徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

タグ:史跡

羅城門遺址

 

羅城門遺址(らじょうもんいし) 2008年05月18日訪問 羅城門遺址  東寺の南大門を出て、西寺址を目指し九条通を西に進む。歩いていては気が付かないが、南大門から西側部分の九条通は、徐々に南に折れている。東寺の境内の南端にある堀の幅を見るとよく分かる。千本通が九条通を交差する少し手前を北に入っていくと三角形をした小さな敷地の花園児童公園が現れる。この公園の中央に柵に囲まれて建つ石碑がある。これが明治28年(1895)の平安遷都千百年紀念祭の事業として建立された羅城門遺址である。 古代都市を取り囲む城壁のことを羅城と呼ぶことから、羅城門とは羅城に開けられた門のことである。中国では外敵防禦… ►続きを読む

 

蒲生君平先生仮寓御趾

 

蒲生君平先生仮寓御趾(がもうくんぺいせんせいかぐうおんあと) 2008年05月17日訪問 熊野神社 丸太通から  御辰稲荷神社から丸太町通の北側を天王町の交差点に向かい歩く。平安神宮の東境界を走る岡崎通と丸太町通が交差する地点の手前の民家の軒先に2本の石標が立つ。 左の石標には小沢蘆庵宅址とある。これは大正6年(1917)に京都市教育会が建立している。 小沢蘆庵は江戸時代後期の歌人であり、国学者。享保8年(1723)尾張藩竹腰家家臣・小沢喜八郎実郡の末子として難波に生まれる。小沢氏は大和宇陀郡の松山藩織田氏家臣であったが、祖父の代に家名断絶したため、父は諸国を流浪した後大坂に住んでいる。… ►続きを読む

 

西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡

 

西行庵 芭蕉堂 大雅堂跡(さいぎょうあん ばしょうどう たいがどうあと) 2008年05月16日訪問 西行庵 門前には不許葷肉入門内の石碑が建つ  高台寺を出てねねの道を北に向かい、祇園閣のある大雲院の突き当りを右に曲がり円山公園に至る間に、西行庵、芭蕉堂そして大雅堂跡という文人・画人の住居跡やその足跡を偲ぶものが並んでいる。安養寺の六阿弥の也阿弥がホテルになり、正法寺の塔頭の叔阿弥が翠紅館に代わって行く経緯や、京都画壇を代表する竹内栖鳳の邸宅跡も残るように、この地は風光明媚で遊興に適した場所であったことが分る。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士、僧侶そして歌人である西行は、永… ►続きを読む

 

翠紅館跡

 

翠紅館跡(すいこうかんあと) 2008年05月16日訪問 翠紅館跡  清水寺から高台寺に向けて二寧坂を下ってくると、正面に高台寺の巨大な駐車場と霊山観音が現れる。この二寧坂の終わる右角に京懐石を供する京大和という料亭がある。その門前には翠紅館跡の碑が建つ。 そして永和2年(1376)国阿上人が入寺して時宗霊山派の本山とし、寺号も正法寺に改める。国阿上人は播磨国に生まれ、熊野などの山岳における修行に勤め、伊勢神宮を信仰している。 ある時、上人は伊勢神宮参詣の途上、女性の死骸に出会う。その亡骸を手厚く葬るが、死に触れた穢れのため参宮を中止しようとする。その時、死骸に化身していた天照大神が現れ… ►続きを読む

 

吉村寅太郎寓居址

 

吉村寅太郎寓居址(よしむらとらたろうぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 吉村寅太郎寓居址の碑  木屋町通三条上るの武市瑞山先生寓居跡の碑が建つ金茶寮の南側隣地に、吉村寅太郎寓居址の碑がある。1階部分が道路から少しセットバックし、前庭のように設えられている中に置かれているため、少し見づらい状況になっている。また何故だか分からないが、狸の焼き物も置かれている。 この碑も含めて「吉村寅太郎」と書かれたものを多く見てきた。しかし自ら虎太郎という文字を多用していたと言われているので、ここでは虎太郎という表記を使う。  吉村虎太郎は天保8年(1837)土佐国高岡郡芳生野村(現在の高知県高岡郡… ►続きを読む

