徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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梁川星巌邸址 その2

 

梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと)その2 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址 2011年6月18日撮影  安政4年(1857)10月、梁川星巌は8年暮らした川端丸太町から、東三本木の貸家に居を移し鴨沂水荘と称している。この項では若干脱線するが、三本木に移り住んだ後の星巌と紅蘭、そして鴨沂水荘の変遷について書いていくこととする。  伊藤信著の「梁川星巌翁 附紅蘭女史」によると、 庭中怪松あり。因りてまた老龍庵と名づく。(但し老龍庵の名は丸田町の宅に住せし時にも之を用ひたり)もと中島棕隠の寓せし所にして、頼山陽が修史の亭(山紫水明処)とも相隣り、鴨水叡嶽の勝を一欄に収め、風煙絶佳… ►続きを読む

 

梁川星巌邸址

 

梁川星巌邸址(やながわせいがんていあと) 2009年12月10日訪問 梁川星巌邸址  立命館草創の地の碑から山紫水明処の前を通り丸太町通に戻る。そして丸太町橋を渡り左京区に入る。昭和47年(1972)から始まった三条・出町柳間の地下化工事は、平成元年(1989)に完成し現在では京阪鴨東線として営業している。川端通の下を京阪電車が走ることで京都の南北間の輸送力を飛躍的に増強させ、自動車による地上の交通緩和に大いに寄与している。それは鴨川とその奥の東山の景観美化の上でも大きな貢献を果たしている。 川端丸太町の交差点は、京阪鴨東線 神宮丸太町駅の地上出入口以外には特に目立ったものもない、ごく普… ►続きを読む

 

立命館草創の地

 

立命館草創の地(りつめいかんそうそうのち) 2009年12月10日訪問 立命館草創の地  頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い丸太町通より新三本木町に入り込んだ。現在では、どこにでも見かけることの出来る普通の住宅街だが、開町からの歴史を眺めると実に奥深い町であったことが分かる。頼山陽書斎山紫水明処では山紫水明処へ導く道標を建立した人物について記した。新三本木の町並みとその2では、町の形成から、この町に住んだ秋月悌次郎について触れた。山紫水明処では内部の見学もしないのに、その5までを使い、山紫水明処についてはもちろん、頼山陽の生涯とその系譜、さらには山陽の転居歴について書いてみた。また吉田屋・… ►続きを読む

 

山紫水明処 その5

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その5 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  頼山陽没後、3人の子供を連れた梨影は天保5年(1834)10月、福井藩医の安藤静軒に水西荘を譲り渡し、富小路通押小路下ルに移る。生活を切り詰め、山陽の残してくれた遺産を長く使うためだろう。さらに安藤英男の論文「頼山陽の京寓とその生活 ―頼山陽書簡集をめぐって」によると嘉永3年(1850)正月には“姉小路お池下ル”へ転宅し、梨影は安政2年(1855)9月に、この家で病没している。享年59。 山… ►続きを読む

 

山紫水明処 その4

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その4 2009年12月10日訪問 山紫水明処   文政5年(1822)11月 ~ 天保3年(1832)9月                    9年10ヶ月  山陽は両替町押小路の家(薔薇園)に入居した年から早くも転居を考え、新しい家の物色を始めていた。緊まりのない町中が、学者文人の住む環境でないことに気が着き、鴨川や東山の景観との別れに惜しみを感じるようになってきたためであろう。そして終の棲家となる場所を探し始めたとも言える。 文政4年(1823)9月には東三本木丸太町の地に見込みをつけている。しかし狭斜(中国長安の道幅の狭い遊里のあった街の名)の巷… ►続きを読む

 

山紫水明処 その3 

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その3 2009年12月10日訪問 山紫水明処  木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生 増補版」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)の年譜に従うと、文化8年(1811)の入京以来下記のように転居を繰り返していることが分かる。文化8年 (1811) 閏2月 入京 新町通丸太町上ル春日町に開塾文化9年 (1812) 正月 車屋町御池上ル西側に転居文化12年(1815) 6月 二条高倉へ転居文政2年 (1819) 3月10日 先発帰京、二条木屋町仮寓文政4年 (1821) 4月26日 両替町押小路上ル東側に転居             (薔薇園)文政5年 (182… ►続きを読む

 

山紫水明処 その2

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ)その2 2009年12月10日訪問 山紫水明処 頼山陽山紫水明処  山紫水明処では、頼家の系譜と頼山陽の生涯について記した。ここでは頼家の系譜に就いてまとめてみる。なお下記の略系は木崎好尚の「百年記念 頼山陽先生」(頼山陽先生遺蹟顕彰会 1933年刊)による。初代:正茂 -2代:道喜 -3代:良皓 -4代:亨翁                         |     --------------------    |5代:春水 -6代:聿庵 -7代:誠軒 -8代:弥次郎                         |     -----------… ►続きを読む

