、出雲より都に来た人々が多く住む集落があったため出雲郷と呼ばれていた。賀茂川の西岸に現在でも出雲路を冠する町名が残る。出雲路は洛北にあって鞍馬に至る鞍馬街道の出発点でもあり、出雲路橋を東に渡り下鴨村の集落から北に進む。さらに上賀茂、深泥池、幡枝、市原、二瀬を経由して鞍馬に至る道が鞍馬街道とされていた。すなわち出雲路は平安京の東北に位置したため、鞍馬方面からの物資の入口でもあった。時代が下り豊臣秀吉によって都市再整備の一環として御土居が建設される。出雲路… ►続きを読む

 

出雲路鞍馬口

 

出雲路鞍馬口(いずもじくらまぐち) 2010年1月17日訪問 出雲路鞍馬口  光格天皇御胞塚の石碑の建つ護浄院の境内から河原町通に出る。ここより市バスを使い出雲路橋に向う。鴨川の西岸に沿った道の内、葵橋西詰から京都産業大学総合グランドの北にある高橋の西詰までを加茂街道と名付けている記事を見かけたことがある。ただし「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)に掲載されていないので、どこまで一般化した名称なのか分からない。高橋より先、加茂街道は東西に分かれる。西は雲ヶ畑へ向う府道61号京都京北線、東は鞍馬を通る府道38号京都広河原美山線である。なお葵橋西詰から始まり鞍馬へ至… ►続きを読む

 

光格天皇御胞塚

 

光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか) 2010年1月17日訪問 光格天皇胞衣塚  護浄院の境内に、五輪塔とともに光格天皇御胞塚の石碑が建つ。碑文は光格天皇御胞塚とあるだけで建立年や建立者も記されていない。碑文も摩滅し読み辛くなっているため、「第百十九代光格天皇御胞塚」という駒札が新たに建てられている。さらに読み方が示すために「おんえなづか」とふり仮名も付けられている。 胞衣とは胎児が生まれた後の胎盤などを表わす言葉である。胞衣は生命の誕生に関連するものであり、昔から神聖なものとして扱われてきた。妊娠し出産した後も子供が成人するまでは、胞衣は子供の分身として扱われていたようで、子… ►続きを読む

 

清三宝大荒神尊

 

清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問 清三宝大荒神尊  護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭… ►続きを読む

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと)その2 2010年1月17日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 2009年12月10日撮影  2010年1月に京都府立鴨沂高等学校を訪れた際はまだ高校として使われていたが、2014年には既に建替工事が始まっていた。そして2016年には校舎も無くなっていたので非常に驚いた。当初は平成28年(2016)末には完成する予定だったが、土壌汚染が判明し竣工が平成30年(2018)夏に延びてしまったようだ。この土壌汚染の原因が過去の土地利用に関係するものなのか気になるところではあるが、この項では… ►続きを読む

 

法成寺址 その5

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その5 2010年1月17日訪問 法成寺址 左側は京都府立鴨沂高等学校の運動場  明けましておめでとうございます。2017年最初の更新となります。 昨年は9月頃から”別の作業”が忙しくなり、なかなか更新することが出来なくなりました。その作業も凡そ目途がつき、3月頃には完了する予定です。そうすればもう少し更新頻度も上がると考えておりますのでよろしくお願いいたします。  廬山寺墓地と慶光天皇廬山寺陵(その2、その3、その4、その5)を拝観し、御土居を見学した後、廬山寺の山門より、再び寺町通を100メートルほど南下すると京都府立鴨沂高等学校が現われる。鴨沂高等学校に… ►続きを読む

 

史跡・御土居

 

史跡・御土居(しせき・おどい) 2010年1月17日訪問 廬山寺 御土居  廬山寺墓地の東側、河原町通との間に南北に並ぶ木の列が見える。墓地の地盤に比べてやや高台になっている箇所が、豊臣秀吉の天正の地割りと共に築かれた御土居の東端にあたる。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、御土居建設は天正19年(1591)年に入ってすぐに着手されている。同書では近衛信尹の「三藐院記」を引用し、「閏一月に開始して、二月に過半ができた」としている。凡そ22.5Kmに及ぶ大土木工事を少なくとも2ヶ月、長くみても4ヶ月以内に完成させたこととなる。このように短期間の… ►続きを読む

 

大久保利通旧邸 その3

 

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その3 2010年1月17日訪問 大久保利通旧邸 中央に石薬師中筋が見える 西郷の寓居もこのあたりにあったと思われる  大久保利通旧邸 その2では大久保利通が小松帯刀より御花畑邸にあった茶室を譲り受けて、石薬師邸の南庭に移設したところまでを書いてきた。この項では、有待庵の謂れとともに小松の御花畑邸で締結されたとする薩長同盟について調べてみる。 前述のように大久保利武の「有待庵を繞る維新史談」(「尚友ブックレット9 重野安繹『西郷南洲逸話』、大久保利武『有待庵を繞る維新史談』」(芙蓉書房出版 2011年刊) 以後「維新史談」と記す)にも記されてい… ►続きを読む

 

大久保利通旧邸 その2

 

大久保利通旧邸(おおくぼとしみちきゅうてい)その2 2010年1月17日訪問 大久保利通旧邸 京都市教育会が昭和2年(1927)に建立した石碑  大久保利通旧邸では、大久保利通の幕末維新時の行動を時系列に見て来た。最初の上京が文久2年(1862)1月13日であり、明治元年(1868)9月20日に行われた東京行幸までの6年余の期間が大久保にとっての京都における政治活動の全てであった。この期間の前半は錦小路や二本松の京都薩摩藩で暮らしていたが、後半は藩邸外に邸宅を持ち他藩の藩士特に長州藩士との情報交換に用いたことが分かる。薩長同盟が締結された慶応2年(1866)正月の後となる同年春には、御所… ►続きを読む

 
 

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