 

武市瑞山先生寓居跡

 

武市瑞山先生寓居跡(たけちずいざんせんせいぐうきょのあと) 2008/05/15訪問 武市瑞山先生寓居跡  木屋町通三条上るにある京料理・金茶寮の門前には、ちりめん洋服発祥の地 の碑とともに武市瑞山先生寓居跡の碑が建っている。先斗町通は三条通で終わっているため、木屋町通の東側にあるこの金茶寮は鴨川に面し、納涼床を売り物としている。この店のHP(https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/na081.html : リンク先が無くなりました )には、この地に武市半平太が在洛中に滞在していた料亭・四国屋丹虎があり、その… ►続きを読む

 

桂小五郎・幾松寓居跡

 

桂小五郎・幾松寓居跡(かつらこごろう・いくまつぐうきょあと) 2008/05/15訪問 桂小五郎・幾松寓居跡  三条小橋から木屋町通を北に進むと大村益次郎卿遭難碑と象山先生遭難碑が高瀬川の西岸に建つ。丁度2つの碑の正面に料亭旅館幾松があり、その門前に桂小五郎・幾松寓居跡の碑がある。 弘化3年(1846)新陰流剣術内藤作兵衛の道場に入門し、剣術を学ぶ。嘉永元年(1848)元服して和田小五郎から大組士桂小五郎となる。これ以降、剣術修行に人一倍精を出し、腕を上げ、実力を認められ始める。  小五郎は嘉永2年(1849)吉田松陰に出会い、兵学を学んでいる。この時期、松陰は長州沿岸の防備視察を行って… ►続きを読む

 

大村益次郎卿遭難碑

 

大村益次郎卿遭難碑(おおむらますじろうきょうそうなんひ) 2008/05/15訪問 大村益次郎卿遭難碑  三条小橋の東橋詰の「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標に従い、木屋町通を進むと象山先生遭難碑の左脇に大村益次郎卿遭難碑が建つ。木屋町通から高瀬川を隔てた対岸、すなわち高瀬川の西岸の高台にある。高瀬川沿いには桜の木が植えられているので、桜の開花時期から新緑の季節に訪れると碑が隠れていて見えないかもしれない。前から象山先生遭難碑も含めて碑の近くに出る経路がないか対岸から探してみているが、どうも通行の許されるものは、無いらいしい。そのためこの2つの碑は木屋町通の歩道から眺めるも… ►続きを読む

 

象山先生遭難碑

 

象山先生遭難碑(しょうざんせんせいそうなんひ) 2008/05/15訪問 象山先生遭難碑  三条小橋の東橋詰に、「佐久間象山・大村益次郎遭難碑北へ約一町」の道標が建つ。三条通と木屋町通の交差部分にあるため、多くの人の目に触れるものとなっている。私が初めてこの碑を見たのはかなり昔のことになるが、道標としてはかなり立派なものであったためか、この場所で暗殺が行われたと思い込んでいた。この碑は昭和10年(1935)老舗料亭・新三浦の白井凌三が建てている。御池通の先にある「象山先生遭難碑」が大正4年(1915)、その脇にある「大村益次郎卿遭難碑」が昭和9年(1934)に建立されている。年代的には、… ►続きを読む

 

池田屋騒動址

 

池田屋騒動址(いけだやそうどうのあと) 2008/05/15訪問 池田屋騒動址  三条通が高瀬川に交わる三条小橋から西に4軒目(空地があるので実質的には5軒目となる)、明治屋京都ビルディングの東隣の店先に池田屋騒動址の碑が建つ。訪問したときも店は閉じられ、管理地の看板が出ていた。確か以前訪れた時はパチンコ屋だったような記憶が残っている。碑のほかにも三条小橋商店街振興組合の設置した説明板が建てられていた。ここは現在、「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」となっていると聞く。なお店内には映画などの階段落ちのシーンで知られる7メートルの大階段とともに、東映の監修で当時の池田屋旅館の帳場が再現されている… ►続きを読む

 

本間精一郎遭難地

 