 

山紫水明処

 

山紫水明処(さんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 山紫水明処 東三本木通に面した路地  頼山陽書斎山紫水明処の道標に従い、丸太町通より北に上ると直ぐに道は左右に分かれる。左の道は西三本木通、そして右は東三本木通と呼ばれている。新三本木の町並み その2でも書いたように、新三本木は南北に走る東三本木通に面した区域で、北側から上之町、中之町そして南町で構成されている。山紫水明処は最も南に位置する南町の鴨川に面した場所に建てられている。 頼山陽は江戸時代後期の儒者で安芸の人。名は襄、字は初め子賛、後に子成、通称は久太郎で山陽は号。他に三十六峰外史、改亭、悔亭そして憐二などといった時代… ►続きを読む

 

頼山陽書斎山紫水明処

 

頼山陽書斎山紫水明処(らいさんようしょさいさんしすいめいしょ) 2009年12月10日訪問 頼山陽書斎山紫水明処  丸太町橋の西南橋詰には、明治5年(1872)に開設された新英学校及女紅場が、明治7年(1874)に英女学校及女紅場、明治9年(1876)に京都女学校及女紅場、明治7年(1882)に京都女学校、そして明治20年(1887)には京都高等女学校と校名を変えながら明治31年(1898)までこの地に存在していた。そして大正13年(1924)に竣工した旧京都中央電話局上分局も平成元年(1989)からは商業施設に改修されている。 この場所の対面にあたる丸太町通の北側には、頼山陽書斎山紫水… ►続きを読む

 

女紅場址 その2

 

女紅場址(にょこうばあと)その2 2009年12月10日訪問 女紅場址  丸太町橋の西南詰に建てられた女紅場について調べてみる。石碑の北面には、女紅場址の説明として「本邦高等女学校之濫觴」と記されている。そして西側に「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」とある。この女紅場は明治5年(1872)に九条家の別邸に建てられたもので、明治37年(1904)4月に京都府立京都第一高等女学校と改称されている。そのため官立東京女学校として明治4年(1871)12月に設置された東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に次いで最も古い高… ►続きを読む

 

女紅場址

 

女紅場址(にょこうばあと) 2009年12月10日訪問 女紅場址 旧京都中央電話局上分局の北東角  旧京都中央電話局上分局の北東角、鴨川に架かる丸太町橋の南西橋詰には女紅場址の碑が建つ。 女紅場の説明に入る前に明治初年の教育事情について簡単に触れておく。京都では明治2年(1869)1月、前年に決めた上京45下京41の町組を改正した第二次町組が出来る。この町組改正により上京33、下京32の計65町組が一応出来上がる。しかし明治2年の内に下京1町組が分離し2町組となったため、上京33町組下京33町組の66町組となる。 前年の明治元年(1868)9月に既に京都府は小学校の建設を各町に奨励してい… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その7

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その7 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この項では小楠暗殺以降のことをまとめてみる。  新政府の重臣に対する襲撃事件の実行犯を即刻逮捕することは、朝威と政体の上から必要不可欠なことであった。事件発生後直ぐに洛中には軍務官と京都府から捕吏が繰り出された。そして京七口には平安隊の兵が固め、大津・淀・伏見の往来を禁じ、犯人の逃走路を遮断した。早くから十津川人と肥後人が犯行に関わっていると見られ、肥後藩重役に呼び出しがかかり、十津川藩邸や屯所も捜索されている。 事件当日、中町夷川通の中村屋梅吉方で重態の柳田直蔵が発見される。襲撃で深手… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その6

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その6 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その5では同世代人である佐久間象山との比較の中から、横井小楠の思想の柔軟さと革新性を見い出した。いよいよこの項では小楠暗殺がどのように行われたかについて記してみる。 慶応3年(1867)12月18日、三職が参内し朝議が行われ、王政復古を諸外国に宣言する擬案とともに人材登用・革政所設置の事が議論されている。「復古記 第一冊」(東京帝国大学蔵版 1930年刊)復古記巻十一の12月18日の条には下記のような人選が成されている。   御任選 御沙汰ニ付言上之向、列藩   德川&#… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その5