本間精一郎遭難地(ほんませいいちろうそうなんのち) 2008/05/15訪問 本間精一郎遭難地  四条通から高瀬川の流れを見ながら木屋町通を北に入る。三本目の橋が紙屋橋と呼ばれているように、高瀬川の西側は紙屋町、東側は下樵木町となっている。現在、紙屋橋の正面にはガレージと小さな木戸がある。その北側の小野という表札のかかる町家の脇に本間精一郎遭難地と書かれた碑が建つ。 本間精一郎は天保5年(1834)越後国三島郡寺泊で酢・醤油の醸造を営む「かくほん」という屋号の豪商の長男として生まれる。嘉永6年(1853)6月ペリーが4隻の軍艦を従えて浦賀に来航したのは、精一郎が20歳の時であった。 郷里… ►続きを読む

 

百々橋

 

百々橋(どどばし) 2008/05/13訪問 百々橋の礎石 寺之内通小川  足利将軍室町第址の碑み右手に見ながら、室町通を北へ入る。2本目の通り右に曲がると烏丸通に面した大聖寺門跡の山門が角に見える。義満の正室の叔母にあたる日野宣子は、無学祖元の弟子・意翁円浄に参禅し、貞治7年(1368)に出家して、大聖院無相定円尼と号した。将軍義満は安禅所として室町邸内に建てられた岡松殿に無相定円尼を迎えた。永徳2年(1382)57歳で亡くなると,その遺言に従い岡松殿を法名にちなんで大聖寺とした。創建以来、応仁の乱等の兵火に度々遭い移転を重ね、長谷(現在の岩倉長谷街)から、文明11年(1479)毘沙門… ►続きを読む

 

足利将軍室町第址

 

足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちていあと) 2008/05/13訪問 足利将軍室町第址 今出川通から室町通に入る北東の角に建つ  京都御苑を今出川門から出て、烏丸今出川の交差点を渡る。今出川通から室町通に入る北東の角に大正4年(1915)京都市教育会が建立した碑が立っている。ここには      「従是東北 足利将軍室町第址」 と記されている。ここが室町幕府 花の御所の西南の角に当たる。  足利幕府の将軍の邸宅がどのように変遷して行ったかについては、「はむはむ」さんのブログ(http://djungarian.typepad.jp/weblog/2007/03/post_b… ►続きを読む

 

塔の島と橘島

 

塔の島と橘島(とうのしま と たちばなじま)  2008/05/11訪問 搭の島 十三重の搭  縣神社を出て、あがた通を大津方面に左折し道なりに進む。平等院の裏側を過ぎると宇治川と2つの島が現れる。下流側の大きな島は橘島、上流側の小さな島は塔の島あるいは浮島と呼ばれている。この2つの島を含めた中洲地域を塔の島地区あるいは中の島と表わすこともあるからややこしい。この2つの島と岸を結ぶため、4つの橋、喜撰橋・中の橋・朝霧橋・橘橋が架けられている。 搭の島 喜撰橋 搭の島 喜撰橋から平等院側の岸を望む  まず朱の高欄に擬宝殊のある喜撰橋を渡り塔の島に入る。平等院側の岸には鵜飼舟の船… ►続きを読む

 

宇治橋

 

宇治橋(うじばし)  2008/05/11訪問 宇治橋 下流側より  放生院から再び宇治橋東詰に戻り、宇治橋を渡る。 宇治橋 下流側より 宇治橋 東詰め 宇治橋 橋の由来  宇治橋は放生院で触れたように、大化2年(646)に宇治川に架けられた橋である。滋賀県大津市の瀬田川にかかる「瀬田の唐橋」と京都府大山崎町の淀川にかかっていたといわれる「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つに数えられている。  現在の橋は、長さ155m、幅25mで平成8年(1996)に架け替えられたものである。擬宝珠を冠した桧造りの高欄という伝統的なデザインは、この地を訪れた人々に宇治の歴史を感じさせるの… ►続きを読む

 

納所と淀小橋

 