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その5 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地から横井小楠殉節地 その4までを使い、横井小楠の思想的な展開について、開国論を中心に書いてみた。最初に比較したように佐久間象山と横井小楠について再び考えてみる。象山は文化8年(1811)2月に松代に生まれている。対して小楠は文化6年(1809)8月生まれと、現在の教育制度では小楠が1学年上となる。ほぼ同世代といってもよく、二人は同じ時代に生き、同じものを見て感じ考えてきたはずである。しかしながら歴史的に小楠と象山が巡り合うことはなかったようだ。「日本の名著 30 佐久間象… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その4

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その4 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地 その3では横井小楠の年譜に従い、誕生から時習館改革そして肥後実学党の分裂までを書いてきた。この項では小楠の越前藩招聘から明治元年(1868)までを記してみたい。 万延元年(1860)の「国是三論」から少し時代を遡る。安政4年(1857)5月、越前藩士村田氏寿が松平慶永の命を受け、横井小楠招聘のために熊本を訪れる。肥後藩庁は小楠招聘に対して難色を示し、種々の理由をもとに許可を降ろさなかった。しかし藩主細川斉護の三女勇姫が慶永の正室という姻戚関係から半ば強引に許可を得ること… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その3

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その3 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地と横井小楠殉節地 その2では横井小楠の年譜に触れずに、いきなり対外政策について書き始めた。この項では小楠の生涯を追い、嘉永6年(1853)の「文武一途の説」や「夷虜応接大意」以降の思想的な展開と松平春嶽の活動に与えた影響について考える。 横井小楠は、文化6年(1809)肥後国熊本城下の坪内町に、熊本藩士横井時直の次男として生まれる。文化13年(1816)ころに藩校時習館に入学する。天保4年(1835)一般課程を終え、居寮生となる。天保7年(1836)4月に講堂(一般課程の最… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地 その2

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち)その2 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  横井小楠殉節地では碑の建立の経緯と、横井小楠が嘉永6年(1853)に建言した「文武一途の説」を通じて、小楠の思想がどのようなものであったかを記してみた。小楠の外交に対する考え方が少し長くなってきたため、翌年の再訪を約してペリーが日本を去ったところで前項を閉じた。この項ではペリーに次いで日本を訪れたプチャーチンへの応接を通じてさらに小楠の外交政策の展開を見て行く。 ペリーの1回目の浦賀来航から僅かに遅れ、嘉永6年(1853)7月18日、プチャーチンは旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長… ►続きを読む

 

横井小楠殉節地

 

横井小楠殉節地(よこいしょうなんじゅんせつのち) 2009年12月10日訪問 横井小楠殉節地  この日は朝の散歩程度しか時間が取れなかったので、京都御所の東側のごく限られた範囲のみを歩いてみた。いずれ京都御苑内については時間をかけて見て行きたいと考えている。 京都御苑の南側を東西に走る丸太町通から寺町通を南に入り、下御霊神社に行く途中に横井小楠殉節地の碑が建つ。この碑は、その碑文より昭和7年(1932)に寄付を受けて京都市教育会が再建したことが分かる。中村武生氏の「京都の江戸時代をあるく 秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで」(図書出版 文理閣 2008年刊)の中で説明しているとおり、京都市… ►続きを読む

 

勤王家殉難地

 

勤王家殉難地(きんのうかじゅんなんのち) 2009年12月9日訪問 勤王家殉難地  小泉仁左衛門宅跡の東側を小畠川が流れる。もともと桂川の右岸の耕地を潤すための用水路であったため、それ程川幅は大きくない。山陰道に架けられた橋の上に勤王家殉難地の碑が建てられている。この碑については、フィールドミュージアム京都の記述が簡潔にして、詳しく説明されているのでご参照下さい。 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡 勤王家殉難地  嵯峨・天龍寺に布陣した国司信濃隊は、元治元年(1864)7月18日深夜に進軍を開始し、翌19日早朝には御所の西側の中立売門、蛤門そして下立売門周辺に集結した。中立売門… ►続きを読む

 

小泉仁左衛門宅跡

 

小泉仁左衛門宅跡(こいずみにざえもんたくあと) 2009年12月9日訪問 小泉仁左衛門宅跡 現在は集合住宅が建つ  樫原の辻から山陰道を西に少し入った所に、北から小畠川が流れてくる。この川は明智川ともよばれるように、明智光秀が天正3年(1575)丹波平定のおり、樫原を補給基地とし老の坂から樫原そして桂までの道を整備している。その際に、溜池や灌漑用水路の築造も行っている。小畠川はその際に作られた用水路とされている。小さな橋の傍らに駒札が建てられている。この駒札は、先の樫原の町並みで紹介した樫原宿場街と札場と同様、京都市の建てたものではないようだ。京の駒札(https://vinfo06.a… ►続きを読む

 
 

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