納所と淀小橋(のうそ と よどこばし)  2008/05/11訪問 納所と淀小橋 淀小橋跡  辨慶淀店から旧京阪国道を70メートルほど南西に進むと納所の交差点に出る。 納所と淀小橋 納所交差点 中央の道が府道204号 納所と淀小橋 納所交差点 中央に入っていく道が千本通  納所の交差点には6方向から道が入っている。旧京阪国道の府道13号が北東から入り、南西に出て行く。これに府道204号、府道125号、府道124号と千本通の4つの道が交差点に入り込んでいる。府道124号は中書島を起点にほぼ京阪本線と併走する道であり、また千本通は北区鷹峯から始まるが、九条以南は鳥羽街道とよばれて… ►続きを読む

 

井上源三郎埋葬推定地

 

井上源三郎埋葬推定地(いのうえげんざぶろう まいそうすいていち)  2008/05/11訪問 井上源三郎埋葬推定地 辨慶淀店  八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地から再び府道124号を納所交差点方向に戻る。途中、右に折れると小さな流れが現れる。護岸は整備されていたが、昔は湿地帯の中をこのような小川が無数流れていたのではないだろうか。 納所 小さな小川  橋を渡り、UR都市機構伏見納所団地の中を進む。旧京阪国道に出る箇所に、五輪塔型の鳥羽伏見之戦地跡地碑と書かれた碑がある。建立者が明記され、昭和47年(1972)に建てられたことも分かる。八番楳木の戊辰之役東軍戦死者埋骨地が昭和45年… ►続きを読む

 

寺田屋

 

寺田屋(てらだや)  2008/05/10訪問 寺田屋 大きな提燈に屋号が書かれている  長建寺の山門をくぐり、目の前に広がる濠川の川面に降りていく階段を下りていく。対岸の月桂冠の酒蔵と濠川の流れを見ながら次の蓬莱橋まで歩いていく。蓬莱橋のたもとで再び地上面に上がると橋の先に寺田屋と書かれた提燈が掛けられた町屋が目に入る。既に開館時間を終了しているため、こちらも外からの見学となる。 寺田屋 寺田屋 西側から蓬莱橋方向を望む  寺田屋は南浜に面する船宿である。いつからこの地で船宿を始めていたのかは明らかではないが、寺田屋のパンフレットには、慶長2年(1597)に百姓伊助が伏見京… ►続きを読む

 

伏見奉行所址

 

伏見奉行所址(ふしみぶぎょうしょあと)  2008/05/10訪問 桃陵団地と伏見奉行所址を示す石標  魚三楼の前から京町通をさらに南に50メートル緩やかな坂町を下ると東西に走る魚町通に出る。ここを左折し近鉄京都線の高架をくぐると目の前に伏見の町並みに調和するように屋根を載せ、妻面を黒板張り風に仕上げた集合住宅群が現れる。これが伏見奉行所の跡地に建設された京都市営桃陵団地である。団地の西側の入口には3つの石碑がある。 桃陵団地の発掘調査を示す碑  一つ目の石碑は上部に笠を載せたようなデザインで、説明文とともに2枚の写真が印刷されている。桃陵団地の歴史を説明するために設置されたようだ… ►続きを読む

 

魚三楼

 

魚三楼(うおさぶろう)  2008/05/10訪問 京町通の魚三楼 暖簾の右側の格子に弾痕が残されている  御香宮神社を後にし、再び大手筋の大鳥居をくぐり、西に向う。近鉄京都線・桃山御陵前駅の高架と京阪電鉄・伏見桃山駅の踏切との間の百メートルに満たない地域の中央を京町通が通っている。大手筋から左折し京町通に入り南に30~40メートル進むと、道の右側に「魚三楼」という軒行燈を掲げた間口の広い商家が現れる。  魚三楼のHPによると讃岐出身の三郎兵衛が江戸中期 明和元年(1764)に創業した料亭。伏見港に揚がる瀬戸内海の魚や京野菜と伏見の豊かな湧水を使い、各藩の大名屋敷の料理方などを務めてきた… ►続きを読む

 
 

サイト ナビゲーション

過去の記事

投稿カレンダー

2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

カテゴリー